10
六月の中旬に差し掛かり、制服は半袖に衣替えした。しかし、連日あいにくの雨模様が続き、そろそろ梅雨入りなのだろうかと、真歩は空を見上げては憂鬱になっていた。
突然斎藤が学校に来なくなったのは、そんなある日だった。その次の日も、また次の日も、斎藤の席に座る者は誰もいなかった。一日一日経過していく度、真歩はどんどん陰鬱になっていった。
それに追い打ちを掛けるかのごとく、マリアの様子も日に日におかしくなっていった。授業中、意味もなく外の気配を気にしたり、笑顔もどことなくぎこちない。誰かと話しているときもいつも上の空だった。それは、真歩であっても例外ではなかった。
「それで私が――――聞いてるマリア?」
「・・・・・・ああ、ごめん。ぼけてた」
申し訳なさそうに苦笑するマリアを見れば、不意に胸騒ぎを覚えた。夕焼けが薄い夕闇に飲み込まれようとしている空模様もまた、真歩の心を不安にさせるのだった。
ついに我慢の限界を迎えた真歩は、今日こそマリアに問い詰めようと強い決意をしていた。わざわざ部活を休んでまで、こうしてマリアと一緒に帰宅しているのも、全てはそのためだった。
「何かあったの?」
サスペンス・ドラマで刑事が容疑者に探りを入れるように、真歩は尋ねた。
「ううん、別に」
「嘘」
「嘘じゃないって。心配しすぎなんだよみんな。ちょっと風邪気味だから、ただそれだけ」
マリアはこの日、五時間目を保健室で休んでいた。飛び抜けて明るく、かつ健康だけが取り柄のような人間だったから、クラス中はちょっとした騒ぎになっていた。
「そっか」
真歩は傘をぷらぷらさせながら、黙り込んだ。レンガが埋められた歩道のすぐ横は、あせあせと車が帰り道を急いでいる。びゅん、びゅんと、二三回車が横切った後、マリアの目の前に立った。
「――――斎藤さんと、何かあったの」
足を止めたマリアの顔が、一瞬、ぴくりと動いた。しかし、また落ち着き払った朗らかな老婆のような表情になって、「全然」とマリアは首を振る。
「何か、あったんでしょ」
さっきより口調を強め、真歩はマリアを見下ろす。彼女の背景には、黒い海の漂っているみたいな空があった。すると、マリアの金髪も、輝きを失った宝石のように見えた。
「好きです、って言われたの」
マリアは哀れむような、寂しいような、何とも言えぬ表情を浮かべていた。視線は道端に生える雑草に向けられ、風が吹くと無造作に髪を抑える。真歩もまた、少しばかりは驚いたものの、平然と構えていた。前述のように承知済みであり、それより先の答えを求めていた。
「で、どうしたの」
マリアは少し躊躇って、その間に車がびゅんと過ぎ去っていくのを確認してから、口を開いた。
「断った」
ごくり、と喉が勝手に鳴る。斎藤が不登校になったのを考えれば、大方予想はついた。だが、改まって本人から言われると、その衝撃はやはり凄まじかった。真歩は佇んだまま、うんんともすんとも返せなかった。
驚いたのは確かだ。しかし、それは何色だと聞かれると、明確ではなかった。悲しみ、哀れみ、怒り、喜び。全ての絵の具がパレット上に溶かれ、何者とも思えない、不気味な色を見せていたのだ。
「なんで」
やっと出てきた答えを、マリアは間髪入れず返した。
「私、約束したじゃん」
「約束・・・・・・」
「私は真歩の事嫌いにならないから、真歩はマリアの事嫌いにならないって」
「いや、そうだけど」
何の関係があるのか、真歩にはすぐに理解できなかった。そんな真歩に、出来の悪い生徒を叱るよう、マリアは優しく諭すのだった。
「特別誰かを好きになるってことは、誰かをその分嫌いにならなきゃいけないでしょ。嫌いになるのも、嫌われるのも。私はいやだから」
そこまで話すと、マリアはぱっと顔を輝かせ、「はー。真歩に話せてすっきりしたかも」と声を弾ませた。しかし、真歩は相変わらず曇り模様の顔色を浮かべながら、声を出すこともできなかった。
とうとう世間では梅雨入りが発表され、じめじめと湿気漂う日々が始まった。真歩は一向に晴れない面持ちを抱え、マリアの本意をずっと考えていた。マリアはあの日以来、ネジをまき直したオルゴールみたく、いつものように人だかりの中心に立ち、皆とわいわいと話していた。その輪の中に、また学校へ来るようになった齋藤が入っても、違和感なく譜面通りの旋律を奏でていた。
その光景を見ると、真歩は何だか切ない気持ちになった。嫌いになるのも、嫌われるのも、いやだ。輪の中に混ざるマリアが、一瞬哀しそうに見えたからなのかもしれなかった。