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「霞草」
庭先に植えてあった霞草が花を咲かせ始めた。伊吹真歩は、学校から家に帰る度、この霞草を見るのが癖だった。肥料たっぷりの土壌から、細い体を命一杯伸ばして花を咲かせている。それが何百何千、鬱蒼と生えていて、地面を覆い隠していた。一つ一つの花がとても小さく、遠くから見ると雪の粒がうっすら積もっているようにも思える。
「霞草の花言葉って知ってる?」
しゃがみ込んで霞草をのぞき込んでいると、昔、誰かにそう言われたのを真歩は思い出した。艶やかな金色の長髪を揺らし、彼女は小首を傾げている。真歩は一本の霞草を手に取り、細い首をそっと撫でた。
「無邪気とか、清らかとか・・・・・・確かそんなんじゃなかったっけ」
真歩がそう答えると、彼女――――横尾マリア(よこお まりあ)は目を見開き、口をぽっかりと開けて小休止した。
「おーい。マリアさーん」
「すごーい! なんで知ってるの真歩!」
マリアはキラキラと目を輝かせ、真歩に飛びついた。ギィ、と椅子が悲鳴を上げ、放課後の教室に響き渡った。教室と言っても、普通の教室ではない。今はもう使われなくなった旧校舎の一室であり、写真部の部室でもあった。ひびの入った皺だらけの床や、曇って字も目立たない黒板、隅に追いやられた椅子と机。時代に置いて行かれた古びたガラクタが、窓から差し込む夕陽に照らされると、宝石のように眩しく輝いていた。
しかし、真歩にはこの儚き美を嗜む余裕など、微塵たりともなかった。彼女の胸に寄りかかってくるマリアの感触。制服越しにも伝わってくる確かなこの感触が、彼女の思考を奪っていた。首には腕が絡められ、マリアの金色の髪が目と鼻の先にあった。艶めかしい、爽快な香りが鼻腔をくすぐって仕方がない。それらを認識する度、体が熱を帯びてくるのが嫌でも分かった。
「家の庭にあるから知ってるだけだよ。ほら、暑苦しい」
真歩は、できるだけマリアを見ないよう、ぐいと自分から放した。
「えーいいじゃん。女の子同士なんだからさっ」
「そういう問題じゃないでしょ」
「真歩はマリアの事、嫌いなの?」
雨に濡れた子犬のような、そんな悲しげな目をされたら、返す言葉がなくなってしまう。
「嫌いじゃないけど・・・・・・」
「良かったー」
先ほどの表情が嘘のように、うふふとマリアは目を細めて笑う。つくづく罪作りな娘だと、真歩は思わずにはいられなかった。マリアは棘のある霞草だった。可愛げのある花に見惚れ、思わず手を伸ばしてしまうのだが、その瞬間ちくりと痛みが走って指には血が流れている。残るのは後悔と、痛みだけだった。
いつからマリアに棘が生えたのだろうか。思い返せば、決定打というものはなかった。しかし、少しずつ少しずつ。二人の知らない間に成長していたのかも知れない。