二
空のオレンジ色は、やがて夜に染まって黒くなった。それと同じくして、粒々とした明りがちらほら見えはじめてきた。
ぼくは携帯電話を開いてメール作成の画面を表示させると、一言『星、好きですか?』とだけ入力した。それだけで携帯電話を閉じた。
暖かい恰好をし、手には所々傷ついている双眼鏡を持ってぼくは家を出た。ドアを開けると厚着をしていても寒風が身を刺した。夜空を見上げてみると、街灯の明かりが強くぼくの周辺を照らしているため、その黒色は、空というよりもぽっかり穴があいているだけのように感じた。
住宅街を抜けると田んぼが一面に広がった。田んぼと田んぼのあいだに、この付近から学校へ通っている小学生や中学生たちが、会話を長引かすために寄り道する畦道がある。ここまで来ると、辺りに街灯はなくなる。ずっと暗いが、そのぶん空には星がよく輝いて見える。その中から三つ星が目印の《オリオン座》を見付けた。そこから【冬の大三角】たる〈プロキオン〉、〈シリウス〉、〈ベテルギウス〉を結びつけた。今日もよく見えている。オリオンの腰辺りには、【オリオン座大星雲】という剣と鞘が見えている。
――彼女には、それが見えているのだろうか?
きっと、見えているのではないだろうか。だと、いいな。
しばらく畦道を歩いていると、四つ辻の辺りに人がいるのが目視できるようになってきた。さらに近付いていくと、それが堤であることがわかった。やっぱり、と安心した。四つ辻に差しかかったところで、堤の手が動いて明りを放った。一瞬目を細めたが、すぐに眩しさはなくなり、ぼくらの足元が楕円形に照らされた。彼女の手には懐中電灯が握られていた。
「びっくりした。恒野くんか」
堤はほっとしたような声で言った。きっとだんだん近付いてくるぼくの影に、不安を抱いていていたのだろう。ぼくは挨拶代わりに片手を挙げた。彼女も片手を挙げた。
「どうしたの。散歩?」
ぼくは首を振り、携帯電話を取り出した。それを開いて、画面を彼女に向けた。彼女は首をかしげながら近付いてきて、その文面を眺めた。すぐに顔を上げて、「うん、大好き。恒野くんも?」と聞かれた。すかさずうなずくと「そうなんだ」と笑った。
「じゃあ、天体観望に来たの?」
彼女はぼくが首から下げている双眼鏡を気にしながら聞いてきた。それにもうなずいた。
「私も。へぇ、恒野くんも星とか見るんだ。てっきり、私の周りには天体とかに興味を持つ人はいないんだと思っていた」
ぼくも同じことを思っていたので、『ぼくもです。』と携帯電話に打ち込んで見せた。
「不思議。私以外にも、こうして星空を見上げるのが好きな人がいるのって」
なんだか、安心する――
暗くてよく見えないけれど、堤が頬笑んでいるのがわかる。きっと、堤は今夜の天気が気になったから空を見上げて、それは星を見るためなんじゃないかと勘付いたぼくが感じた嬉しさを、彼女も感じたのだろう。
「じゃあ、ねぇ、覚えてる?」
堤が空を見上げるのがわかった。ぼくも同じように空を仰いだ。《オリオン座》が泰然と横たわっている。
「小学生のとき、宿題で天体観測っていうのがあったでしょ? そのときはまだ私、あまり天体に興味はなかったんだけれど、夜に外に出られるってだけでうきうきして、その日は早く夜にならないかなって楽しみにしていたことがあるの」
それはぼくにも覚えがある。確かそのときぼくと堤は同じクラスだった。
「それで夜になって、お父さんと一緒に外へ出たのね。それでここまで来たの。季節は春から夏に変わるころだったから、今見えている景色とはまた違ったんだけれど」
【夏の大三角】が見えていた。【天の川】はよく見えなかったけれど、夜空に浮かぶ三角形はとても目をひいた。
「そのときね、ベランダから空を見上げている恒野くんが見えたの」
外へ出なくてもベランダから見られるでしょ、と親から言われ、文句も言えるわけもないからベランダから空を眺めた。そのとき、今こうして首からかけ、当時はまだ真新しかった双眼鏡を使って星を見た。ぼくが天体に興味を持ちはじめたのは、その辺りだったような気がする。
「それで、見ていたんだよね」
堤は双眼鏡を指差した。
「いいなって、思ったんだ。あれで夜空を覗くと、いったい何が見えるんだろうって気になった。私も見たいって、本気で思ったんだ。きっときっと、素敵な色や景色が広がっているんだろうなって。それって、いいなって」