4、謎のクラスメイト
世は夕食時、テレビで言えばゴールデンタイムのど真ん中である7時30分。この完全下校時刻もぶっちぎりで過ぎた時間帯に、俺たちは未だに学校の保健室に居続けていた。助けた女の子を保健室に預けてサヨナラ、というわけにもいかないので俺の傷の手当てもしながらその女の子が気が付くのを待っていたわけだ。しかし、実際にその子が起きてみたら酷かった。
「なんでそんなに怒るかなー? 落ち着かないと朝までもたないよ?」
「だからー! なんでお前はそういう方向に持って行こうとするんだよ!?」
暗に卑猥なイベントを連想させる表現のオンパレード。幼児体型の、か弱いイメージの見た目からは想像もつかない言葉の数々。人を見かけで判断するなとはよく言ったものだ。たったこの数時間で、改めてそれを思い知らされた。気絶して眠っている時の彼女がもはや懐かしく感じて来る。あのころは良かったなぁ、と老人のように遠い目をしたくなってしまう。そのくらい、この目の前の少女が起きる前と後で場の雰囲気は一変していた。
対して蒼はといえば、しきりに首をかしげている。彼女は、普段から極端に恥ずかしがり屋だ。クラスのおてんば娘が言うには、女の子同士で着替える時すら真っ赤になり、壁の方を向きながら着替えているらしい。そんな蒼がこの体操着の少女のセリフなんて聞けば、毎度の如く顔を紅く染めて口をぱくぱくさせていそうなものだが、今回はそうはなっていない。むしろなんで俺が怒っているのかが不思議そうで、蒼が何かを聞こうと口を開くたびに俺と体操着の少女の口論に上手く入り込めずに、小さく縮こまってしまっている。どうやら蒼には体操着の少女が放つ言葉の真の意味は伝わらないようだ。
「そういうキミだって、さっきあたしの胸触ってたじゃん!!」
「ッ!? なんで知ってんだよ、お前気絶してただろ!?」
「えっ」
「えっ?」
俺の発言に、少女の顔が固まる。ついでに蒼の顔も固まる。女2人に見つめられて、俺は滝のような冷や汗をかく。
(……くっそ、ハメられたぁぁあああ!!)
今のはあれか、彼女の卑猥かつ被害妄想な発言の1つに過ぎなかったのか。あの忌まわしい不慮の事故をこんなにも唐突にバラす結果になるとは思いもよらなかったぞ。
「ホントに触ったの!?」
少女はびっくりしたように言い返した。彼女の顔もそうだが、蒼にも信じられないという顔つきで見つめられて心が折れそうなんですけども。
「い、いや、あれは事故ったっていうか……」
「触ったんだ……」
くっそ、こんなときだけ女の子っぽく責め立てるんじゃねぇ、この変態女!
「で、でも触りたくて触ったわけじゃないと言いますか……その、ごめんなさいッ!!」
すぐさま俺は頭を下げた。とにかく、ここは謝って状況の改善に努めるしかない。そんな俺に対し、少女は眉ひとつ動かさずに口を開いて――
「で、感想はー?」
「感想聞いちゃったよこの人!?」
お前は平然と何聞いてんだ空気読め。やっぱこの子は怖い。これからはなるべく彼女には喋らせないようにしよう。そうしないと俺が殺される。過剰な卑猥発言によって過労死する。
と、冗談はこれくらいにして。そろっと尋問タイムと行こう。そう思ってマジメな顔をしてみると、少女もその一見大人しそうに見える垂れた目を頑張って吊り上げ、難しい顔を作った。
「それで、お前は……」
そこまで言って、聞きたいことが頭の中で迷子になった。この子の強烈なキャラに圧倒されたのか、それとも単に聞きたいことがありすぎてどれから聞けばいいのか分からなくなったのか、言葉につまってしまう。散々迷った結果、
「誰だよ、お前?」
と何とも答えづらい質問になってしまった。誰ってなんだよ誰って。
「あたしは――
少女は俺の質問を受けて、臆することなく、迷わずに答えた。
「――人間だ」
「舐めてんのかてめぇ」
ドヤ顔で揚げ足まで取って来やがった。一回キレて良いかな、この子に。
「ペロペロしていいの!?」
「そういう舐めるじゃねぇよ」
この子はあれか、人をおちょくるのが好きなのだろうか。人のことはまったく言えないが。
だがしかし、俺は今あくまでマジメな話がしたいんだよ。
「そんな誰が見ても分かることはどうでもいいから、マジメに答えてくれよ」
「えっ!!?」
急に少女が声を張り上げ、俺は意表を突かれた。一瞬、また俺のセリフの揚げ足取りをしたのかと思ったが、今回はどうも違ったらしい。
携帯電話に驚いた蒼並みの大声を上げた後、少女はまるで俺から死の宣告を受けたかのように、俺をびくびくとした驚きの眼で見つめてきた。急に少女の態度がまともになったのには驚いたが、今の会話の何が彼女をそうさせたのかが俺には分からない。その少女の豹変ぶりに驚いて、俺もうっかり息を詰まらせて黙ってしまった。
「じゃ、じゃあ名前はなんていうの?」
今度は蒼が優しく問いかけた。蒼は人見知りなせいか少女に対してもあがり症が発動しており、少し声が上ずり、どもっている。まぁしかし、正当な質問をこのタイミングで投げかけたのは、蒼にしてはグッジョブだ。なぜなら途切れた間を繋ぎ、体操着の少女特有のテンポに持って行かれてずるずると長引くのが防がれたのだから。
少女は蒼をじーっと見つめて、蒼も初対面の人に見つめられて少しビクビクしながらも見つめ返している。
「ねぇ」
少女は蒼にじりじりと詰め寄り、蒼は少女の接近にことさらにビクビクする。
「な、なに?」
少女との距離が鼻先一寸ほどに迫った時ようやく、蒼はまるでそれ以上の少女の接近を拒むかのように聞いた。どうも、蒼は焦りすぎて少女の質問が脳に到達するまでの時間が遅くなっている模様である。
「なんで、そんなに赤い顔してるの?」
眉をひそめながら、少女は蒼に聞いた。少女は不思議そうに蒼の顔を覗き込んでいる。それも、後ろから頭をたたけばそのまま蒼とキスでもしてしまいそうなくらいの近距離で。なんだこのガールズラブ。
そして、そんな近過ぎる距離で見つめてしまえば、蒼は顔は真っ赤、頭は真っ白になるのはもう自明の理だ。グーに握った手を、まるで体操着の少女と自身とを隔てる壁にするように胸の前に置き、口は泡でも食っているように「ふわわわわ……」と言葉にならない声を出している。
少女は蒼の赤面の理由を知りたがって顔を近づけ、蒼は顔の接近に戸惑って何も言えなくなる。蒼が何も言わないので少女はさらに接近、という素晴らしい悪循環に陥っている。なんだこの状況?
「離れろよ。そいつは人見知りが激しいんだよ」
この2人だけじゃループから脱出できそうにないので、助け舟を出すことにした。蒼も俺の言葉を聞いて、藁にもすがるようにぶんぶんと縦に首を振った。
「……ふーん……」
それに対し、体操着の少女は怪訝そうな顔をする。でもなんとか納得してくれたのか蒼の元を離れれ、蒼はホッとしたように胸をなでおろした。
なぜ、彼女は蒼の顔が赤い理由なんて気にするのだろうか。
「つーか、蒼の質問に答えろよ。お前の名前は?」
「名前を聞く時は自分からでしょ、j k!」
とことん癇に障る女だな、と思わずにはいられなかった。ついでにいえば、この少女に常識を語られたくはない。でも少女の指示に従わないと面倒なことになりそうなのでとりあえず合わせることにした。
「……飛鷹 青志だ」
「し、嶋原、蒼です」
「せいじっちにー、あおいっちかー。えへへ、よろしくね!」
「『っち』っておい」
満面のスマイルで挨拶する少女に対し俺はつっこむ。これが彼女の他人の呼び方なのだろうか。
「で、今度こそ言えよ、お前の名前」
「あ、そうだね!」
少女はそう言って、ベッドの上に腰かけた自身の身体を向き直らせた。
「籠内 ことりです。よろしく!」
甘えるような笑みを浮かべて名乗る体操着の少女。なかなか珍しい名前な気がする。でも、ようやく少女の名前を聞けてほっとした。これで呼びやすくなる、はず。
「籠内かー。それで、籠内は――
「待って! あたしのことは名前で呼んで! 名字で呼ばないで!」
「え、なんで――
「いいから!」
本人は凄んでいるが、垂れ目のせいか童顔なせいか、全く緊迫感が出ていない。この娘がなんで呼び名を名前で呼ばせようとするのかは知らないが、本人が言うんなら別にいいか、と思った。この娘には名前以上に聞きたいことがいっぱいあるのだ。名前なんていちいち固執している場合ではない。
「分かったよ。で、えっと……」
「ことり!」
「……その、ことりはなんで……」
と、そこまで言って、再び俺は黙った。さっきのように言葉が頭の中で迷走したわけではない。気にかかったのだ。彼女の名前が。どこかで聞いたことあるような、そんな感じ。
「あ、あれ? ことりって名前、もしかして……」
蒼の言葉に、俺は思わず耳を傾けた。どうやら蒼は俺と同じ考えにたどり着いただけでなく、その答えにもたどり着いたようだ。
「――不登校でいきなりクラス名簿に出てきた、あの子?」
「…………あぁぁあああああっ!」
蒼に言われてようやく思い出した。今日の昼休みに、ちょうどその謎のクラスメイトについて話していたではないか。
我がクラスの片隅にある空席、クラスの名簿に加えられた存在しないはずの生徒の名前。先生に聞けば不登校なだけだと言うが、誰も座らない机も名簿の名前も生徒たちに何の通知も無しに、4月の入学式ではなく5月のゴールデンウィーク明けに唐突に現れた。
ちなみにうろ覚えだが、その不気味な生徒の名前は名字は忘れたが名前は「ことり」、とか言った気がする。
その謎のクラスメイトがこの女の子だというのか。
「うにゅ? ……あぁ、そういえばあの人が勝手にあたしの入学手続きしちゃったみたいだね。あたしがこの学校に居ても不自然じゃないように、とかなんとかって」
「あの人?」
「うん、朱鷺子さん、とか言ったかな? 嶋原 朱鷺子さん!」
おい、その人って……
「そーそー、そういうこと!」
急に声が背後から聞こえ、俺と蒼は後ろを振り向いた。振り向いた目の前、保健室の入口の引き戸の所に、白衣を着て紫がかった長い黒髪の女性が立っていた。
保健室の担当教員、嶋原 朱鷺子の襲来(?)であった。