1、跳べない鷹
空は青い。雲ひとつない透き通るような青がどこまでも広がり、澄みわたる空には鳥が優雅に飛んでいる。昨日の曇天が嘘のようで、その目の前に広がる蒼に吸い込まれそうになるほどだ。
そして俺のちょうど真上には、昼間にたまに見つける白い月が、雲が全くないただ青が広がる空に浮かんでいる。青の中に1つだけ白く浮かぶそれはとても綺麗で、だけどどこかおぼろげで儚げで、どこか寂しげだった。
この月の名前、なんだっけか。以前調べたことはあったが、その時はそのまんま「昼の月」だの「白夜月」だのいろいろ出てきて、よく分からなくなって止めたのを覚えてる。月というものは、決まった姿を持たないのと同様に決まった名前も持たないものなのか、と再確認する。
ふと、自分はなんでこんなことを考えてるんだと我に帰った。何かを考えることも無く、俺の脳はふらふらと取り留めを無くして目に入るモノに考える拠り所を求めるだけだった。
それにしても今日はいい天気だ。ゴールデンウィークが終わってしまったので心は憂鬱だが、それを打ち消すほどの気持ちよさがいまのこの場にはあると思う。
「あ、あの、青志くん? 跳ばないの?」
「…………」
なんか来たけどとりあえず流してみる。
「ねぇ、青志く~ん……」
「…………」
「お~い……」
「…………」
「みなさ~ん! 青志くんのこの前の生物の点数はよんじゅうy
「分かった分かった起きますよ言いふらすのはやめてください!」
俺はガバッと跳ね起きて叫んだ。
「ひゃっ!?」
すると、目の前に立つ女が叫び声をあげ、俺はそいつを見上げた。学校指定の赤い体操着(男子が青、女子が赤である)に身を包み、クリップボードを抱えた女の子。俺が見上げているのは彼女よりも身長が低いのではなく俺が地べたに腰かけているからだ。その子は少し紫の入った黒髪で、まるでチワワか何かのような、小動物と同じような瞳でこちらを見つめて来る。彼女は抱えたクリップボードに顔をうずめ、お陰で顔は目の辺り以外はほとんど見えない。わずかに見える頬はかなり赤かった。この子に初めて会った人は何を恥ずかしがってるんだ、と思うかもしれないが、これがコイツの標準的な顔色だったりする。とはいえ恥ずかしがっていない、と言うのも間違いで、早い話がコイツはあがり症なので常に恥ずかしがってて顔が赤いのだ。名前は、嶋原 蒼と言う。陸上部のマネージャーである。
「おい、てめぇ俺の弱み使って俺を強制起動させといて驚くとは何事だ」
お前は『コイツ、動くぞ!?』とでも言いたいのかコラ。
「そ、そこまで活きの良い反応されると思ってなくて……」
俺は魚か。
「な、なにしてたの?」
クリップボードを口にあてがっているため、彼女の声が若干くぐもって聞こえる。まずはそのクリップボードを取ろうか蒼ちゃん。ちょっと聞き取りづらいわ。
この子の説明を付け加えるとすれば、コイツは俺の幼馴染……と言い切っていいのだろうか。とりあえず結論だけ言えば、小学校はずっと同じクラス、中学校からは俺が親の事情でコイツの家に居候させてもらっている。こう聞くと、同じ屋根の下に暮らしてるってことで夫婦だのなんだのと呼ばれそうだと思うかもしれないが、あまりそう言うことは無い。せいぜい、話のネタとしてそうからかわれることがある程度だ。人にからかわれることなど、むしろそれを利用してネタにしてしまえばなんとでもなる、というのが俺の信念だったりする。
「え、あぁ、いやぁ、暑くてさ」
と、俺はとりあえず取ってつけた言い訳をしてみる。
「それはみんな一緒でしょ?」
「それにちょっとだるいし」
「昼休み、あんなに元気だったのに?」
「あと、まだユニフォームじゃないし」
「正直に言ったらどうなの?」
「……サボタージュです、はい」
観念するしかなかった。普段コイツはもじもじ、そわそわしてるくせに、言って来る時は本当に核心をついてくる。
蒼が始めに言った、「跳ばないの?」という発言、これはハードルのことだ。今は放課後の部活、場所は学校の近くの陸上競技場。現在、我々 羽間高校陸上部の活動中で、俺はハードルが専門分野で練習中というわけだ。
と、それは結構なのだが、ぶっちゃけ最近、わたくし飛鷹 青志はスランプ状態なわけだ。高校生活が始まって1カ月と1週間相当の時が経つが、なぜかハードルを跳べなくなってしまっているのが現状だ。何があったわけではない。事故って怪我したわけでもなければ、何か過度のストレスが降りかかってきたわけでもない。何が原因か分からないからこそ、こうしてグダっているわけだ。だからこそ練習に参加しても、こうして陸上競技場のトラックのスタートライン数メートル後方で、ぐで~んと寝そべって空を見上げて暇を持て余していたわけだ。
そして、蒼はといえば俺のハードル走のタイムをストップウォッチで測る係だったのに俺が跳ばないものだから、催促に来たというわけだ。
「と、跳べないのは分かるけど、一応それでも姿勢は見せた方がいいと思うよ? 跳べないなりに頑張れば跳べるようになるかもしれないじゃん」
相変わらず、蒼はクリップボード越しの声を俺に届ける。赤い顔なのもそのままだ。かれこれ9年も一緒にいるのに、少しはスキンシップに慣れないのかと聞きたくなる。
「跳べないモノを跳べとか、お前、俺に脚を折れと言うのか?」
わざと古風な感じで言ってみる。まぁ、練習用のソフトハードルはバーの部分がしなるようになっており、ほとんど怪我をすることなど無いのだが。あくまで冗談である。
「え? そ、そんなふうには……」
冗談すら真に受け、あせあせと戸惑う嶋原 蒼。この娘は本当にからかいやすい。クラスでもコイツは、いじられていることが多い気がする。その汚れ無き性格と見た目から、男女問わず人気なので問題はないと思うが。
「焦るな、冗談だから」
「そう、なの?」
目を丸くして、蒼は遠慮がちに呟いた。少し安心したのか、ようやくクリップボードを口から外して胸に抱えた。お陰でやっと、蒼の顔全体が見えるようになった。校則として我が校はメイクが禁止なのだが、よく「うっすらと化粧をしてるのか」と間違えられるほどに白くて、ほど良く赤い綺麗な肌をしている。他の女から見れば羨ましい限りらしい。
「よかった」
不意に、蒼は口角を上げて笑いかけてきた。特に何と言うこともない笑顔なのだろうが、さっきまでの赤らめた顔のまま不用意に笑いかけて来るのは反則ではないか、と俺は不本意にも少し赤くなってしまった。
「あれ、どうしたの? 顔赤いよ?」
うるせーよはっきり言うなバカ恥ずかしい。なんてこと言ったら泣くかコイツ。
「気にすんな、気のせいだ」
言葉に棘の入らないようにちょっと気を遣って言ってみたら、気にしないでいいのか気のせいなのかどっちか分からなくなってしまった。
「ふ~ん、そう?」
俺の日本語崩壊にすらノータッチと来た。まぁ、元よりコイツにツッコミは期待していないが。
「っていうか、なんで跳べなくなるほど昼休みにあんなに大騒ぎしてたの?」
ちげーよ俺のこれはスランプなんだって昼休みのは関係ねーよ。と、荒い口調のツッコミを心の中で言っておく。っていうか昼休みのアレがなんでハードル跳べなくなることに繋がると思ってるんだコイツは。
昼休みの大騒ぎ。これはただ、クラスの男子と、謎のクラスメイトについて盛り上がっていただけだ。我がクラスの片隅に空席があり、そこに座る人はいないのにいつまでも置いてあるのだ。そしてクラスの名簿にも存在しないはずの生徒の名前が常に刻まれている。先生に聞けば不登校なだけだと言うが、誰も座らない机も名簿の名前も4月の入学式ではなく5月のゴールデンウィーク明けに唐突に現れたのだ。生徒たちに何の通知も無しに。これでは変なうわさが飛び交っても仕方ない。ちなみにうろ覚えだが、その不気味な生徒の名前は名字は忘れたが名前は「ことり」、とか言った気がする。印象的であまり聞かない名前だったのでよく覚えてる。可愛らしい名前なのが逆に不気味さを増強させていた。
「あ、ち、違うんならいいんだよ? 別にそんな深い意味じゃないっていうか……」
俺の思ってることが顔に出たのか、蒼が慌てて言葉を訂正した。
「うわひでーな、さっきのと言い人の弱みを突いてくるとか」
ちょっと面白そうなので、おちょくってみる事にした。言うほど気分を害してはいないのだが、蒼の場合はこう言えば信じてしまうだろう。
「え、そ、そんなことしたつもりじゃなくて……」
案の定、騙されてしまった嶋原さん。再び顔の半分をクリップボードで覆い、あせあせと状況の打開に苦悩している。もしかしたらコイツ、詐欺とか簡単にひっかかってしまうのではなかろうか。
「うわ、もっと人の気持ちとか考えろよ」
言ってみたものの、コイツは人の気持ちを十分に考えてると思う。蒼は考えすぎて感じ取りすぎて傷つくタイプだろう。むしろ考えてないのは今の俺だ。
「ご、ごめんね! そんな気はなかったんだけど……許して! お願い!」
……ここまで真剣に謝られると、もはや罪悪感しかしなくなる。これでもし俺の意図を読んで逆手に取っていたとしたら相当立派な話術だ。これじゃ、面白さのかけらもない。
「嘘だ、ウソ。怒ってないからそんな必死になるな」
結局、謝ることにした。逆にかわいそうになってきたので。
それに対し、蒼はと言えば、
目じりに涙を浮かべていた。
「う……うぇぇ!?」
俺はぎょっとして跳ね起き、立ち退く。蒼は眉をハの字に曲げて瞼をピクピクと動かし、唇を噛んでいる。だんだん目の辺りが赤くなってきて、噛んだ口の奥で嗚咽を飲みこんでいるのか、首が時折ひくっと動いている。
な……なんだこの緊急事態!? ただコイツの反応を見て楽しんでやろうというちょっとしたSな出来心だったのに、何が嬉しくて緊迫ムードに包まれないかんのだ!?
「おい……ちょっ、蒼?」
「……よかったぁ……」
蒼の涙声に、俺は唖然となる。お前、突然泣き出して「よかった」とは何事だ。
「私、また青志くんを傷つけたかと思ったよ……」
ちょ、おま、そんなことで泣きだしたのかよっ!?
俺は喉まで出かかったセリフを飲みこんだ。今このセリフを吐きだせば取り返しのつかないことになりそうだ。
コイツとは結構長いこと一緒にいるが、コイツはいろんな意味で他の女とは違うモノを持ってるようだった。特にこの言われたことを全部信じてしまったり、他人の気持ちを考えすぎる気質は人一倍なんてモンではなく、それこそお前は聖女か、と言いたくなるレベルだった。いや、ある意味でもう聖女かもしれない。人間、もう少し汚れていてもいいんじゃないか、と思ったほどだ。大体、高校生にもなってそんなことで泣くな、って言うのが本音だったりする。しかし、そんなこと言ったら確実に状況は悪化する。もしかしたら、彼女はこの前のことのせいで俺が怒ることに関して敏感になっているのかもしれないが。
さて、この状況をどうしたものか。俺は俺でまさに女を泣かせてオロオロする一般男子学生A君(15)に成り果てている。さっきコイツに言った「いい加減慣れろ」は撤回すべきかもしれない。俺も俺でこの状況に慣れるべきだ。コイツとずっと一緒にいてこういう緊急事態にもそろそろ慣れてきてもいいと思うのだが、残念ながらコッチ系の事象に関して俺の学習能力は発動条件には合致しないらしい。俺のターンになってもトラップカードは発動しないのであった。
「お、俺のことなんて良いから、とにかく泣き止めよ、な?」
よく分からない自分の脳内発言はさておき、とりあえず慰めてみた。
蒼は顔を伏せて頬に涙を伝わらせて、さめざめと泣いてしまっている。これはあれだ、泣きだしたら自分でも止まらなくなるという、涙が涙を煽る悪循環に陥ったんだ、きっと。
ってなに楽しげに解説してんだ俺!? どうでもいいところで余裕見せるの止めてもらえるか。今の俺は何度も言うが緊急事態なんだ。大体、こんな所誰かに見られでもしたら
「青志……お前、何してるんだよ?」
「わぁぁあああ!?」
叫んで振り返った俺の目の前で、ジト目のまま呟く一般男子学生B君(15)。俺と同じハードル専門の、名を高安 官九郎と言い「スカンク」という面白おかしい異名を持つお調子者。練習でハードルを跳びながら110メートルを走り切り、歩いてスタートラインに戻ってきたのだろう。俺と、うつむいて目を見せず頬に涙を流す蒼を交互に見つめながら、何かもの凄い気を発している。お前いつの間に超サイヤ人化したんだ。
「いや、あの、高安さん、これはですね、ちょっとワケアリでして……」
「…………」
ナニコレ!? なんでいきなり修羅場るわけ!? もはや家政婦は見た、なんていうサスペンスのタイトルは出そうにも無い。高安さんは腕からなにか気を放出してきそうだ。お前もういいからナメック星にでも帰れよ地球は安泰だから。
「……ば、」
「はい?」
高安が何かを呟き、俺の身体がこわばる。まずはその構えた腕を降ろせ、高安。お前そのままストレートを打つつもりだr
「爆発しろリア充ぅぅううう!!」
「ごぶあぁああ!?」
そっちかよ! っていうか今更そこかよ! 何年越しの話してんだボケ!!
そしてこの野郎、蒼が泣いてるの何とも思ってねぇ!
と、俺は腹にストレートが命中し後ろにのけぞりながら意外と余裕のあるツッコミをするのであった。
なんかもう……いろいろ散々だ。
まぁ、いろいろツッコミどころ満載のグダグダ小説ですけど、初のオリジナル小説なのでがんばります。応援よろしくです