時を受け継ぐ ~想い出は未来の教科書~
「今日でこの部屋ともお別れか」
そう思いながら、見た目ほど重くないマンションの扉を開ける。1DKでお洒落でもない部屋だけれど、住み慣れた家を離れることに、ちょっとした寂しさを感じる。おれは、都会のサラリーマン暮らしを辞めて、故郷に帰る。家業を手伝うためだ。左手のちょっと重く感じる腕時計で新幹線の出発までの時間を確認する。
「お前は時間にルーズだから、もってけ。都会では電車に乗るのだって分刻みだぞ」「時計? 動いてないじゃん」
無口な父が、就職して故郷を離れる一人息子のおれに腕時計を譲ってくれた。
「振ったら動くんだよ」
腕時計を振ってみたら本当に動き始めた。デジタルじゃないゼンマイ式の腕時計がこうして動くことを、その時初めて知った。
「これ、高いやつじゃない? 」
ちょっとお高い贈り物をもらって、気分が高揚する。
「おれがおじいちゃんから旅館を引き継いだ時に買ってもらったんだ」
おれの家は、先祖代々続く旅館を営んでいた。どうやらこの時計は、父が祖父から旅館の仕事を引き継いだ時、買ってもらったものらしい。祖父は、おれが10歳くらいのころに亡くなっていて、ほとんど想い出は残っていないけれど、たまに温泉の湧く大浴場やトイレの掃除をしていた姿を覚えている。そういえば、小さいころちょっとだけ掃除の手伝いをしたこともあったっけ。
「じいちゃんにも、お前が立派になったところを見せてやってくれ」
こうして渡された腕時計。贈られた時の高揚感に反して、身に着けようという気にはなれなかった。「時間なんて、携帯見ればわかるし」と思っていたこともそうなのだが、ただ何となく社会人になっただけのおれが「立派になった」なんて言えるだろうか。自分の中で何かが腕時計を遠ざけていた。腕時計は、時を刻むことなく、一人暮らしを始めたあの部屋の机の中で眠っていた。
それから随分経ったある日、母から連絡があった。父が仕事中に転んで腰を骨折したらしい。休暇を取って父の見舞いに行くと、父は思いのほか元気そうだったけれど、唐突にこんなことを言われた。「もうおれの代で旅館は閉じようと思うんだ。お前はお前のやりたいことをやんな」
なぜだかわからないが、涙が止まらなかった。故郷を離れたからといって、果たしておれはやりたいことをやれているのだろうか。ただ流されて日々生きているだけ。あの頃と何も変わっちゃいない。
「戻って手伝うよ。それがおれの今やりたいことだよ」
自然とそんな言葉が出ていた。サラリーマンのおれの代用品なんて、いくらでもいる。そうか。何が遠ざけて、あの腕時計を身に着けられなかったのか、わかった気がする。自分で振らなければ、時間は動かないんだ。
故郷に帰ってきた。見た目程軽くない旅館の扉を開けると、懐かしい香りがフワッと鼻を抜けていく。その香りが、脳内の記憶を蘇らせる。じいちゃんと一緒に温泉を掃除していたこと、父さんと一緒に庭園の草刈りをしていたこと、母さんのいた調理場でちょっとつまみ食いをしていたこと…
想い出は全て、これからのおれを導いてくれる教科書だ。
「ただいま! 今日からよろしくお願いします! 」
気合を入れて頭を下げるおれの左手で、まだまだ不釣り合いなちょっと高級な腕時計が静かに時を刻んでいた。
【あとがき】
この物語は、家業を受け継ぐ人たちを見てきた中で、筆者の体験と重ね合わせて生まれた「物語の種」です。
旅館に限らず、お店や会社、技術や想い…受け継がれるのは、物や仕事だけではなく、その人が積み重ねてきた「時間」なのかもしれません。
ゼンマイ式の腕時計は、自分で振らなければ動きません。
人生もまた、自分で一歩踏み出したときに、新しい時間が動き始めるような気がしています。




