しなかったこと
商店街に位置するドン・キホーテの棚に括り付けられていたぬいぐるみがいた。陳列棚に並んでいるのは、ぬいぐるみとは何の関係もない商品だった。ぬいぐるみはボロボロだったし、冬の外気にさらされていた。私以外に、誰もぬいぐるみの存在に気づいていない。その子が忽然と姿を消した。誰かにいらないと思われたのは確かだったし、そこに大勢の同意があったことも事実だった。私に対していらないと言われたようになり何度も瞬きをして、大人数に責められたように、喉が渇いた。
ドン・キホーテにいた全員が限界で余裕がなかったのかもしれない。何かを変えなければ生きていけなかったのかもしれない。そのための犠牲がたまたまぬいぐるみだった。誰でもよかったなら、ぬいぐるみではなくて、棚や無機質な飾りでもよかった。私はすんなり家に帰れなくて歩くスピードを落とした。結果だけが気に入らない。私に何ができたかわからない。ぬいぐるみが出会った災いはどんな時間の報いだっただろう。
動物園の売店には、クッキー缶やキーホルダー、タオルなどのお土産が並んでいる。どれも動物がモチーフになっており、人気の動物が炙り出されている。この動物園はレッサーパンダが人気らしく、レッサーパンダ専用のコーナーがあった。
「象ちゃん、このぬいぐるみかわいい!」
「レッサーパンダ?わ、すごくふわふわしてる!」
旅の余韻を求める人々は下を向き、会話を挟みながら選別している。動物園に恋人同士で来ている者もいれば、家族で来ている者もいる。それぞれのカゴの中身も交わす内容も違っている。共通点はみんな動物園に来ているということだけである。
克美から動物園に誘われた私は当日のために服を新調し、新しいイヤリングも購入した。いつかの克美も、友達に会う時しか化粧をしないと言っていた。当時は照れもありつつ、私もあなたのためにおしゃれをしているという言葉を飲み込んだ。その場で言わなかったことに後悔はあるが、今さら言えば、克美の言葉に合わせたお世辞だと思われてしまうかもしれない。だから、言える時を虎視眈々と狙っている。
「どうしよう。買おうかな?」
「私は買おうかな。だって、一目惚れしちゃったから、象ちゃんも買わなかったら後悔するよ?」
「確かに、もうぬいぐるみと縁が繋がってる気がする」
克美とはぬいぐるみという縁で仲良くなった。二人ともカバンに付けていたぬいぐるみのキャラクターは違うが、くすみがかった色彩とゴワゴワした手触りはよく似ていた。どれだけそのぬいぐるみと一緒にいたのかを二人とも即座に見破り、ぬいぐるみを会話の糸口にいつの間にか動物園に二人で行く関係になっていた。共通の趣味があっても、共通の嫌いなものがあっても、三年も続いてないと思う。それほど、私たちの関係は特別だと思っている。
「でも、最近ぬいぐるみ買いすぎ問題が浮上してきたんだよねー」
「金欠問題じゃなくて?」
「じゃなくて。ぬいぐるみを買いすぎることで所持しているぬいぐるみを蔑ろにしている気がする」
遠くにいる赤子の泣き顔を簡単に想像できる。高低がある音の中で、同じフロアに赤子がいて困っている親がいることがはっきりと理解できる。克美も赤子の方に目を向けるが、それほど興味がなかったのかすぐに手元のレッサーパンダを撫でた。私は日常的に鼓膜の危機に陥っているあの親に同情する。赤子は場所を選ばず自己中心的に喉を枯らす。でも、親は周囲を気にしなければならない。時間が経過するにつれ、疲弊していっている。私も彼らを知らないふりをしてレッサーパンダに手の甲を近づける。
「真相に辿り着いちゃったかー」
「うん、ぬいぐるみ離れした方がいいのかな?」
「……必要がなくなったから捨てるのは論外な話だけど、ぬいぐるみから克美ちゃんの気持ちが離れたなら、離れてもいいと思うよ。無理してぬいぐるみといたら嫌いになっちゃうし、疲れるからね」
私たちはそれぞれの欲望のためにレジに並んだ。お揃いのキーホルダーも買ったし、クッキー缶だって買った。もちろん、克美もレッサーパンダをお迎えし、私もレッサーパンダの手を取った。二つあるレジは片方が私たちと同年代の男性であり、もう片方は三十代前半のパートだった。アルバイトと予想される若い店員が、ぬいぐるみを私と目が合うようにカウンターに置いた。サービスができるのは、余裕のある人だからだ。少しの申し訳なさを感じ、謝礼の代わりに深くお辞儀をした。
帰り道、ぬいぐるみ離れという言葉が頭の中で往復する。克美との友達という関係が揺るぐかもしれないという不安は今のところない。ぬいぐるみがなくなった私たちを繋ぐ導線は切れずに繋がったままだと思う。ぬいぐるみで私たちは仲良くなったけど、これからも続く理由はぬいぐるみではなくてもいい。むしろ、ぬいぐるみだけではない。今日、動物園に行ったことも、これまで話してきた多くの無駄なことも、私たちが続く理由でいい。私は信じている。永遠とはいかずとも、できるだけ長く克美と楽しく過ごすことができれば、私は一人でも動物園に行けるようになるかもしれない。
飲食店は時間が限られているため、余裕がない。店員もお客様も余裕はないから、誤解やすれ違いはよくある。でも、その誤解やすれ違いを見なかったことにすれば、軋轢になる。
私のバイト先は駅に隣接しているため、お食事時はいつも賑わっている。繁盛してもアルバイトの給料は変化しない。給料に含まれない業務をしても、誰にも感謝はされない。みんなが自分のことで手一杯で、他人のことなんて見ていない。同じ人間のはずなのに、人間ではない何かになったみたいだった。時間だけを消費する契約だったはずなのに、心身ともに摩耗していく。今の給料だけでは到底割に合わなかった。
「小針さん、さっき言ったよね。言葉遣い直してって!」
「はい、すみません」
私はいつもバイトに行くたびに怒られて、直さないといけないことが増えていった。一つずつ直していこうと張り切っても、うまくいかない。大人になったら少しでも幸福になれると思っていたけど、大学を美化して夢を見ていただけだった。努力してこなかったツケがきた。たまに思う。もしも、もっと頭が良かったら、才能があったら、平日は大学に行き隙間時間にバイトするという効率的な暮らしとは違ったのかもしれない。まだ行ける。まだやれる。破裂しそうな心をなんとか繋ぎ合わせて、たった一人の家に帰るといつもぬいぐるみに顔を埋めた。
今日の大学の講義はあと一限で終わる。その後、バイトに行く。教室内にいる学生はまばらに席に滞在しており、荷物だけ置いて場所を確保している人もいた。廊下は教室に比べて賑わっており、廊下が普段より狭い。私たちの前の席に学生なのかわからない人が座っている。周りを気にしていないかのように堂々と座っており、私より遥かに余裕がある大人に見えた。手元には紙媒体ばかりの資料が並んでおり、電子機器の類は見受けられない。使い古されたペンが落ちる。彼はペンがどこに落ちたかわかっていない。私はペンの落ちた場所が見えていた。でも、わざわざ教える価値があるとは到底思えない。
しかし、克美が静かに拾って彼に手渡した。感謝を述べられた彼女は、強かな婦人のように微笑んでみせた。私が発見と行動の間に思考を挟んでいるのに、彼女は思考を挟んでいないかのように振る舞う。心の底から尊敬するが、行為からはすぐさま目を逸らした。
「象ちゃん!見て!ぬい活」
「可愛いー。撮り方上手いね」
「でしょ?この人、ぬいぐるみの顔が暗くならないように撮ってくれるんだ!」
担当の教授は前の時間に授業がないため、いつも五分前に教室に来る。五分間でモニターを準備し、資料を簡単に配布できるようにしてくれる。些細なことに気がつき配慮ができている。しかし、教授の後頭部には高頻度で寝癖があった。指摘してくれる人が周りにいないし、鏡で容姿を気にする時間もない。器用な教授は疲れた目をしている。私は教授を反面教師にすることしかできない。
「ぬいぐるみを生きている風に扱ってくれるのは、ぬいぐるみ好きからしてみれば嬉しいよね」
「生きている風じゃなくて、生きているよ」
「アハハッ、ごめんなさい」
ぬいぐるみには、生命体としての物質は備わっていない。でも、生きている。抱きしめるとぬいぐるみは暖かい。ぬいぐるみの体温が自分自身の体温の延長線であることはわかっている。ぬいぐるみの暖かさではないことを知っている。
多くの学生が急ぎ足で座席についた。荷物だけ置いてあった机にも人がおり、廊下と教室の音は反転していた。教室は二酸化炭素で充満している。私には二酸化炭素以外の息苦しさがあるように感じた。
「今日もバイト?」
「うん、克美ちゃんも?」
「うん、お金ないと何もできないからね」
私たちは常にお金がない。十分にあると思えたことなんて、一度もない。何時間バイトをしたら、ぬいぐるみで部屋を埋め尽くすことができるかと斜め上を見ては思考を飛ばす。
教育は高価なものであり、労働は罪を償うためにする。私は最も高価なものを手にしているはずなのに、罪を償う沼に片足を浸している。あんなにも大人になりたかったのに、労働を知ってしまった私には生きる気力がない。就職なんてしたくない。自分の罪に気付いて償い続ける人生なんてあんまりだ。私は大学内でガクチカという言葉を聞くたびに、労働するために大学にいるわけではないと思ってしまう。大学には学ぶためにきたはずだった。何かを探すために来たはずだった。
少しだけ滑舌の悪い教授が気だるそうに口を動かす。教室にいる誰もが終了時間を待ち侘びていた。しかし、私だけが教室にあるたった一つの時計を壊してしまいたかった。
人は頑張らない人に厳しくて、頑張っている人に優しい。正しくは、頑張っているように見える人には優しい。頑張っていることを隠していたら世間では頑張っていないことになる。本人がどれだけ否定したとしても、人は目に見えたものを信じる。だから、他人に努力を見せつける努力をしなければならない。共同体で生きる上で、平穏で安全を求めるためには、些細で面倒な積み上げをしていく作業が必須になる。頑張りに限らず、見えているものだけが、事実になる。なってしまう。
「前も言ったよね。子どもにはお冷と一緒におもちゃ持っていって。なんで直してないの?」
「すみません。でも、今回私は別のテーブルで注文を受けていたので、お子さんがいるテーブルは行ってないです」
「はぁ、気をつけてね」
同じ言葉を何度も積み重ねるたびに、意味が薄くなっている気がした。すみませんって言葉が私の鳴き声みたいになって、誰にも受け取ってもらえない。だから、言いたくない。私が悪くて迷惑をかけているのは確かで、失敗の常習犯であるから一番初めに疑われる。でも、違う時は違うと言いたい。怒られたくないという気持ちもあるし、ちゃんと間違ってしまった子に届くようにしたい。誤解を解く時間すらない場合の対処法は思いつかない。でも、ぬいぐるみを抱きしめたら、宇宙の真理もがんの治療方法もわかる気がした。
「すみません」
「さっきから言ってんじゃん。電子マネーだって!」
「Suicaですか?PayPayですか?」
「だから、電子マネー!もういい!別の店員呼んでこい!」
しなかったことが返ってくるなら、私は何をしなかったんだろう。しなかったことあったとしても、いつのしなかったことだろうか。たくさんありすぎてもうわからなかった。
「小針さん。これ見て」
渡されたのはA4の紙が一枚だけだったが、モノクロの海原のように文字が一面に広がっていた。全身を石塀に擦り付けたような嫌な予感がしたが、本社からの業務変更やマニュアルの追加事項だろうかと思って文字を追ってみた。
─小針という店員の言葉遣いが少し残念であった─
先日先輩に怒られてしまった時のお客様だ。クレームメールを意図的に書くほどお怒りだったらしい。
─しかも、雑な対応をされてしまった─
どこの対応が雑だったのか明確に書かれていない。詳細に書いてくれないと、訂正することができない。
─レジも遅くて不快になった─
空腹にも関わらず、胃は収縮したかのように痛い。メールは後半に行くほど、口調が荒くなっていった。紙を掴んでいた手は白くなり血流の感覚がない。私は虚な思考のままバイト先を飛び出した。
慣れない呼吸でようやくわかった。誰かにいらないとされたあの子は、しなかったことが返ってきたわけではない。ぬいぐるみは悪くない。しなかったことが返ってくるのも、人間だけでいいし生命体だけでいい。だからといって、私だけが悪いと言うのは暴論であり、諦めで卑怯である。私も悪いところがあったし、相手も悪いところがあった。余裕のない人に長ったらしい説明は待てないし、大きな声は正しすぎて反論できない。そして、後出しじゃんけんは必ず負ける。仕方がないと思いたい。思わなければいけない。
家に帰る道が長い気がして、鞄に入れていた手のひらサイズのぬいぐるみを両手で抱えた。夜の温度のせいで、手以外の暖かさがない。何時間も早歩きで働いたせいか、足の裏が悪態をついてくる。
正当な理由で怒られるなら耐えることができた。バイトから毎日帰ってぬいぐるみを抱きしめるだけで、身体中のざわつきは緩やかに変化したし、爆発しそうな気分を落ち着かせることができた。でも、今回は耐えることができそうにない。ぬいぐるみを抱えても、緩やかに、そして、確実に、私の細胞が死滅していった。
爆発しないように抱えたぬいぐるみは、涙目になりながら私を見ている。
「助けて、助けて、助けてよぉ」
思わずこぼれた言葉は本物だった。誰に届けるわけでもなく、自分の気持ちが溢れてしまっただけだった。雫がぬいぐるみにシミを作る。ぬいぐるみに気持ちの半分を持って欲しくて抱える力を強くした。全て家に帰るためには必要だったけど、これからどこまでも一人で生きていける自信をくれるのは、こぼれたものでも自分の分身でもなく克美の笑顔だけだった。大事なことは何一つ話せないにも関わらず、最後に助けて欲しいのはぬいぐるみでもなく対等な人間だった。時間に追われた現実社会に生き、同じ年齢でぬいぐるみ好きな克美に頼りたかった。都合のいい話だと思う。でも、心の隅っこでぬいぐるみのように抱きしめてくれて話を聞いてくれる存在であると期待している。克美ならドン・キホーテのぬいぐるみだって救える。
私のしなかったことは帰ってきた。これからも必ず帰ってくる。克美のしなかったことは帰ってこなければいいと切実に思う。いつまでも帰ってこないで、洗濯したてのぬいぐるみを抱きしめるみたいに、報われるものになればいい。しなかったことが許されればいい。




