第三話:踏みにじる音
その日も裏庭には、穏やかな陽光が降り注いでいた。
リアナは足元に咲く名もなき野花をそっと摘むと、愛おしげな手つきでリュカへと差し出した。
「リュカ、これを受け取って。あなたの手入れのおかげで、こんなに綺麗に咲いたわ」
「リアナ様、ありがとうございます。……これは僕の宝物です」
リュカは恭しく膝をつき、それこそ国宝の宝石でも受け取るかのような手つきで、しおれかけた花を胸ポケットに収めた。
「リュカったら、大げさなんだから」
リアナが笑う。その光景を隣で見ていたエルザは、喉の奥が焼けるような違和感を覚え、思わず問いかけた。
「リュカ。そんな、そこら中に生えているような雑草をもらって、本当に嬉しいの?」
「もちろんですよ。リアナ様からいただく物であれば、それが何であれ僕には宝物なのです」
リュカの屈託のない微笑み。それがエルザの胸に、冷たい楔となって打ち込まれた。
裏庭での時間を終え、姉妹はそれぞれの自室へと戻った。
エルザは、着替えを手伝う侍女に、苛立ちを隠せないまま先ほどの出来事をぶちまけた。
「あんな野花を宝物だなんて……リュカを喜ばせるには、もっと相応しいものがあるはずよ。ねえ、何か彼に贈るべきものはないかしら」
侍女は手を止め、深く俯いた。
(野花一輪でそこまで……。リュカが想っているのはリアナ様だ。エルザ様の入り込む余地などないことを、分からせなければならない)
侍女は、残酷な教育的配慮から、あえてエルザに「負け戦」をさせるべく口を開いた。
「リュカさんは花を愛でる方なのでしょう。ならば、王宮の庭園で育った高価な薔薇を用意いたします。それを贈ってみてはいかがでしょうか。……それを受け取れば、彼の本心がどこにあるか、はっきりいたしましょう」
数分後、エルザは燃えるような大輪の薔薇を手にしていた。
彼女は鼻歌まじりに、再びリュカのいる裏庭へと向かう。彼がこの薔薇を手にし、野花を捨てて自分に跪く――そんな勝利の光景を、一寸の疑いもなく信じて。
しかし、生垣の陰まで来たとき、エルザの足が凍りついた。
作業を終えたリュカが、胸ポケットの野花にそっと触れ、慈しむように微笑んでいたからだ。
「リュカ、そんな雑草をいつまでも持っていては、せっかくの制服が汚れてしまうわ。代わりに、この最高級の薔薇を胸に挿しなさい」
差し出された薔薇を前に、リュカは困ったように、けれど迷いなく首を振った。
「いいえ。これはリアナ様が僕にくださったものです。どんな大輪の薔薇よりも、今の僕には価値があるのです」
その瞬間、エルザの中で何かが爆ぜた。奔ったのは「悲しみ」ではない。煮えくり返るような激しい「憤り」だった。
(……なんてこと。お姉様、あなた、あんな卑怯な手でリュカを困らせているのね?)
歪んだ瞳には、リュカの誠実さは「リアナに強要された哀れな義務」に映った。リュカは私を愛しているはずだ。それなのに、姉は自分の不自由な体を武器にして、リュカの優しさを搾取している。
(お姉様が、彼をたぶらかしているんだわ。あの人は本当は、私の薔薇を受け取りたいはずなのに!)
自室に戻った瞬間、エルザの感情は決壊した。
「ああああああっ! 許せない、許せない、いくらお姉様でもこれは絶対許せないい!!」
机の上の調度品をなぎ倒し、壁に飾られた仲睦まじい様子のリアナとエルザの肖像画を剥ぎ取ると、狂ったようにそのリアナの顔を爪でかきむしった。
「リュカを離しなさい! あなたが彼を縛っているから、私の薔薇が届かないのよ!」
駆けつけた侍女が必死に取り押さえようとするが、エルザは肖像画を床に叩きつけ、血が滲むほど拳を打ちつけた。このままでは、エルザは自らの拳を砕き、そのまま発狂してしまう。
侍女は戦慄した。だが、同時に気づいたのだ。エルザのこの狂気は、言葉では決して癒えない。より「強い毒」を与え、憎しみを形にしてやる他に、彼女を止める術はないのだと。
「エルザ様、落ち着いて……! 拳を痛めては、リュカさんに心配をかけます。……そうだわ、こうすれば良いのです」
侍女は震える手で無残に傷ついた肖像画を拾い上げると、それを小さく、硬く折り畳んだ。そして、エルザの右足の靴を脱がせ、そのヒールの底へと無理やり滑り込ませた。
「こうすれば、お嬢様が歩くたびに、あの方の顔を踏みつけることになります。あの方の支配から、一歩ごとに自由になれるのです。……さあ、履いてみてください」
エルザは、吸い寄せられるようにその靴に足を入れた。
ゆっくりと立ち上がる。右の踵に全体重をかけると、姉の顔を微塵に潰しているという、何にも代えがたい確かな感触が伝わってきた。
「……あ……」
狂乱していたエルザの呼吸が、嘘のように整っていく。暴発していたエネルギーが、一歩踏み出すたびに「姉を屈服させている」という悦楽へ収束していく。
――カツン。
鋭く、硬質な音が室内に響く。
「ふうっ……ふぅっ……ふぅっ……」
エルザの唇に、三日月のような笑みが浮かんだ。もはや怒り狂う必要などない。歩くたびに、私はあの方に勝っているのだから。
これ以降、エルザの歩様は一変した。
足をかばうたどたどしい歩き方ではない。右足の踵にすべてをぶつけ、まるで獲物の喉元を砕くような、鋭く、重い音を響かせて歩く。
カツーン、カツーン、カツーン。
城の回廊に鳴り渡るその足音は、もはや姉への愛を忘れた、盲信的狂人のリズムだった。




