第八話「夜会に咲いた訛りと妖艶」
王城では今宵、マーレン国使節団を歓迎する盛大な夜会が催されることになっていた。
普段の使節団であれば、貿易や領土の境界線など実務的な協議が主だが、今回は事情が違った。何しろ、マーレン王家の第二王子――レオンハルト=ヴァルゼンが、使節団の団長として自らの足で訪れているのだ。
この一報を受けてからというもの、王女リリアの心は妙な焦りに満ちていた。
エミリアが、自分の元から離れていくような予感がしたからだ。
王女としての公務には慣れているはずだった。だが、これほどまでに“人”に心を寄せるのは初めてだった。エミリアを帝国へ連れて行くと決めたのも、彼女がただの女官ではないと確信していたからだ。
しかし今、そのエミリアは、マーレン国側の接待に追われ、彼女の傍にいることがほとんどなかった。
しかも、今夜の夜会――当初は地味な衣装で出席してもらうはずだった。だが、マーレン側の申し出により、エミリアの衣装や身支度も、すべて彼らが用意するというのだ。
「外交上の礼儀」と言われれば拒めない。それでも、リリアは胸の奥で小さく唇を噛んだ。
一方そのころ、エミリアは別室で着替えと支度を進めていた。
マーレン国の女官たちが用意した民族衣装は、上質な深緑と金糸が織り込まれた美しいドレスだった。首元は品良く閉じられていたが、袖口や腰元には曲線を引き立てる工夫が凝らされており、清楚さの中に艶が滲む。
――これは……外交だから、問題ない……のよね?
エミリア自身はいつも通りの表情でそう思っていた。だが、支度を整えていく女官たちの手が途中で止まった。
化粧の仕上げを終えた瞬間、一人が小さく息を呑んだ。
「……ちょっと、嘘でしょう。あれだけ地味にしてたって……この美貌は何……?」
「着付けをした私が震えてるんだけど……このスタイル、反則よ……」
「魔性……これ、魔性よ。マーレン語に“妖艶”って単語、あったかしら?」
ささやき合う声を背に、エミリアは首をかしげた。
そのとき、控えの間にレオンハルトが迎えに現れた。
ドアが開く音と共に、彼の視線がエミリアをとらえた瞬間――その場の空気が止まった。
レオンハルトは、静かに、そして確実に固まった。
もともと表情に乏しい男だが、その無表情の奥に浮かんだものは、動揺だった。
夜会の場にふさわしい衣装を身にまといながら、そこに立っていたのは――記憶していた“地味で有能な女官”ではない。
彼女は、まるで夜の花のようだった。
強い意志を宿した瞳。清廉さと誘惑が同居するような横顔。そして、何より立ち姿が美しかった。
「……どうがしたが?」
エミリアが首をかしげた瞬間、レオンハルトの中で何かが音を立てて崩れた。
――この人を、手放したくない。
その自覚は、一瞬にして彼の中に芽生えていた。
遠くからその様子を見ていたジーク=ラドクリフは、拳をゆっくりと握りしめていた。
――やられた。完全に。
言葉には出さなかったが、その目がすべてを語っていた。
夜会の会場はすでに光と音に満ちていた。
貴族たちが三々五々に会話を交わし、楽師の奏でる弦音がホールに漂う。
やがて、アレクサンダー王が王座に立ち、静かに場を見渡してから口を開いた。
「本夜、我がエルデバーデ王国は、北の誇り高き隣人、マーレン国より第二王子レオンハルト=ヴァルゼン殿下を迎え入れることができた。王族の直接のご訪問は、我が国にとっても大きな意義である。皆、誠意と敬意をもって応じよ」
その声は威厳に満ちていたが、言葉の選び方には柔らかさがあった。
続いて、レオンハルト=ヴァルゼン自身が壇上に立ち、短く丁寧に挨拶を述べた。無駄のない言葉は、彼の性格そのものを表していた。
夜が深まり、ダンスの時間となった。
レオンハルトが手を差し伸べると、エミリアは戸惑いながらもそれを受け取った。
――初めての感覚だった。
踊り慣れているはずのエミリアが、なぜか少しだけ足元に意識が向いた。
レオンハルトの手は厚く、だが優しかった。
ホールをゆっくりと回る二人。視線を集めながらも、二人の間には奇妙な静けさがあった。
「……あなたの言葉、忘れられない」
踊りながら、彼がぽつりと呟いた。
エミリアはきょとんとした表情で彼を見上げた。
「何のことだべか?」
「“おら、案内させてもらいますけんの”……あれが、ずっと頭の中に残ってる」
「……普通の言葉さ話してんだげんど」
「それがいい」
エミリアは首をかしげたまま微笑んだ。
レオンハルトは、目を逸らさなかった。
その視線の強さに、少しだけ彼女の頬が赤らんだ。
その様子を、王女リリアは上段の席から見つめていた。
穏やかな笑みを浮かべながらも、その目の奥には複雑な感情が渦巻いていた。
――エミリアは、誰のものでもない。けれど、いつまでも私の傍にいられるとは限らない。
その予感が、静かに胸の奥を刺した。
夜会の華やかさの陰で、確かなものが揺れ始めていた。
エミリアという一人の女官を中心に、王族たちの心が、少しずつ乱れはじめていたのだった。




