第四話「仮面の夜と訛りの花」
その日の午後、王女の命により、エミリアは早めに業務から解放された。夜会への準備を万全に整えるためという名目ではあったが、実際には――女官たちによる“総力戦”が始まったのだ。
「これが地味女官エミリアを、宮廷の花に仕立てる一大事業です!」
誰が言い出したかは定かでないが、王女を筆頭に、先輩女官たちや同僚たちがそれぞれ得意分野を活かして、彼女を磨き上げ始めた。髪はほどかれ、丁寧に巻かれ、光を受けて艶を増す。控えめだった頬は、やわらかな薔薇の色に染められ、瞳は透き通るような黒に艶を帯びる。そして、シンプルながらも品格のある夜会用のドレスに袖を通したその姿は――。
まるで別人だった。
「……これ、本当にエミリア?」
誰かがそう呟いたとき、全員が息を呑んだ。まとう気配がまるで違う。静かにしていればしているほど、色香が零れる。笑えばその場の空気が和らぎ、目線を向けられれば、思わず視線を外したくなる。同性であっても、心の扉を軽くノックされてしまいそうな、不思議な魔性があった。
「さすがは魔性の男、レオナルド=アルバレストの娘ね……」
「違う扉が開きそうだった……」
誰かがぽつりと漏らすと、全員が無言でうなずいた。まさに、納得の一言だった。
そうして一同が騒いでいる最中、夜会の時間が迫り、エスコート役である近衛副長カイル=ラングレンが、控えの間へ迎えに来た。扉が開いた瞬間、彼の動きが一瞬止まる。
「……」
それまで見知っていた、地味で無表情で淡々と仕事をこなす女官の姿は、そこにはなかった。いや、確かに同じ人物であるはずなのだが、まるで違う。まとう空気が、重ねてきた日常の印象を軽く飛び越えてくる。
「……副長、口が開いてますよ」
背後から王女の声が飛ぶ。慌てて口を引き結び直したカイルの背中を、女官たちが一斉に叩いた。
「お願いしますよ、エミリア様をお守りくださいね!」
「一歩でも近寄る男がいたら、切っていいですから!」
「あなたにかかってるんだから、ほんとに!」
そんな声を背に受けながら、カイルは手を差し出した。エミリアは少し戸惑いながらも、その手をそっと取った。手袋越しでも、彼女の指先がほんのりと震えているのが伝わってくる。
「大丈夫です。隣にいますから」
低く、穏やかな声だった。エミリアは少しだけ微笑んだ。
夜会が始まると、会場はすぐにざわめいた。副長カイルが連れてきた女性――その美貌、気品、そしてどこか捉えどころのない艶めいた存在感が、一気に注目を集める。
「誰だ? あの美人は……」
「王宮で見たことない顔だが……」
「“エミリア”って……あの、地味な女官の?」
「まさか……詐欺では?」
ひそひそと囁かれる声が広がっていく。何人かの若い貴族の令嬢などは、嫉妬というより呆然とした顔で見つめるだけだった。なかには、顔を赤らめたまま「同性でもこれは……落ちる……」と漏らす者までいた。
だが、驚きはそれだけでは終わらなかった。
王女と古参の女官たちは、少し離れた場所からその様子を見守っていた。彼女たちには分かっていた。あの視線の集中に、エミリアがどう感じるか。そして、彼女がそれでも怯まず立っていることが、どれほどの覚悟の証なのかを。
カイルもまた、隣に立つエミリアの変化に、静かに戸惑っていた。いや、戸惑っていたというより、すでに心を持っていかれていた。あのいつも仕事一筋の女官が、ここまで変わるものかと。しかも、ただ飾っただけではない。もともと持っていたものが、ようやく人前に出てきたのだと、思い知らされた。
自分が、思っていた以上に彼女を見ていたことにも、初めて気づいた。
「――どうかいたしましたか?」
ダンスの最中に問われて、カイルは一瞬言葉に詰まる。だが、エミリアの微笑みに、思わず頷いてしまった。
「……いえ、何でもないです。ただ綺麗すぎて。とても似合っています」
やがて、ダンスを終えたエミリアに、ひとりの男が近づいた。マーレン国から事前に派遣された視察団の外交官、ジーク=ラドクリフ。高位貴族にして戦略官でもある男だった。彼はエミリアに軽く礼をすると、丁寧な笑みを浮かべた。
「初めまして。かわいいお嬢さん。どちらのご令嬢でしょうか?」
エミリアはにこりと笑い、すっと一礼した。
「はんじめまして。おらアルバレス家が長女エミリアっちゅうもんだっちゃ。こっからよろしくたのんます」
周囲の空気が、びくりと動いた。王女、女官たち、そして古参の者たちが一斉に“きた!”という顔をした。
マーレンの外交官に呼び止められ、エミリアがマーレン語で自己紹介を始めた瞬間、その場にいた何人かが、グラスを持つ手を止めた。
「……いま、“だっちゃ”って言った?」
「エミリア……訛ってる!? いや、あれはもう……訛りすぎて別言語……!」
ジークは一瞬、目を見開いたまま言葉を失った。妖艶で完璧な容姿の女性が、あまりにも素朴で野性味ある言葉を発したその瞬間、脳が処理を拒んだのだ。
「……わ、わたくしはマーレン国外交官ジーク=ラドクリフと申します。エミリア嬢よろしくお願いいたしますね」
「おらこそよろしぐたのんます〜。こっちの暮らしにゃ、もう慣れだが?」
ジークの脳裏に蘇るのは、マーレンでもさらに北の辺境の訛り。それを、こんな艶やかな美女が流暢に使いこなすというこの現実に、何とも言えぬ衝撃と混乱が押し寄せてきた。
「……気候も穏やかで、とても過ごしやすい国ですね。それにしても……どちらでマーレン語を習ったのですか?」
「うちの庭っこ見でる爺さまさに教えてもらったんだっちゃ」
――なるほど、とジークは思った。確かに、あの訛りは限られた地域のものだった。あまりに強いクセゆえ、王都では“通じるけれど妙に田舎くさい”と敬遠されがちだった言葉。
それを、こんな美しい女官が、なんの悪びれもなく自然に話す。笑顔も仕草も美しく、それでいて、口から出てくるのは懐かしい地元訛り――。
“ギャップという名の落とし穴”に、ジークは完全に落ちかけていた。
「もしよければ、また後ほどお話でも……」
そう声をかけようとしたとき、視界に入ったのは――カイルの姿だった。
「失礼、連れて行きます」
そう言ってエミリアの肩に軽く手を添えるカイル。その表情は冷静そのものだったが、立ち方がほんのわずかだけ前のめりで、エミリアを包み込むような距離で立っていた。まるで「これは自分の隣の人間だ」とでも言わんばかりに。
会場にいた周りの人間のその衝撃は、美貌の衝撃をさらに上回る勢いだった。 艶めかしく整った顔立ちで、まるで貴族の絵画のような佇まいのその女官が、口を開けば「庭っこ見でる爺さま」「おら、エミリアっちゅうもんだっちゃ」とくるのだ。
人々は思った――
これはもう、人間としてズルい。
まさに“美と訛りの二刀流”。 そのギャップの破壊力に、会場の空気がふわりと浮き、何とも言えぬ熱気に包まれていった。
ジークはそカイルに肩を抱かれ連れ去られるように離れていくエミリアの後ろ姿を見送ったまま、何も言えなかった。胸の奥に、妙な痛みだけが残っていた。
一方のカイルは、自分でも気づかぬうちに、エミリアの手を握る力が少し強くなっていた。彼女が他の誰かと親しげに話す姿、それだけで気が焦った。こんな感情は今まで感じたことがなかった。
彼女はいつも通り、穏やかに微笑んでいた。ただそれだけなのに。




