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第三十話「女官エミリア、静かなる祝福の先へ」

これは――

名もなき一人の女官が、

やがて皇帝の心を射抜き、

皇后として、母として、人として、

誰よりもまっすぐに生き抜いた、ひとつの人生の記録。


目立たぬ者が放つ、静かな光の物語。

どうぞ最後まで、彼女の歩みにお付き合いください。

春が終わり、初夏の香りが風に混じる頃。


ギラン帝国は穏やかな陽光に包まれていた。祝福のように降りそそぐその光の下で、ふたつの命が、静かに芽吹いていた。


リリア皇妃の懐に新たな命が宿ったという知らせが宮中を駆け巡ったのと、まさにほぼ同じ頃――エミリア皇后もまた、身ごもっていることがわかったのだった。


ジークフリートにとって、それは同時に「父」と「兄」になるという、奇妙で温かな転機となった。


立場は違えど、年も近い二人の妊婦は、それからの日々を支え合うように過ごしていった。


朝の陽の中で、リリアが吐き気に顔をしかめれば、エミリアはすぐに香草茶を手にして彼女の隣に座り、「わたくしも、今朝は同じでしたよ」と、笑って励ました。身体が思うように動かず、些細なことで涙が出る日もあったが――ふたりは、互いの痛みと不安をわかちあいながら、妊娠という未知を前向きに受け止めていった。


エミリアは、夫ダリオスとの子を妊娠しながら、サーラ皇女を我が子のように抱きしめ、遊び、眠る時には物語を語り聞かせた。


「エミリア様……お母さまと、呼んでもいい?」


その小さな声に、エミリアはただ一言「もちろんよ」と優しく頷いた。


サーラは、気づけば本物の“娘”のようになっていた。


一方、アレックスは相変わらずどこか気恥ずかしげで、若く美しい義母を「母」とはまだ呼べなかった。けれど、「姉さま」と呼んで甘えてくる姿には、少年らしい素直さが宿っていた。


さすがにジークフリートは、母として接するには無理があると自認していたのか、皇后としては敬意を持ちつつも、これまで通りの距離感を大切にしていた。



やがて月がめぐり、ふたりの出産が近づいた。


先に産気づいたのは、リリアだった。


苦しみの波に襲われながらも、彼女は決して叫ばず、ただ静かに、強く、耐えた。側にはエミリアがいた。大きなお腹を抱えながら、リリアの手を握り続け、額の汗を拭き、励まし続けた。


ようやく夜が明ける頃、第一声の産声が部屋に響いた。


男の子だった。


初めてその子を腕に抱いた瞬間、リリアは疲れた顔で微笑み、「……エミリアが側にいてくれて、本当に良かった」と、ぽつりと涙混じりに呟いた。


その言葉を聞いて、ほっとしたエミリアは、直後に自らの腹に鈍い痛みを感じた。


そして――不思議なほど穏やかな時間の中で、彼女は陣痛からわずか数時間で、元気な女の子を出産した。


生まれたその子は、エミリアによく似た大きな瞳を持ち、しっかりと父の指を握って泣いていた。



出産後も、エミリアは気を抜かなかった。


前皇后が毒によって命を落とした経緯を思えば、自らと子の命を守ることに人一倍、注意を払った。摂るもの、飲むものには徹底して目を光らせ、薬草や香にも異常がないか確認を怠らなかった。


その慎重さもあり、子どもたちは皆、健やかに育っていった。


その後、エミリアはさらに二人の男の子を授かり、ダリオスと共に三人の子の親となった。サーラとあわせ、エミリアは六人の子どもを慈しむ、強く優しい母となった。


一方のリリアは、なかなか第二子を授からずにいた。


心身のバランスを崩し、落ち込む日々もあったが、そのそばには、変わらずエミリアがいた。


「焦らなくても大丈夫。……命はね、ちゃんと来るときに来てくれるの」



その言葉に、何度もリリアは涙をこぼし、また立ち上がった。


そして、第一子から五年が経ったある年――ようやく、リリアは再び母となった。


生まれた女の子は、どこかリリアには似ておらず、けれどその横顔に誰もが思い当たった。


「……レオンハルト様に、そっくりだわ」


そのひとことに、皆が微笑み合い、リリアは目を細めて小さく頷いた。


「……可愛いわ。ようやく会えたわね……私の愛しい子」


その言葉の裏には、過去を思いながらも前を向く、母としての強さがあった。


サーラも、末っ子が生まれたことで自然と“姉”らしくなり、しっかり者の言葉を使うようになっていた。



そして月日は流れ、今日――


帝国では大きな節目の日を迎えていた。


ジークフリートが帝位を継ぎ、新たな皇帝として即位し、リリアが正式に“新皇后”となるのだ。


戴冠式の儀が終わると同時に、ダリオスとエミリアは静かに王城を後にした。


新皇帝に座を譲った二人は、帝都近郊の別邸へ移り住み、今後は外交と政務補佐に力を注ぐことを決めていた。


かつて、地味な女官として城の片隅に立っていた少女――エミリア。


その名は、いまや誰もが知る“聡明なる皇后”として記憶され、これからも語り継がれてゆく。


その人生は、まだ終わらない。


静かに、誇り高く――彼女はこれからも、愛する者たちと共に、歩み続けていくのだろう。


ただ一人の前皇帝の妻として。


ただ一人の、6人の母として。


そして、ただ一人のエミリアとして。


【了】


最後まで読んでいただき、心よりありがとうございます。


“地味で影が薄い”と評された女官エミリアは、誰よりも人を見て、誰よりも誠実に働き、誰よりも心を尽くす人でした。やがて彼女は、皇帝という孤独な王の隣に立ち、

帝国の未来を担う子どもたちを育て、

祖国と帝国を結ぶ懸け橋となる存在となりました。


彼女が選ばれたのではなく、

彼女自身が歩いて手にした人生。

その過程でこぼした小さな微笑みも、涙も、躓きも――

すべてが愛おしく、誇るべき軌跡だったと思っています。


エミリアという女性の静かな輝きが、

読んでくださったあなたの心に、

そっと優しい余韻を残してくれますように。


また、どこかの物語の中でお会いできますように。

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