第二十五話「涙目の女官と、皇帝のプロポーズ」
リリア皇太子妃の結婚休暇が明けたその朝、王宮内は何やらざわついていた。
それもそのはずだった。
皇帝ダリオスがエミリアを正式に妻に迎えると宣言したのは、つい数日前。宮中の誰もが“あり得ぬ話”と思っていたものが、気づけば現実となっていたのだ。誰よりも近くにいて、どの貴族の誘いも軽やかに躱してきた女官エミリアが、まさか皇帝の心を射抜いたなど、誰が想像しただろうか。
そしてリリアは休暇明け、早速、真っ先に“問い詰め”を決行した。
「エミリア。すぐに話してちょうだい。……どうして、あの皇帝陛下と?」
居室に呼び出されたエミリアは、机の前にきちんと正座し、眼鏡の奥からやや困ったような表情を覗かせた。すでに、背後には女官や侍女たちが耳をそばだてており、部屋の中には好奇の気配が溢れていた。
「……あの、リリア皇太子妃さま。じつは、その……」
珍しく言葉を選びながら、エミリアは軍本部に呼ばれた経緯から話し始めた。暗殺者を捕縛した件で元帥から事情を聞かれ、その帰りに……と語るうちに、声はだんだん小さくなり、ついには顔を真っ赤に染めながら、「夜を……共に……」と呟くように言った。
「……うぅ……恥ずかし……」
最後には言葉が途切れ、エミリアは眼鏡ごしに涙目になり、手のひらでそっと顔を覆ってしまった。
その様子に、部屋の空気が固まった。
「……か、可愛い……」
「やばい……これはこれで……破壊力すごい……」
女官たちが思わず胸を押さえる中、あのいつも冷静で淡々としていた地味女官が、こうして赤面して涙ぐんでいることに、全員が予想以上の衝撃を受けていた。
ちょうどそのときだった。
部屋の扉が静かに開き、ダリオス皇帝とジークフリート皇太子が姿を現した。
「失礼する。リリア、少し話が……」
と、そこで立ち止まった。
視線の先、眼鏡をかけたエミリアがうつむき、頬を染め、うるんだ瞳で戸惑っている。
その姿に、ダリオスの表情がふっと緩んだ。
そして何のためらいもなく、エミリアの元へ歩み寄り、彼女の肩を抱き寄せて、そのままぎゅっと胸に抱きしめた。
「どうしたんだ、涙目で……?」
「……その……恥ずかしくて……皆の前で話すなんて、慣れてなくて……」
その声に、ダリオスは眼鏡をそっと外し、頬にかかった髪を払って、目尻にそっと口付けた。
「そんな顔も、俺だけが知っていれば良かったな」
……部屋の空気が、止まった。
女官たちはぽかんと見つめ、ジークフリートは視線をそらし、リリアもぽかんと見つめた。誰もが「いま、何を見せられているのか」と、反応に困っていた。
咳払い一つ。皇帝付きの腹心がさすがに場を引き締めた。
ダリオスはようやくエミリアから腕を外し、表情を正した。
「さて、本題だ。エミリアには、これから皇后としての教育が必要となる。ジークフリート、お前が正式に皇位を継ぎ、リリアが皇后となるまでの期間、エミリアは皇后となり、私と共に帝国を支える存在になる」
そしてエミリアに向き直る。
「君がリリアの側近を続けたい気持ちは理解している。だが、その役目は次世代の女官たちへ引き継いでいく必要がある。今後は選抜と教育に力を貸して欲しい。――私の妻として、そしてギラン帝国の皇后として」
エミリアは、その場に立ったまま、しばし黙っていた。
皇后――。
その言葉が、胸の奥に深く刺さった。
「……あの……」
ようやく絞り出した声は、少し震えていた。
「私は……妻になると聞いていました。でも……正直なところ……側室、あるいは……妾だと……」
そう小さく呟いたエミリアに、ダリオスはわずかに笑みを浮かべ、静かに首を横に振った。
「そんな扱いを、君にできると思うか?」
エミリアはそっとダリオスを見つめた。
その目には、真っ直ぐな誓いと、ゆるぎない想いが映っていた。
「……エミリア。君は皇后としての資格も、風格も、そして力も備えている。だからこそ……共に、帝国の未来を築いて欲しい。心から愛している。……私の妻になってくれ」
その言葉に、エミリアの瞳が揺れた。
心臓が打つ音が、全身に響くようだった。
顔を伏せ、唇を震わせたのち、静かに深く頷いた。
「……私でよければ、力の限り、尽くします。……ダリオス様……お慕い申し上げます」
その言葉が落ちた瞬間、ダリオスはもう迷わなかった。
彼女を再び抱きしめ、ゆっくりと顔を近づけて、唇を重ねた。
熱を帯びた深いキスだった。言葉よりも先に、心が重なるような長い口付け。
──皇宮の一室、プロポーズの一部始終を目撃した者たちは、揃ってさまざまな反応を見せていた。
女官・侍女たちは、目を輝かせながら「素敵すぎる……」と夢見がちなため息を漏らし、男性陣、特にジークフリートとその護衛たちはというと、誰ともなく遠い目をしていた。
「……なんか、すごいもの見たな……」
「……この場にいたこと、記録に残さないでほしい……」
誰かがぼそりと呟き、誰かが頷いた。
だが、それでも、確かにこの瞬間から――ギラン帝国の運命は、静かに、そして確実に動き出していた。
次の時代へと。




