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第二十二話「心の扉と、名を呼ぶ口唇」

ふたりの唇が静かに離れたあと、エミリアは小さな声で囁くように言った。


その余韻のなかで、エミリアはそっと視線を上げ、ほんの少し躊躇うように口を開いた。


「……あの、私……その、あれが……初めてでした」


一瞬、空気が止まった。


ダリオスの瞳に浮かんだのは、まるで虚をつかれたような驚きの色。だが、それはすぐに深い、そして限りなく優しい微笑へと変わっていく。


「……本当に?」


掠れるほどの低い声。まるで、壊れものに触れるような慎重さでそう問いかけると、次の瞬間、彼はもう一度唇を重ねた。今度は、ほんのりと笑みを含んだ温かな口付け。


「……嬉しい。ああ……どうしようもなく、嬉しい」


彼の声は震えていた。


そのまま彼女の手を取って、重厚な扉の奥――皇帝の私室へと導いた。ゆったりと香が焚かれた室内は静謐で、ふたりだけの時間を優しく包み込んでいた。


差し出されたカップを手にしながら、エミリアは頷き、マティアス元帥とのやり取りを静かに語った。祖父との旧縁、演習時の思い出。そして、母ラフィーネの名を出したときの元帥の反応など、まるで時代が一つ繋がったような不思議な感覚に包まれたことを話した。

軍でのやり取り、マティアス元帥の問いかけ、そして……自分が“ただの女官”ではなかった理由を。


「……実は、私は幼い頃から何度か、襲われかけたり、誘拐されそうになったことがあるのです。……それも、一度や二度ではなくて」


言葉を選ぶように静かに話すその様子に、ダリオスは言葉を挟まず、ただ耳を傾けていた。


「警護の手配も限界があると判断した両親が、特に母が“自分で守れるようになりなさい”と、武術を教えてくれました。……母は、見た目はおっとりしていますが、実は元軍人のような人で、かつては鍛錬場で兵士十人を相手にしていたそうです」


思い出すように微笑むエミリア。その笑みに、ダリオスは内心、驚きと納得を重ねていた。


「それだけではなく、魔法も習いました。細かな術は苦手なのですが、戦闘特化の実践魔法は得意です。それから薬学も。毒に対する知識は生き延びるためには必要だと、父に叩き込まれました」


「それで、あの動き……」


「はい。学園では、武術・魔法・薬学・語学・政務論――全てを必死に学びました。誰かに負けたくなくてというより、自分を守りたい、自分の力で生き抜きたいという気持ちで。結果的に、学園では首席で卒業することができました」


その話を聞いていたダリオスは、少し目を細めた。


「……君がどれだけのものを背負ってここに来たか、ようやく分かった気がする。強さというのは、結果じゃなく、そこに至るまでの努力に宿るのだな」


ふたりの間に、しんとした静けさが広がった。


そしてふと、話題が変わった。


「エミリア。……誰かに想いを寄せたことは?」


彼女は首を小さく横に振った。


「いいえ。恋をしたことも、誰かに憧れたことも、ありません。目の前のことに向き合うのに精一杯で……それに、誰かを信じるのが少し怖かったのかもしれません」


「……では、俺が……初めてなのか?」


「はい」


その返答に、ダリオスは目を伏せるようにして微かに笑った。そして、つい尋ねずにはいられなかった。


「マーレンの言葉……君のあの訛り。あれは、どこで覚えた?」


「庭師です。もう亡くなってしまいましたが、マーレンの辺境の出身で、私が幼い頃からいつも側にいてくれました。“これがマーレン語だべ”と教えてくれたのですが……今思えば、相当偏った方言でしたね」


ふたりはしばし笑い合った。そのやりとりのあたたかさに、言葉では語れぬ親しさがにじむ。


だがその笑みが消えたのは、エミリアが、皇后のことに触れた時だった。


「……皇后様が亡くなられたのは、ご病気と伺っておりましたが……もし、差し支えなければ……どのような……」


ダリオスは、静かに目を閉じた。


「……毒だった。産後の弱ったところを狙われた。政略結婚だったから、互いに恋をしていたわけではなかったが、家族としての愛情はあった。……だが、守れなかった」


彼の声は深く、苦く、そして真っ直ぐだった。


「だが……エミリア。君は違う。君を愛している。君だけが、俺の心を乱し、救ってくれる存在だ。こんなにも独占したくて、誰にも渡したくなくて、苦しくなるのは……生まれて初めてなんだ」


エミリアは、黙って彼を見つめた。胸の奥が熱くなり、言葉がすぐに出てこなかった。


「でも……あの時、唇を重ねた瞬間……私は“好き”と、そう思いました。どんな意味での“好き”かは、まだよく分かりません。けれど今、私は、陛下の側にいたいと思っている。心が、陛下を求めているんです。……ただ、それだけは、確かです」


その言葉に、ダリオスはゆっくりと彼女を引き寄せ、そっと耳元で囁いた。


「……君はもう、俺のものだ」


そして、深く、息もできぬほどの口付けが落とされた。


彼女も、それを拒まなかった。腕を伸ばして彼の背を抱き、甘く、深く、心を預けた。


ふたりとも、もう、お互いなしではいられなくなっていた。

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