第十九話「訛りの誘惑、宵のほころび」
挙式の翌朝、城内はすでに慌ただしさの只中にあった。
前日の盛大な挙式と夜会を経て、今度は帝国各地の貴族、そして国外からの要人たちを迎える謁見と披露夜会が待ち受けていた。エルデバーデにおいては「初夜」と呼ばれる日だが、ギラン帝国では、政略結婚をともなう挙式の翌日は来賓国への“お披露目”として位置づけられている。いわば、外交の真骨頂。
それを誰より理解しているからこそ、リリア皇太子妃とジークフリート皇太子は、疲れた様子ひとつ見せず、朝から謁見室に立ち続けていた。王族の品位を背負い、国家の未来を映す顔として、完璧な立ち居振る舞いで。
その傍らには、今日も変わらず地味な装いの女官、エミリアの姿があった。
だがその姿は、誰の目にもただの“地味”ではなかった。正確な指示、機転の利いた対応、そして言葉少なに裏方を支える姿勢に、各国の使節たちからも「さすがは皇太子妃付き」と感嘆の声が洩れるほどだった。
謁見の中盤。重く張り詰めた空気を引き連れて現れたのは、北方マーレン国の使節団だった。
エミリアの背筋が一瞬だけ固くなる。リリア王女の動きも止まり、瞳に一抹の警戒がよぎった──レオンハルトか、と。しかし現れたのは、意外にもその兄であり、マーレン国の王太子、フリードリヒ=アルマード殿下だった。
雪原のように淡い金髪を後ろで束ね、透き通るような灰色の瞳を持つその青年は、落ち着き払っていた。幼き頃より国の背を預けられて育ったと噂されるだけあって、その気配からして堂々としている。
挨拶は滞りなく交わされ、使節団は控室へと案内された。リリア王女はその場を離れた後、ようやく肩の力を抜いた。
「……てっきりレオンハルト殿下が来られるかと」
「私もそう思っておりました」とエミリアが頷く。ほんの少し口元が緩んだが、仕事に戻るとまたすぐにいつもの静けさへと戻った。
そして夜。二夜連続となる華やかな夜会が幕を開ける。
昨日とはまた趣を変えた装飾が施された大広間に、各国の貴族と重臣たちが次々と現れる。今日の主役は新皇太子妃リリアと皇太子ジークフリート、そして新たな家族を迎えたギラン皇室だ。
エミリアはその夜も会場に姿を現したが、その装いは前日とはまた違う趣だった。
艶やかな青緑のドレス。夜の湖面のような深い色合いに、細かく織り込まれた銀糸が月光のようにきらめいていた。髪は片側に流し、首筋をあらわにしたスタイル。そこにさりげなくあしらわれたパールの飾りが、彼女の凛とした気配に柔らかさを添えていた。
色香と知性が溶け合ったようなその姿に、場の空気がまたしても揺らぐ。
そして事件(?)は、そのあとすぐに起きた。
フリードリヒ王太子がエミリアに歩み寄り、丁重な挨拶をすると、彼女はいつものように控えめに一礼し、そして口を開いた。
「おらぁ、殿下のおいでだっつうごど、心待ぢにしておりましただよ。まんず、遠路はるばる、まっことお疲れさまでしたべな」
……会場の空気が止まった。
文字通り、凍りついた。
エルデバーデ国の王族たちは一瞬きょとんとした後、「ああ、そうだった……!」と思い出したように苦笑いを浮かべる。エミリアの訛りは、もはや“国家的忘れもの”のようなものだ。だが初めてそれを聞く他国の貴族たちは、目を丸くして彼女を見ていた。
とくに、ギラン帝国の若手貴族たちは、妖艶な美貌と「べな」「だっつう」言葉のあまりのギャップに、目のやり場を失っている始末だった。
当のフリードリヒ王太子は──にやりと口角を上げた。
「……なるほど。確かに、聞いていた通りだ」
それどころか、心なしか喜んでいるようにも見える。弟のレオンハルトが惹かれた女性がどのような人物か、ずっと気になっていたという彼は、今回の使節の席を自ら志願していたのだ。
「思っていた以上に……破壊力がありますね」
「は、破壊力っつうのは、なんの話で……?」
「……いや、気にしないでください」
フリードリヒはそのまま、手を差し出した。
「一曲、お相手願えますか?」
エミリアは一瞬戸惑いながらも、その手を受けた。曲が変わり、二人が舞踏会の中央へと進むと、またしても会場がざわつく。深く腰を落とし、しなやかに身を傾けるエミリアの動きは、訛りなど霞むほど洗練されていた。
──それでも、彼女がひとこと口を開けば、
「おらぁ、ステップは苦手なんだけんども、殿下のリードが上手ぐて、楽すいわぁ」
……という、破壊力抜群の言葉が舞踏会場に炸裂する。
フリードリヒは心の中で叫んだ。
(これは危ない。この女官、危険すぎる。……落ちかけてるぞ、俺)
かくして、エミリアという存在は、またしても国境を越えて“伝説”を生むこととなったのだった。




