第十七話「果実水の記憶と、挙式前夜」
晩餐会の余韻がまだ城内に漂うなか、ジークフリート皇太子はリリア王女とエミリアを自らの私室へと招いた。公式な場から離れ、ようやく互いに肩の力を抜ける場所でのひととき。サーラ皇女はまだ幼く、夜更かしは許されぬ年頃。アレックス皇子も翌朝から学園があるため早々に退席した。
扉が閉じられた私室には、温かな灯りとともに小さな歓待の準備が整えられていた。低く設えられたソファに誘われるまま腰を下ろすと、テーブルには皇太子の好みらしい銘酒の瓶や、それに合う小皿料理が並んでいた。とはいえ、宴の名残でまだ空腹ではなかった五人は、飲み物を中心に控えめに選んだ。
「果実水がよろしいのでは?」とジークフリートが提案すると、リリア王女がうなずき、エミリアもそれに倣った。場を和ませるように注がれた淡い甘みの水が、程よい緊張を解きほぐしていく。
やがて、ふとした間に、ジークフリートがエミリアを見つめながら口を開いた。
「どうして、普段はあんなにも地味にしている?」
率直な問いに、エミリアは一瞬だけ目を伏せ、それから穏やかに答えた。
「昔から……この顔のせいで、色々と厄介な目に遭ってまいりました。ですから、人目を避けるため、地味に装い、なるべく注目されぬよう心がけてきたのです。……仕事に、顔は不要ですから」
それは事実であり、そして彼女の生き抜いてきた選択でもあった。
「……なるほど」と頷いたジークフリートの横で、アレンバルトとキリオスが小さく頷いた。「二人も、殿下と同じ二十歳だと伺いましたが」とエミリアが続けると、「私はつい先日、二十四になりました」と控えめに笑った。
「四つも年上ですね……おばさん、ですかね?」
思わずこぼれたその言葉に、エミリア自身がくすっと笑う。それがあまりに艶やかで、どこか無邪気さと大人びた余裕が交差する笑顔だったため、リリア王女すらも一瞬言葉を失って見入ってしまった。日頃の抑えた仕草とは異なり、ほんの少し紅潮した頬と、柔らかく揺れる笑み──その場にいた全員が、心を奪われるには充分な美しさだった。
「……エミリアには、お酒は禁じた方がいいな」とジークフリートがぽつりと呟くと、他の三人も即座に大きく頷いた。誰もが意見を一致させた、珍しい瞬間だった。
しばらくして宴はお開きとなり、エミリアにはアレンバルトとキリオスが送迎を申し出た。だが、後から聞けば、それはジークフリートが王女リリアとの時間を邪魔されぬようにと配慮した上でのことだったという。エミリアは苦笑しつつも、「なるほど」と納得していた。
自室に戻ると、彼女は淡く化粧を落とし、身支度を整えてから静かに床に就いた。
そして朝。いつもと変わらぬ時間に目を覚まし、淡々と支度を済ませる。再び地味な制服に袖を通し、控えめな姿で執務に戻ったエミリアにとって、昨夜のひとときはどこか夢のようでもあり、しかし確かな現実でもあった。
ジークフリート皇太子とリリア王女の挙式は、一週間後に迫っていた。
準備は日に日に本格化し、王宮内の空気も少しずつ変わっていく。エミリアもまた、王女の側近として多忙を極めながらも、確実にその務めを果たしていった。
挙式の二日前。エルデバーデ王国から、国王アレクサンダーと王妃ソフィア、そして王太子セドリックが到着した。数ヶ月ぶりに家族と再会したリリア王女は、喜びを隠せない様子で、挙式までの間、宮殿の一室で家族水入らずの時間を過ごすこととなった。
一方、アレクサンダー王とギラン皇帝ダリオスは、挙式前の最後の調整も兼ねて面会の席についた。政略と信頼、均衡と駆け引き──静かに、しかし確実に、歴史は動き始めていた。