第十四話「別離の誓いと、再び交わす約束」
王城の空気がどこか名残惜しい風を帯びていたのは、マーレン国の外交使節団がいよいよ帰国するという知らせが広まったからだった。毒殺未遂、暗殺未遂、相次ぐ混乱の渦のなかで、交渉は最後まで綱渡りのようなものであったが、最終的には双方が納得のいく形でまとめられ、王宮の者たちもようやく深く息を吐ける空気になっていた。
そんな折、マーレン国第二王子レオンハルト=ヴァルゼンから、エミリアに「個別の挨拶の場を設けたい」との申し出があった。これに対し、王女リリアは明らかに不機嫌な面持ちで「必要ないでしょう」と拒否の意志を示したが、アレクサンダー王があっさりとそれを覆した。
「お世話になった相手に礼を尽くすのは、国家にとっても誠実な振る舞いだ」
その一言で、面会の許可は下された。
小さな応接室に通されたエミリアは、ほんのわずかな緊張を抱えながらも、いつもの女官服姿で静かに席に着いていた。ほどなくして、レオンハルトが入室すると、互いに思わず顔を綻ばせる。数々の混乱を共にくぐり抜け、言葉こそ多くなかったものの、確かな信頼と情がそこにはあった。
「今日は、ありがとう。最後に、君にどうしても礼を言いたくて」
その口調は穏やかで、けれどどこか決意のようなものを帯びていた。エミリアは微笑を浮かべて頷いた。
「こっちゃこそ、滞在中は、たっしゃにようして、ほんにありがとさま。…いい帰りにとなればって……おら、心から願ってますだ」
そんな形式ばった言葉のあと、ふっと沈黙が生まれる。気まずいものではなかった。ただ、その場にあったのは、別れの直前だけに流れる、言葉にならない空気だった。
「……一つ、頼んでもいいか?」
レオンハルトの声は低く、真剣だった。
「君を……少しだけ、抱きしめていいだろうか」
思いもよらない言葉に、エミリアは驚いて目を見開いた。けれど、不思議と拒む気持ちはなかった。これが“最後”になるのだと、どこかで感じていたのかもしれない。
彼女はほんの一瞬だけ逡巡し、そして静かに「……はい」と応じた。
レオンハルトの腕が、そっとエミリアを包んだ。彼の手は温かく、けれどどこか震えているようにも感じた。耳元に息がかかるほどの距離で、低く、真っ直ぐな声が囁かれる。
「エミリアが好きだ。けれど、今の俺には君を連れて行く力がない。だが、必ず迎えに来る。だから……そのときに返事をくれ」
その言葉に、エミリアはまるで心の奥に火が灯るような感覚を覚え、真っ赤に頬を染めたまま、うまく言葉が出てこない。口を開けては閉じ、また開いて――まるで魚のようにぱくぱくと動いてしまう自分が、何だか可笑しくもあった。
それを見たレオンハルトは、微笑を浮かべると、そっとエミリアの額に口付けを落とし、「また会おう」とだけ言って、部屋を後にした。
扉が閉まった後も、エミリアはしばらくその場から動けなかった。
――“好きだ”なんて言葉、誰かに言われたのは初めてだった。
その後、使節団の見送りに王城中が集まるなか、エミリアも列の端に控えていた。見送りの列の中で、レオンハルトとは再び目を合わせることはなかったが、彼の背中はどこか頼もしく、そして未練のようなものを残して去っていった。
その場にはもう一人、ジーク=ラドクリフの姿もあった。
外交官としての節度を保ちつつも、ほんの一瞬だけ目が合い、会釈を交わす。
言葉はなくとも、その一礼には、彼なりの想いと別れの痛みがにじんでいた。
使節団が見送られたのも束の間、次はギラン帝国のジークフリート皇太子一行の帰国の番となった。
リリア王女とジークフリート皇太子は、別れの直前に短く逢瀬の時を持ち、控えの間で何かを静かに語り合っていた。
その様子を、少し離れた場所から見守っていたエミリアのもとに、柔らかな足音が近づいてきた。
「ジークフリート殿下の側近、アレンバルト=サージルと申します」
礼儀正しい声音で頭を下げたのは、かつて毒で倒れたあの青年だった。
「先日は……命を救っていただき、誠にありがとうございました。このご恩は、必ずお返しいたします」
エミリアは驚いたように目を見開き、そして微笑を返す。
「ご無事とのこと、何よりでございます。殿下の側近として再びお姿を拝見でき、安心いたしました。……実は、わたくしも王女殿下の輿入れに随行することとなっております。不慣れな国でございますので、その折には、ぜひご指導をお願いいたします」
アレンバルトははにかんだように笑い、力強く頷いた。
「もちろんです。エミリア嬢がいらっしゃるのなら、帝国もきっと華やぎます」
そんな会話の背後で、リリアとジークフリートが名残惜しそうに別れを交わしていた。
再会は二ヶ月後。
その日が来るまで、それぞれの思いは静かに胸の奥に置かれることとなる。
エミリアは、立ち去る馬車を見送りながら、小さく息をついた。
恋も別れも、約束も希望も、すべてが複雑に絡み合った数日間。
だがそのすべてを胸に、彼女はまた、女官としての日々を静かに積み重ねていくのだった。