第十三話「帰郷、そしてわたしの居場所」
エミリアが王女付き女官として、ギラン帝国への随行を命じられた――その報が王宮に伝わってから間もなく、彼女は特別な休暇を得て、侯爵家の屋敷へと一時帰郷することとなった。
王宮では「何か問題が起きたのか」とざわめく声もあったが、実際にはただの“報告”であり、“心の整理”でもあった。
それは彼女にとって、これから先の人生を進むために、避けては通れない時間だった。
侯爵家の屋敷の門をくぐった瞬間、懐かしい庭の匂いが風に乗って鼻をくすぐった。
庭先では、従兄のシオンが木剣を振っていた。彼の剣筋は昔よりもしなやかで、そして優しかった。
彼女の帰還に気づいたシオンは、剣を収めると歩み寄り、ふとぎこちない笑みを浮かべた。
「おかえり、エミリア。帰ってくるなんて、よほどのことがあったのかと思った」
その言葉に、エミリアは小さく笑みを返し、「ちょっと、話したいことがあって」と応じた。
父と母も揃って迎えてくれた。執事や侍女たちの表情も、どこか緊張を含んでいたが、エミリアは深呼吸のあと、静かに本題を口にした。
「わたくし……王女リリア殿下の婚儀に際し、ギラン帝国への随行が命じられました。女官として、お傍に仕えることになります」
言葉を選び、丁寧に、そして毅然と。
だが、その告げられた内容に、両親の表情はさっと険しくなった。
「……異国へ。しかも、ギラン帝国へ?」
父・レオナルドの低く落ち着いた声には、感情を抑えた圧があった。
母・ラフィーネも視線を伏せ、黙したまま娘の顔を見つめていた。
だが、それ以上に沈黙していたのは、シオンだった。
彼は口を開かなかった。
ただ、エミリアの言葉を聞き、ひとつうなずくと、そっと屋敷の裏手に姿を消した。
夕暮れ。
エミリアは一人、書斎の窓辺に腰を下ろし、遠く庭を見つめていた。
いつもは冷静な思考が、自分でも驚くほどまとまらず、胸の奥がひどく騒がしかった。
そこへ、母がそっと入ってきた。
「あなた、ずっと考え続けてる顔してるわよ。昔から、何かを“決めたふり”するときは、ああいう顔になるの」
優しい声とともに、そっと肩に羽織をかけられる。
「自分を守るために、外見を変え、心を固くしてきたことは知ってる。
でもね、守りたいと思える誰かと出会えたなら、少しは自分の弱さを出してもいいのよ」
その言葉に、エミリアの胸の奥で、何かがゆっくりと解けていった。
たしかに、王女のそばは安心する。誠実で温かく、信じられる人。
けれど、それだけでいいのか。
誰の意志でもない、“わたし”の望みは――?
夜、月の明かりの下、裏庭でシオンが一人佇んでいた。
エミリアは静かに近づき、隣に立った。
しばらく無言のまま、二人は庭の池を見つめていた。
「……怒ってますか?」
ぽつりと問うと、シオンはゆっくりと首を振った。
「いや。ただ、やっと君が心を開き始めたと思ったのに。もういなくなるのか、って……悔しかっただけだよ」
エミリアはその言葉に、そっと唇をかんだ。
「わたし、自分が誰かを必要とするなんて、思っていなかったんです。
でも、あの人たち――王女殿下や、他の人たちの優しさに触れて、少しずつ変わっていった。
でも、シオン兄さまがいたから、わたしは最初の一歩を踏み出せたんです。
兄さまの前では、ずっと……子どもみたいに、甘えたくなるから」
シオンは驚いたようにエミリアを見つめ、そしてふっと目を細めて笑った。
「エミリア。俺は、どこにいても君の味方だ。それだけは、忘れないで。いつでも辛かったら帰ってこい」
そして翌朝、エミリアは再び王宮へ戻る支度を整えた。
だが、帰り際に父・レオナルドが一言だけ声をかけた。
「お前が決めた道なら、止めはしない。だが、簡単に“何も残さず”に立ち去ろうとは思うな」
エミリアは、深く一礼をして答えた。
「はい、父上。私は……“私の選んだ責任”を背負って、進みます」
そうして、彼女は静かに屋敷を後にした。
今度こそ、“ただ仕える”だけではない、
“自らの意思で歩む”ために。