第十一話「毒と注目と、女官の眼」
王宮は、再び揺れていた。
それは剣でも、陰謀でもなく、一通の使者によってもたらされた報せ――ギラン帝国の皇太子、ジークフリート・ヴェルター殿下が、リリア王女の様子を案じて来訪するというのだ。
つい先日、マーレン国第二王子レオンハルト率いる使節団が到着したばかり。
しかも、城下視察の最中には暗殺未遂事件まで起こっている。これ以上、王族が集中する状況は避けるべき――王宮の判断として、丁重に来訪延期を提案した。
だが、ジークは頑として引かなかった。
「こういう時だからこそ、顔を見て安心したい」と。
そして驚くべきことに、通常なら三日はかかるはずの道のりを、二日で到着してしまった。
騎士団、侍従、女官――誰もが慌ただしく動き回る中、エミリアも例に漏れず、来訪準備に奔走していた。
膨大な報告書の整理、調度品や部屋の再配置、食材管理、警備計画の確認……そのすべてにおいて、彼女の動きには一分の隙もなかった。
最近になってようやく、周囲の者たちも、エミリアの扱いに迷いを見せなくなってきていた。
訛りが強烈なマーレン語、仮面の下にあった妖艶な素顔、そして暗殺者を瞬時に制圧した圧倒的な実力。最初は誰もが「どう接するべきか」と距離を測っていたが、エミリア本人が変わらず淡々と業務をこなしている姿に、次第に“いつもの女官”として戻っていったのだった。
……だが、ただ一人だけ、“戻れない”者がいた。
カイル=ラングレン、副長。
彼は、あの日以来、エミリアに近づく機会を増やしていた。
以前のように事務的なやりとりではなく、少しでも言葉を交わそうと、わざと話を振ったり、書類の受け渡しを長引かせたり。
不器用な彼にしては珍しい行動で、誰の目にもその“意識”は明らかだった。
そして、運命の日の晩餐会。
会場には、エルデバーデ王家を中心に、マーレン国の使節団、そしてジークフリート皇太子とその側近たちが整然と並んでいた。
エミリアはリリア王女の背後に控え、静かに場の流れを見守っていた。
ジークフリートとは、王妃付きだった頃に何度か顔を合わせたことがあるが、当時はまったくの空気扱いだった。
だが、今や王女付きの正式な女官。
しかも、“只者ではない”と既に複数の噂が立っている今、ジークフリートの目にもエミリアの存在はしっかりと認識されていた。
そして、その“認識”が強く印象づけられる事件が――その夜、起きた。
晩餐会も終盤、食事はひと段落し、各人がデザートに手をつけはじめたそのときだった。それまでしていたように、側近がそっとジークフリートの出された物をさりげなく交換して、手をつけた瞬間、
ジークフリートの右隣に座っていた側近が、突如、がたんと音を立ててテーブルに倒れ込んだ。
「……なッ」
会場が静まり返る。
倒れた側近の様子に、周囲が一斉に駆け寄ろうとしたその刹那、エミリアがすでに動いていた。
「皆様、その場を動かないでください」
そう言って、彼女は静かに倒れた男のもとへ歩み寄り、膝をついた。
その動きは、驚くほど冷静で、誰にも迷いを感じさせなかった。
脈を取り、呼吸を確かめ、唇と瞳孔の色を確認する。
すぐに、テーブルの上に残されたデザート――一口だけ食されたクリームに目を留める。
次に彼女がしたのは、匂いを嗅ぎ、そして――ほんのひと舐め。
「……っ、エミリア!?」
リリアの声が上がるが、エミリアは手で制し、そのまま立ち上がった。
「これは毒です。恐らく、ロゼニア草由来の神経毒。ですが、量が微量だったことで、致命的ではありませんでした」
その言葉に、場が一斉にざわついた。
「解毒には、カーム草の搾汁と、冷水での希釈が有効です。手配をお願いします」
その落ち着いた声に、誰もが息を飲んだ。
彼女の指示により、医師団が急行し、処置が開始された。
晩餐会は、当然ながら中断。
その後の夜、王族たちはそれぞれの部屋で警備を強化し、早々に退席した。
リリアは深夜、自室の執務机に突っ伏しながら呟いていた。
「……また、あなたは。何人分の“顔”を持っているの?」
あの毒を、恐れもせず舐めた女官。
美貌に騒がれ、剣に驚かれ、訛りに笑われ、そして毒にも動じない。
今や、誰もが彼女のことを「只者じゃない」とささやき始めていた。
翌朝、エミリアの体調を心配する声が、各所から飛び交った。
リリア、レオンハルト、ジーク、カイル――
その全員が、それぞれに違う形で、彼女を案じていた。
だが――
エミリア本人はといえば、朝一番に執務室に入り、普段通りに報告書の整理に取り掛かっていた。
「……何事もなかったように振る舞う。それが、わたくしの女官としての仕事ですので」
そう言って、眼鏡を直しながら。
誰よりも静かに、そして確実に、この王城の“中心”へと近づいていることに、彼女だけが気づいていなかった。