第十話「想いの渦、揺れる静けさ」
城下での襲撃事件から一夜明けても、王城の空気はどこか張り詰めたままだった。
一行は無事で、協議の再開を待つばかりとなったが、何かが“変わった”という感覚が、各々の胸に確かに残っていた。
リリアは、自室の窓から城下を見下ろしながら静かに息を吐いた。
昨日、襲撃の刃が向けられたとき、自分の前に立ったのはエミリアだった。
あの瞬間、何の躊躇もなく――むしろ当然のように、彼女は盾になった。
自分が王女であり、エミリアが女官であるという立場など、吹き飛ぶほどの行動だった。
その背中が、胸に焼き付いて離れない。
リリアは、帝国へ嫁ぐ覚悟はしていた。自分の責務として、国の未来のために歩むことに迷いはなかった――エミリアを知る前までは。
だが今は、違う。
彼女がいなければ、自分は心の平衡を保てないのではないか――そんな不安が、密かに芽生えていた。
「……困ったわね、ほんとに」
王女の吐息混じりの呟きが、静かな部屋にひとり流れた。
一方その頃、レオンハルト=ヴァルゼンは、使節団に割り当てられた客間で静かに佇んでいた。
窓から見える中庭には、午前の陽光を受けて色づいた草花が揺れていたが、彼の視線はそこを見てはいなかった。
昨日の記憶――エミリアの姿。
鋭く飛び出したその動き、剣を振るう体のしなやかさ、詠唱もなく発動された魔法の精度。
そして何より、そのあとの何事もなかったような振る舞い。
控えめで、静かで、地味な女官。それなのに――その実、どの男よりも強く、美しかった。
「……あの人を、妻に――」
ぽつりと、誰に向けるでもない声が落ちた。
それは、願望ではなく、確信に近い想いだった。
ただ、分かっていた。
それを叶えるには、いくつもの障壁がある。外交、立場、そして――彼女を見つめる他の男たちの存在。
その一人が、ジーク=ラドクリフだった。
彼は沈んだ表情のまま書簡に目を通していたが、その手元の文字は頭に入ってこなかった。
レオンハルトの視線。
エミリアを見るときの、あの一瞬の硬直と、すぐあとに浮かぶ微細な笑み。
気づいてしまった。気づきたくなかった。
「……あんな顔、初めて見たな。あのレオンが」
苦い声が、胸の内から洩れた。
だがそれ以上に、自分の中の感情の方がよほど苦しかった。
どうしても、自分を見てほしい。
“かわいい訛り”でも、“強さ”でもなく、“自分といる時間”を選んでほしい。
ただの願いだと分かっていても、想いは募るばかりだった。
そしてもう一人、視線を送っていた男がいた。
カイル=ラングレン。
事件以降、彼は自分の中の焦りに気づいていた。
今までは“ただの同僚”として接していた。仕事ぶりを尊敬し、その優秀さを認めていた。
だが、彼女が誰かの隣に立つ未来を想像したとき――身体の奥からざわりと湧き上がった感情は、明らかにそれとは違っていた。
焦り。そして後悔。
“なぜ、もっと話しかけなかった?”
“なぜ、彼女が振り返る前に、近くにいなかった?”
だからこそ、今。何もしなければ、もう二度と彼女に届かない気がして、カイルは行動に出ることを決めた。
「……しばらく休養が必要だろう。付き添いに、彼女をお願いしたい」
使節団の対応係として、エミリアの再任を申し出たのだ。
だが、その願いはあっさりと退けられた。
「却下します。彼女は今後、王女付きとしてのみ動かします」
リリアの即答だった。そこには、王女としての決断というより、一人の女性としての感情が、にじみ出ていた。
――その人を、これ以上他人に渡したくない。
エミリアはというと、その日も変わらず事務処理を淡々とこなし、帳簿と報告書の山を前に、静かに筆を走らせていた。
彼女の心に揺れはない。ただ、任務がある限り、目の前のことに全力を尽くす――
それがエミリアという人間だった。
だが、そんな彼女の知らぬところで、四つの心が、今まさに交錯し、静かに熱を帯びはじめていた。