第九話「剣と微笑の狭間で」
夜会が明けた翌日、朝から王宮には落ち着いた緊張感が漂っていた。
それは、午後から予定されている“城下の視察”のせいだった。マーレン国の王族、レオンハルト=ヴァルゼン殿下を含む使節団と、エルデバーデ王国の第一王女リリア=セレスティアが揃って出向く――つまり、それだけで外交的な重みと、警戒すべき要素をはらんでいた。
その日の午前、エミリアは久しぶりにリリアと顔を合わせた。夜会以来、接待や公務に追われていたため、王女と落ち着いて言葉を交わすのは数日ぶりだった。
「……あの夜のあなた、本当に驚いたわ」
リリアがぽつりと漏らした。エミリアは少しきょとんとしたまま首をかしげた。
「何か、失礼がありましたでしょうか」
「いいえ。むしろ……完璧すぎたのよ。あの姿、誰の目にも残ったはず」
エミリアは控えめにまばたきし、静かに頭を下げた。
王女の声には、どこか寂しげな色が滲んでいた。それを敏感に感じ取ったものの、エミリアは言葉を返せずにいた。
昼を過ぎ、視察の準備が整いはじめると、使節団の一行とともに、リリアとエミリアも城門の前へと姿を現した。護衛には、王城近衛騎士団副長であるカイル=ラングレンの姿もあった。
その横顔はいつもと変わらず無表情に見えたが、時折エミリアに向ける視線には、わずかな揺れが隠れていた。
城門を抜けると、城下町の街道には歓迎の花が飾られ、商人たちが遠巻きに一行を見守っていた。
だが、その穏やかな空気の裏で、宮廷内では厳重な体制が敷かれていた。他国の王族と王女が共に歩く――それは、あまりにも“狙いやすい”構図だったからだ。
そして、それは現実のものとなる。
視察が始まってしばらく。王女とレオンハルトが城下の中央広場に差し掛かったとき、わずかに通りの空気が変わった。
「リリア様っ……伏せてください!」
エミリアの声が響いたのは、次の瞬間だった。
人混みの中から飛び出した黒装束の影。その手には短剣が握られていた。リリアとレオンハルトに向けて一直線に突進する男。
護衛たちが反応するよりも早く、エミリアの体が動いていた。
手にしていた巻物を放り投げるように放り出し、そのまま真横から飛び出す。
腰のベルトから抜き放った細剣が、襲撃者の手首に触れると同時に、魔力を帯びた衝撃が走った。
「止まれッ!」
エミリアの声に、男はよろめき、膝をつく。だが、なおも力を込めて突きかかろうとした瞬間、今度は詠唱なしの魔力障壁が、静かに彼を包み込んだ。
その手際はあまりにも鮮やかで、まるで訓練された衛兵のようだった。
取り押さえられた男の背後から、数人の別働が現れたが、カイル率いる近衛騎士団がすでに配置を広げており、瞬く間に鎮圧された。
あたりが静けさを取り戻したとき、最初に動いたのはリリアだった。
「……あなた、今の……」
エミリアは静かに剣を納め、深く一礼した。
「お怪我がなく、何よりです」
その口調はいつも通りだったが、その横顔には静かな気迫が滲んでいた。
レオンハルトは何も言わなかった。ただ、彼女を見つめたまま動けずにいた。
それから数歩下がった場所で、ジークがぽつりと呟いた。
「……彼女、いったいどこまで“只者じゃない”んだ……」
そして、カイルはというと。
襲撃の一瞬前、エミリアが飛び出すその背中を目で追ったとき、まるで風が通り抜けるような、強烈な感情が胸に押し寄せたのを感じていた。
護身術が得意だと知ってはいた。魔法も扱えることも、書類の上では把握していた。だが、実際に目にしたとき――それは、想像を超えていた。
華奢に見える体に、ここまでの力があるとは思っていなかったのだ。
「……すごいな」
不意に、誰にも聞かれないような声で、そう呟いた。
王宮に戻った後、襲撃の詳細は厳重に調査された。二国の間に亀裂を生じさせる意図があることが明らかとなり、エミリアの働きが外交上の“火種”を未然に防いだとして、密かに評価された。
だがそれ以上に、人々の記憶に強く残ったのは――
「地味で無口な女官が、王族を護った」という“逸話”だった。
その逸話が、確かに彼女の足元から広がっていくのを、誰もが感じ始めていた。