嘘偽リノ街 #4 ポケットの中の涙
その日は珍しく雨が降っていた。
祠に掛けられていたコートは家に持ち帰った。コートの内側には“佐倉”と刺繍が施されていた。間違いなく,このコートは僕の物だ。
だが、なぜこのコートが祠に掛けられていたのかが分からない。コートを無くしていた事すら忘れてしまっている。何か大切な事を僕は忘れてしまっている気がした。
このコートを最後に着たのは確か今年の2月頃、まだ肌寒かった頃だった。確かその時———————。
(———————思い出せない。)
3月から今月、つまり8月にかけて、僕の記憶が抜けていた。何も思い出せないのだ。
「一度、冷静になってちゃんと考えてみよう。」
僕は電気ポットの電源を入れてお湯を沸かし、並行して急須に茶葉を入れお湯が沸くのを待った。
そして公園で聞こえた気がした言葉を思い出していた
(「---何も怯える事はないさ。その子達は君に害を与えない。“今は”だけどね。」)
ずっと引っかかっていた。この言葉を以前誰かに言われた気がしたからだ。咄嗟に持ち帰ったコートを探った。何か手掛かりがあるかもしれない。
フードの中、外ポケットと順々に探っていった。ポケットの中には食べたお菓子の袋ゴミやハンカチ、そして、液晶の割れたスマートフォンが出てきた。
(これは、間違いなく僕のスマホだ。でも何故画面が割れて———、)
(「昨日ね、蓮が死んだって!」)
スマホに手を触れた途端、頭に声が響いた。忘れていた記憶の断片が一瞬脳裏をよぎった。震える手で画面が割れたスマホを握りしめた。破片が手の皮膚に突き刺さる。流れ出る血と共に痛みが伝わるが僕はその手を離す事が出来なかった。その壊れたスマホに“母さん”を感じたからだ。
目から自然と涙が込み上げていた。何故涙が溢れるのかは分からない、僕の中の記憶が泣いている様だった。喉の奥から出そうになる嗚咽を我慢した。まだ全部を思い出した訳じゃない。まだ何かこの記憶に繋がる手がかりがこのコートに残っているはずだ。
震えが収まらない手で最後の内ポケットを探った。中には汚れてボロボロで、シワだらけの赤い帯状の長い布が束ねられて入っていた。その布からは懐かしい匂いがした。誰かが体に巻き付けていたような匂いが染みついていた。僕はこの匂いが好きだったような気がした。
(「ねぇ、君の好きな本って何?」)
(「無理って言うな、私まで憂鬱な気分になるだろう?」)
(「一緒に行こう、私が絶対お前を———————。」)
頭の中に僕の知らない声が流れた。—————僕は覚えていないが記憶は覚えている様だった。
さっきとは比にならない位涙が止まらなくて嗚咽が止まらなかった。胸の奥が苦しいのが伝わってきた。何故僕は名前も知らない彼女の事を考えて泣いているのだろう?
名前を知らない?——————違う。
僕は彼女を覚えている。すごく無愛想な顔でムスッとしてて、言い方がキツくて、それでも笑うと可愛くて、強くて、凄く頼りになって、そんな彼女が—————。
「———————————思い出したよ、花音。」
電気ポットの中のお湯はもう冷めていた。