枷になりたくない。ただそれだけ。
◇
幼少のころから、エレノア・クレリアンスは、どこか子どもらしくない、完璧な令嬢の外面をしていた。
しかし、家族は知っている、変わり者の彼女が愛しているのは、研究と、魔法と、魔道具なのだと。
だが、表向きには、完璧な所作と美しい見目をしたエレノアは、クレリアンス伯爵家が誇る完璧な令嬢とみなされていた。
「レイ!」
振り返ったエレノアは、煤に汚れてしまった顔をレイに向けてほほ笑む。
そんな素の彼女は、令嬢としては完全に失格だ。
だが、それでもレイ・ラプラスは彼女に普段誰にも見せないような笑顔を向けた。
エレノアの、本性を知っている、数少ない人間の一人が、婚約者レイ・ラプラスだった。
侯爵家の次男として生まれたレイ・ラプラスは、家督を継ぐことはできないにしても、誰よりも剣の腕がたち、代々騎士団長を輩出してきたラプラス侯爵家においても、異色の才能を放っていた。
社交界では、誰よりも美しいエレノアと、普段の怜悧な表情を潜めて暖かな笑顔で彼女を見つめるレイが、このまま婚姻を結ぶことを疑うものなどいなかった。
――――あの日までは。
王都は戦いに向けて、得も言われぬ高揚感に包まれていた。戦地に旅立つ直前に、婚約者の元を訪れたレイは、彼女がすでに屋敷にはいないことを知らされる。
エレノアは、今までのすべての功績を盾に、当時空席だった魔塔の長の地位を王家に希望した。
レイを全戦全勝、戦の士気を高めるために祭り上げられた英雄とするならば、エレノアは疲弊した王都を流行り病や飢饉から救い出しす救国の乙女であり誰もが認める魔女だった。
レイが、戦地に赴く日。婚約はエレノアの希望により、破棄されたはずだった。
(ちゃんと、賠償金も払ったわ)
だが、エレノアよりもレイのほうが上手だった。
英雄の強い希望により、エレノアとレイの婚約は解消されることなく、ただ保留となっただけだった。
魔塔の長として、塔にこもっていたエレノアは知らなかったが、そこには高度な政治的な取引があったという。レイが、最前線で戦い続けたことも、その取引の中の一つだったのかもしれない。
「だから、俺たちの婚約は解消なんてされていない。残念だったな」
「えぇっ?! だって、戦地から凱旋したラプラス卿は、王女殿下との婚姻を控えて……」
「そんな、望まない婚姻なんて握りつぶしたに決まっている。今日というこの日を迎えるのに都合がよかったから、噂を消したりはしなかったが」
「――――え? 何を言っているんですか。英雄が、私なんかと無理に結婚する必要ないでしょう。誰得ですか?!」
エレノアは、こぶしを震わせてレイに詰め寄った。
だって、責任を取って、レイが無理にエレノアと婚姻を結ぶ必要なんてない。
エレノアが、魔塔から出ないのは、怠惰な生活を愛しているというのも勿論あるけれど、その視力のせいで、日常生活を魔道具や誰かの助けを受けなければ送ることが困難だからだ。
そのことに責任を感じているからと言って、レイと結婚するなんてエレノアには耐えられなかった。だから、エレノアは、英雄としてレイが、凱旋したあの日に魔塔に籠ったのだ。
「――――あの日のことに責任を感じる必要なんてないですよ。英雄のお力になれたこと、王国民として誇らしく思っています」
「――――エレノアから、そんな言葉が出るなんて。誰よりも、その言葉が似合わないと、俺は思っているのだが」
「相変わらず、毒舌ですね」
「エレノアの前でだけだ」
それは、事実なのかもしれないとエレノアは思った。
英雄ラプラスは、誰に対しても完璧だ。
エレノアのそばにいるときだけ、この元婚約者は、ひどく意地悪になってしまうし、どこか頼りなくなってしまうのだから。
「私は……、結婚なんてしません」
そう言った瞬間に、エレノアの茜色の瞳は強く金色に輝く。
エレノアの霞んだ視界ですら、その瞬間、レイがひどく動揺したのが分かる。
(どうしてそんな顔をするの?)
レイが、エレノアの手を掴めば、その光はすぐに収まる。
「――――エレノア、俺のそばにいることを、そこまで厭うか」
「厭っているわけではないです。ただ、私はあなたにふさわしくないし、あなたが些細なことに責任を取ることを望まないだけです」
その瞬間、強引にエレノアは、その手を引かれた。
そして、冷たい唇が強引に重ねられる。
時を止める魔道具を開発しようと躍起になっていたエレノアは、まだ成功してないその実験が、もしかして成功してしまったのではないかと錯覚した。
たぶん、実際の時間では、その唇は一瞬で離されたけれど、エレノアには、永遠のように思えた。
「……魔塔の長と、英雄の婚姻は、荒れてしまった国内をまとめるための、王家の意思でもある。たとえ、エレノアがそれを望まないのだとしても、もうこの結論が覆されることはない」
「私はっ……英雄の妻としての責務を一つも全うすることができません」
「それでも……。俺は、それでもいい」
エレノアは、全身の血液が集まってしまったかのように熱くてしびれてしまった唇に、思わずその白くて細い指先で触れる。
(つまり、今回のことも、王家の意向……ということなのね)
それは、魔道具や魔法薬に秀でたエレノアと、誰よりも武術に秀でたレイの婚約が結ばれた、なによりの理由だった。
「エレノアがどんなに、俺のことを憎んで嫌っていても、明日の婚礼はもう決定事項だ」
「ラプラス卿……。本当に、私のことはそっとしておいて欲しいのです」
どんな理由を付けたって、レイがエレノアへの罪悪感から、婚姻を結ぼうとしているのだと、エレノアは分かっているつもりだ。
「魔塔の中で、好きな研究をして一生を過ごすのが、私の幸せです」
その瞬間、エレノアは広くてたくましい腕の中に捕らえられていた。
「――――そんなこと、言わないで。俺は、エレノアのことが」
「……ラプラス卿?」
小刻みに震える、その体。
こんな風に、震える体で抱きしめられたのは、あの日しかない。
エレノアの視力が、ほとんど失われたあの日。
レイにとって、エレノアの存在が、枷となってしまったあの日。
エレノアは、その直前に起こった出来事に思いを馳せる。
――――たぶん、あの時に姿を消すべきだったのだ。
聡いレイが、真実に気が付いてしまう前に。
エレノアの存在が、優しいレイの枷になってしまう前に。
瞳を閉じれば、灼熱の炎と、真っ赤な色合いが浮かぶ。
瞳の裏に焼き付いてしまった、その光景が、エレノアを思い出したくないのに、片時も忘れることができない時間へと連れ去っていくのだった。
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