1-勇者は目を覚ました
風が頬を撫で、樹々の擦れる音が鼓膜を爽やかに震わしている。
その樹木の合間を飛び立った小鳥が、キュンと聞き慣れない鳴き声で鳴いたころ、その少年ーー蛍日 繋はゆったりと目を開いた。
硬い床が体のあちこちを刺激し、涼しげな風が体温を連れ去っていく。そんな最悪な寝心地からの目覚めにもかかわらず、その少年の心境は実に穏やかであった。
身体を起こそうとすると、強烈な倦怠感が遅れてやってきた。
それをなんとか自制して起き上がる。そうして望めたその場所は、まったくもって見知らぬ場所であった。
「……夢?」
最初に繋はそう呟いた。しかし、肌や眼球が受け取る刺激がここは現実であると訴えてくる。
「夢じゃない、みたいだな……。でも、こんなことってあるのか? 教室が光って、急に意識が遠のいて、気づいたらこんな所まで拉致されてるなんて。これじゃまるで……」
ゆっくりと瞳を閉じ、そして再びゆっくりと目を開いて一度混乱した心を落ち着かせる。
繋はまず、今の自分が置かれている状況を理解することから始めることにした。
「魔法陣……魔法陣だよな? その中には僕含めたクラスメイトがみんないて、その外には知らない人たちがいる……」
彼が座り込んでいるのは古びた神殿のような建造物で、床に魔法陣と呼ぶべき紋様が大きく描かれている。
この文様には見覚えがあった。体感で少し前ーーこうして昏睡してしまうその直前、教室に一人でに描かれていった文様だ。
それが光を放ちはじめたあたりで、そのころの記憶はぶつりと途切れている。
外を見渡してみると、一面の緑が広がっていた。鳥のような鳴き声が相変わらず鼓膜を震わせている。
「……いったん、落ち着こう。それで今やるべきことを考えなきゃ」
そう呟いた繋は、とりあえず、未だに眠っているクラスメイトたちを揺さぶって起こすことにした。
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「……ん? っ、痛ぅ…!」
「おはよう暁くん、君で最後だ。多分筋肉痛やら関節痛やらで辛いと思うけど、とりあえず頑張って起きれるか?」
「その声……蛍日君か? 頑張って起きろって言われても、無性にだるいし筋肉痛が凄まじいんだが……」
「無茶でも頑張ってくれ。……けっこう大変なことになってるんだ」
繋は暁という少年にそう言ったあと、立ち膝になって神殿にいるクラスメイトたちの人数を確認した。
「やっぱり、あいつがいない……」
曲空高校3年B組。在籍40名、現在39名。
一人だけその場にいないのは、果たして彼だけがこの場所に来ていないのか、それとも別の理由があるのか。
「……まあいいや、きっとあいつは大丈夫だろう。それよりも──」
「──皆様お目覚めになられたようでなによりです、召喚者様」
ふと、声が聞こえてきた。
男の声だった。低く、それでいて穏やかなダンディな声だ。
声のした法に皆が振り向く。するとそこには、黒い執事服を見につけた白髭の老人がいかにも完成された立ち姿でそこに立っていた。
「……召喚者、って?」
クラスメイトの一人が、困惑した様子で反応する。
「皆様のことでございます。まずは、こたびの召喚に応じてくださったことへ心からの感謝を」
整った姿勢のまま老人は一礼した。
「ま、待ってください!」
そう声を荒げたのは一人の少女、中川 美月。だった。
「何を言っているのかてんでわかりません! 召喚って何のことですか! それに、こっちからそんなものに応じてなんていりません!」
真面目を具現化したかのような性格の彼女は、真っ先に至極まともな質問を投げかける。
それに対して執事らしき老人が振り返り、そして恭しく一礼して言った。
「戸惑わせてしまって申し訳ありません。その質問に答えるためにも、まずは私についてきていただけますでしょうか?」
「つ、ついてきてって……。あなたみたいな怪しい人、信用できるわけないじゃないですか」
「……行こう、みんな。どうせこんなところにいても仕方ない」
「て、天堂君……」
「な。その方がいいだろ、蛍日」
天堂 喜日哉はそう言って、繋に同意を求める。
繋はそれに対し「うん」とうなずく。
「天党君の言うとおりだ。みんな、まずはついて行って説明を受けよう。でなきゃ何も始められない」
繋の言った言葉に反論する者はいなかった。多くはそれでも不安がる様子を見せていたが、繋の言ったことが正しいことはよく理解できていたのだった。
老人はそれを見てほっとしたように息をつき、
「ご快諾いただきありがとうございます。それでは移動いたしましょう、いつまでも外にいるというのはよろしくありませんから。我らが"人王"がお住まいになる城にて、王から直々にご説明いただきますゆえ」
老人は彼らに背を向けると、何やら宝石のようなものを左手に持ち、そのままその左手をおもむろに目前に掲げた。
「え……? あのおじさん、いったい何するつもりだよ……?」
そのぼやきを耳にしたのか、老人はにこりと微笑む。
そしてその後、一言だけ呟いた。
「ーーウド・アルフェナ」
「……!?」
ピシィン、という音をたてて宝石が砕けるのと同時に、老人の目の前に、楕円型の穴のような何かが生じた。
穴が生じたというより、空間に穴が空いたという表現の方が正しいかもしれない。
そして、その楕円型の穴の向こう側には、白いテーブルクロスのかけられた大机が覗き込めた。
「もしかしたら、皆様の世界には存在しなかったやもしれませんね──これは、魔法と呼ばれるものです」
「──────」
「申し遅れました。私はエルバス・トレーナ、僭越ながら王城にて執事長を務めさせて頂いております。皆様方とは永い付き合いになると思いますので……どうか、よろしくお願い致します」
執事らしき老人は、驚愕する少年少女の顔を見て「ふふ」と笑ったのだった。
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エルバスの案内のもとでいくらか歩いていくと、彼らは他のどの部屋よりも煌びやかな大広間にたどり着いた。
「ご苦労だった、エルバス」
「いえ、我らが人王様の御命令とあれば」
エルバスは、玉座に座す男の前で跪き首を垂れる。
人王と称された男は満足げな顔でうなずき、そしてその顔を茫然と立っている少年少女の方へ向けた。
「そして──お主らが、わが召喚に応じてくれた勇者というわけか」
「勇者……?」
怪訝な顔で誰かがそう呟く。
「ふむ、自覚はないか……ならば一から説明するほかあるまい。エルバス、説明を」
「承知いたしました」
エルバスは王に一礼し、一歩前に出て、
「それでは僭越ながら説明をさせて頂きます。この世界、この国、そして皆様を召喚した理由について」
そう前置いてから、彼はテキパキと説明を始めた。
この世界……異世界「ラフルト」には、大きく分かたれた三つの種族と、それに対応した三つの『領』があるらしい。
特筆した力はないが、それ故に知恵を振り絞り文明を築き上げる人種、そして彼らの住う環境の安定した"人領"。
個々が突出した身体能力を持ち、それ故に己の力のみで大地を開拓する獣種、そして彼らの住う自然に満ちた"獣領"。
魔素を収集する機関を有し、それ故に魔法の技術が圧倒的に長けた魔種、そして彼らの住う魔素に溢れた"魔領"。
それらは、お互いの種族が何百年も前に決定した領境によって分断されており、お互いに必要以上の干渉をしないことで、ある種の均衡状態を作り出していたらしい。
「しかし、その均衡が今まさに崩れようとしているのです」
「それはなぜ?」
エルバスは一瞬間を置いて言った。
「ーー獣種と人種の間で、もうすぐ戦争が勃発するからでございます」
エルバスは語る。
約一年前。人王のもとに、獣王から一通の親書がやってきた。
十数行の手書きの手紙。それが王に伝えようとしていた事柄はただ一つ……獣領からの宣戦布告だった。
「それで、俺たちを……?」
「そう、かの悪辣なる獣達から我ら人種を守るため、お主らを召喚したというわけだ」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
一人の青年が声を荒げる。
前髪を長く伸ばした、暗い印象の青年だった。「十六夜 七夕」という名の青年は、人王に疑問を投げかける。
「なんだか、すごい期待をかけられてるみたいな感じがするんですけど、でも俺たち、そんな強くなんてないです! 戦ったことさえない!」
それは至極真っ当な意見だった。
人王は彼らに熱い信頼を置いているようだが、しかし自分たちは所詮日本人。戦う能力など持ち合わせていないと抗議する。
しかし人王は驚く様子も見せず、その質疑に応答した。
「お主らに戦う力があるかは分からない。しかし我々は、それを知っていたとしてもお主らを召喚しただろう」
「なんでですか……?」
「そもそも我々が異世界から勇者を召喚する魔法を知ったのは、ここにある一枚の石板に記されたものを読み解いたからだったのだ」
そう言って人王は石板を取り出した。
「この石板は、古より人王族に伝わる国宝の一つだ。ここにはこう記されている」
人王はそこに書かれた文字を読み上げる。
「かの者は異界の者であった。かの者は永く続いた争いを一夜にして終わらせた。かの者は不可思議なる魔術を行使できた。かの者を、人々は『勇者』と呼んだ。
「……つまり僕たちは、そんな大戦争を終わらせるほどの凄い魔法のために、こうして呼ばれたってことですか」
繋がそうまとめると、人王はうなずく。
「もっとも、お主らの魔法だけを期待し、主ら自身には何も期待していないということはない」
人王は右手の掌を見せながら、彼らにそう伝えた。
しかしすぐにその掌から力を抜いて、
「だが……」
人王は露骨に不思議そうな顔をする。
「だが、これはどういうことか。本来勇者というのは、五人しか召喚されないものだというのに」
その言葉で、クラスメイトたちは再びざわついた。