迷いの森・4
二人が声のほうを振り返ると、恐い眼で二人を睨みつけている少年が一人……慌てて駆けつけてきたのか、短いけれど柔らかそうな黒髪を乱している。
少年はリュートと呼んだ幻獣とカシミアの間に、かばう様にしてその身体を割り込ませた。
「リュートに何するの!?」
カシミアは伸ばしていた手を降ろすと少年を見つめた。
その眼に驚きはあるものの、たいして動じている様子はない。
静かに見つめられて、かえって少年のほうが動揺してしまっていた。
……いや、見とれてしまっていた、と言った方が正しいかもしれない。
目の前の青年のプラチナの髪は陽光を受けて光が流れ落ち、静かな瞳は深い湖のよう……まるで、一流の彫刻師が丹精込めて彫り上げたかのような整った面差し、白く滑らかな肌。
均整の取れた体つきに、白いローブが良く似合っている。
思わず眼も、心も、吸い寄せられそうな……
少年は、はっと夢から醒めた様に我に返ると、強く頭を振ってもう一度真正面から二人を睨んだ。
(あーあ……)
その様子をのほほんと眺めながら、デニムは心の中で苦笑する。
口を開けばなかなかに辛辣なところがあるカシミアだが、黙って立っていれば聖者もかくや、といった立ち姿をしているのだ。
それは知らぬ者が見たら畏怖の念を抱きかねないほどのものだった。
(可哀想に……)
よく見ると膝が震えている。デニムはやれやれ、と言った面持ちで溜息をついた。
カシミアも同じ事に気が付いたのか、その眼がふっと優しい微笑を湛える。全ての人を魅了せずにはおかない微笑……
決してデニムには見せることの無い、極上の笑みだ。
案の定、少年は完全に気勢をそがれ、惚けたようにカシミアを見つめた。
「すまない、脅かしてしまったかい?」
優しい声でカシミアが語りかける。
少年は声も出せず、その瞳がオロオロと揺れる。
その様子に小さく苦笑を漏らしながら、カシミアは言葉を続けた。
「大丈夫、何もしないよ。ただ、この子に聞きたい事があっただけなんだ」
「聞きたい……こと……?」
半ば鸚鵡返しのように少年が声を漏らす。
カシミアは笑みを深めて頷いた。
「そう、ちょっとしたことだよ」
「お話し……できる、の?」
「それは……やってみないと判らないけど」
カシミアが今度は本格的に苦笑する。
少年の瞳が純粋な好奇心を覗かせたからだ。
カシミアは息を一つ吸い込むと、もう一度幻獣に手を差し伸べた。
リュートと呼ばれた幻獣が、差し伸べられた手に、鼻先を寄せる。
カシミアが何事か呟くと、リュートはその首を大きく縦に振った。
カシミアがまとわり付かせてるのと同じような光がリュートをも包み込む。
カシミアは笑みを深めると、瞑想するかのように眼を閉じた。相変わらず口では何かを呟いているが、もうその声は聞き取れない。
デニムと好奇心に目を輝かせている少年に見守られながら、カシミアたちの“会話”は静かに進んでいった。
やがて光が収まり、リュ-トの首がそっと離れると、カシミアは静かに眼を開けた。
「有り難う……リュート」
「……終わったのか?」
デニムはやっぱりのんびりとした調子で、事実を確認するように、
「で、何だって?」
「ああ……ここは、人間の住む世界と幻獣界の、狭間の世界だと教えてくれた」
「狭間? ……幻獣界じゃなくて?」
「そう、人間界と幻獣界の中間にある世界……神話に出てくるだろう?」
「うーーん……そんな話もあったような……」
言われて、デニムは大きく首を傾げながら口をちょっと尖らせる。
「でもあれだろ? それって要するに迷走の森ってやつだろ?」
カシミアは少しだけ思案気に口元に手をやりながら、軽く頷く。
「うん……そう言われる事もあるね」
肯定を受けて、デニムは「なるほどねぇ……」と小さく呟いた。
「なら、じいちゃんから聞いたことがある……山にはその入り口があるって」
「そう……道が開くときには……」
「霧が出るんだったよな」
「……知ってたわけね」
カシミアが呆れたように溜息を吐いて見せると、デニムは眉を顰めながら笑いとも何ともつかない声を漏らした。
「ハハッ……さすがにそのくらいはな……でも来たのは初めてだ」
それはそうだろう……そう頻繁にあってはおちおち旅もできない。
「その割には落ち着いてるね。もっと驚くかと思ったけど」
そう言ってカシミアはくすっと笑った。
「まあ、そこがデニムらしいのかも知れないけど」
「おいおい、これでも充分驚いてるつもりだぞ」
しかしそんなものは一切表情に出ていない……一見すると状況が解っていないようにも見える。
だが、別の意味では頼もしいと言えなくも無い。どんな状況にあっても決して自分を見失うことの無い冷静さ……そういえば聞こえも良い。
そしてデニムは実際にそうなのだ。
彼が見ているものはいつも、目の前にある真実、それだけ。それを認められなければ、活路など見出せない。
そしてそんなデニムの存在が、カシミアの気を落ち着かせている……それが何より重要だった。
「ま、なんだ、それはいいとして……じゃあこの子は?」
デニムがちらりと少年に視線を向ける。
目があって少年はびくりと首を竦める。
当たり前だが、警戒心がまるで解けていない。
そんな様子を眺めながら、デニムは困ったように肩を竦めた。
「伝承とかでは、隠れ里みたいなものがあるって聞いたけど……」
カシミアはそう呟くと、少年の方に一歩歩み寄った。
「怖がらなくていいよ……君はここに住んでいるのかい?」
再び声が出せなくなったのか、少年は黙って頷く。
その目には警戒とは違う別の感情が浮かんでいる。
だが、緊張しているのか、歯の根が噛み合わないでいるようだ。
それを心配げな色の瞳で見つめながらも、デニムはあえて黙っている。
カシミアは少年の緊張を解こうと、にっこりと笑って見せた。
「僕はカシミア。そこの彼はデニムって言うんだ。大丈夫、何もしないよ。ただ道に迷ったらしくて……良かったら、君の名前、教えてくれるかな?」
「ぼ……僕、コットン……です」
びくっと肩を揺らしながらも、コットンは比較的素直に名前を明かした。
カシミアに対する警戒心はどうやら影をひそめたらしい。
(こんなに綺麗な人だもの……悪い人じゃないよね……?)
リュートとも『話し』をしたみたいだし……
幻獣の中でも特に警戒心の強いリュートが心を開いたのだ。そして今も落ち着いたようにこの場に留まっている。
そこまで考えて、コットンの心にふいに大きな疑問が浮かび上がった。
「あ、あの……」
「なんだい?」
深く蒼い瞳に見つめられて喉がからからに渇くのを覚えながら、コットンは思い切って問い掛けた。
「あの……どうして聖霊様が人間の戦士なんかと一緒にいるんですか!?」
半ば叫ぶように言い切って、コットンは大きく肩で息をした。
その眼がデニムをキッと睨みつける。
一方、二人はしっかり固まってしまっていた。
「せ、せい……れい?」
「……『なんか』?」
二の句が継げず呆然とする青年達に向かって、コットンは更に力を込めて言い募る。
「だって、リュートとお話しできるんでしょ!? 聖霊様の言葉で……でもそっちの人、悪い人でしょ!?」
「悪い人……? デニムが?」
思わぬ言葉にカシミアは眼を白黒させる。
何かが吹っ切れたのか、コットンは勢いを落とさず畳みかけた。
「だってその人、剣持ってるし……戦士なんて皆悪い人でしょ?」
「そ、そんな……」
強く言い切られて、かえってカシミアの方が戸惑いを見せる。
だが、当のデニムはただ困ったように笑っているだけだった。
そう……とうの昔に気付いていたのだ。コットンの視線が、常にその剣を気にしていたのを……
「悪い人ねえ……でも彼はそんな……」
そう言いかけて、カシミアは言葉を切った。
こんなに小さな身体で、震えながらも精一杯デニムを睨み付けている……
(もしかして、そう教えられて育ってきたのか……?)
そうであれば、コットンの誤解を解くのはそう容易なことではなさそうだ。
だが、このままでは話が進まない……
その時、デニムは何を考えたのか、やおら腰の剣を鞘ごと抜くと、それをコットンに手渡した。
コットンは訳が解らないまま両手でそれを受け取って……
「うわっ」
あまりの重さに、落としそうになった。
なんだろう、とデニムの方を見上げると、彼はニコニコしたまま、
「抜いてごらん」
そう言って頷いて見せた。
「……?」
言われた通りにコットンが抜こうとして……
「……、あれっ?」
抜けない……どんなに力を込めても、両足で挟み込んで両手で引っ張ってみても、剣は一向に鞘から抜けようとしない。
「……抜けないんだよ。それ、錆びちゃってるんだ」
あっさりとデニムが言ってのける。
一緒に旅を始めて数日経つが、確かにカシミアもデニムが剣を抜いたところを見たことが無かった。
旅立つ前にしばらく模擬戦などはしていたが、その時のデニムは騎士団の装備を身に着けていた。
当然、剣も支給品のもので、それを振るっていたのはカシミアも見ていた。
だが、いざ旅立ちの日になってカシミアに前に現れたデニムは、騎士の装備をすっかり取り払い、レザーアーマーにマントと言った出で立ちだった。
腰に佩く剣も古い長剣に変わっていた。
「うんっ……! んん……っ!」
コットンは尚も力を込めて引っ張るが、一向に剣は鞘から抜けようとしない。
しかし……
カシミアは思う……
錆びているのかどうかは正直疑わしい。
質素ではあるが、鞘の造りはしっかりとしており、装飾も施されている。
柄は長い年月の間使い込まれたためか相当古くなってはいるが、それでも錆び一つ浮いていない。
かなりの年代ものであるのは疑い様が無いが、同時に大事にされてきたことも事実だろう。
そして何より、デニムは決してそれを手放そうとはしない。
本来、戦士であるならば役に立たない剣など持ち歩かないだろうに……
(まあ、今はそれでいいか……)
事実はどうあれ、コットンの警戒心を解くチャンスではある。
カシミアはそう思い直すと、力尽きて肩で息をするコットンに向かって言った。
「僕は聖霊様じゃないし、デニムも戦士ではあるけど決して悪いやつじゃないよ」
諭すように言われ、コットンは戸惑ったように二人を交互に見つめる。
ふいにリュートが、戸惑うコットンの頬に鼻先を寄せた。
何事かと見上げたコットンの眼を見つめ、一声いななく。
その声に耳を傾け、何かを汲み取るように、コットンはしばしリュートを見つめ返し……
やがてコットンは小さく目を伏せてからゆっくりと頷いた。
「……解ったよ。リュートがそう言うなら」
そう呟くと、デニムに向かって剣を差し出す。
「これ、返すよ」
「……信じてくれるのかい?」
剣を受け取りながらデニムが問うと、コットンは黙って頷く。
次の瞬間、デニムが見せたのは本当に嬉しそうな表情だった。
「よかったぁ~」
心底ホッとしたように大きな溜息を吐く。
そんな様を見ていると警戒するのがバカバカしくなってきそうだ。
コットンにもそれが通じたのか、初めてその顔に笑みが浮かんできた。
それを見てデニムもやっと、苦笑ではない無邪気な笑顔を見せた。
そのままカシミアの方を振り返る。
「さあ、誤解が解けたところで……これからどうする?」
鮮やかに話題を引き戻され、カシミアは苦笑いしつつ自らも思考を切り替える。
「そうだね……とりあえず、ここから抜け出す手立てを考えないと……」
「リュートは教えてくれなかったのか?」
「リュートにも解らないそうだ。出る事そのものは簡単だけどね」
「? ……どう言うことだ?」
「つまりもう一度、霧の中に入ってしまえばいいんだ。そうすれば人間界には行けるのは行ける……ただ、霧が出るのがいつになるかが判らない」
「……それに、やたらに飛び込んでも、どこに出るかも判らないし、元の場所に戻れるとは限らない、って長老様が言ってたよ」
コットンがカシミアの言葉を補足する。
デニムは、彼にしては珍しく、難しい顔をして考え込んだ。
「つまり何か……? 出る時には賭け、ってことになるのか?」
「そう言うことになるかな。下手をすれば全く知らない土地に投げ出されていた、なんて事にもなりかねない」
「そりゃ、困ったな……じゃあ、俺たちはどうすればいいんだ?」
デニムの問いにカシミアが答えられないでいると、コットンが口を挟んできた。
「あ、あの……村の長老様に話してみたら? 長老様だったら、きっとここを出る方法を知ってると思う」
コットンの提案に、二人はしばし考え込む。
コットンのような小さな子供でさえ、これだけ警戒心が強いのだ。ましてや大人となると……
「尋ねに行って……素直に教えてくれるかな?」
軽く眉をひそめながらカシミアが言う。
デニムはなおも考え込んでいたが、やがて諦めたように両手を上げた。
「まあ、ここであーだこーだ言っててもしょうがねえし……行ってみるしか無いんじゃないか?」
判りきったことをあっけらかんと言う。
「それに案外、親切かも知れないし」
見事なほどの希望的観測を堂々と言ってのけられて、カシミアは何だか考えるのが虚しくなってきた。
しかし同時にデニムの言う通りでもある事は否定できない。
カシミアは苦笑を漏らすと、降参のポーズをとった。
「確かにね……君にしては建設的な意見だな」
軽い皮肉を気付いのたかそうでないのか、デニムはにっこり笑って頷くと、
「なに、心配ないさ。なにせこっちには『聖霊様』がついてんだから……」
な、と言うようにコットンに目配せする。コットンは目を輝かせて、
「ウン!!」
と、大きく頷いた。
殆ど同レベルといった表情で二ッと笑い合う二人をじっとりとした目で見つめながら、カシミアは思わず自分の蟀谷を指で押さえる。
(こいつら、そこまで本気か判らない……)
「こっちだよ!!」
頭がくらくらしているカシミアをよそに、二人はもう、歩き出していた。
「おーい、置いてっちゃうぞぉ」
緊張感のかけらも無いデニムの声にめまいが倍加しつつも、カシミアは二人の後を追って歩き出す。
(絶対に聖霊なんかにされてたまるか!)
と、むなしい決意を固めながら……
若干不定期更新になっています。
できる限り週に3話は更新していきたいです……
よろしくお願いいたします。