静かなる夜・1
「危なかったね……お兄ちゃんたち」
心底ホッとしたようにコットンはその場にぺたりと座り込むと、力いっぱい溜息を吐き出した。
同時に木霊し始める地鳴りのような音…… 大地の唸り声のようにも感じる振動が、怨嗟のように辺り一面を揺らす。
「…………!!」
展開されていく光景に、二人は言葉を失い立ち尽くした。
門は閉ざされ、森の様子などはもう見えない。
しかしその異変は空を見上げれば充分に窺い知ることができた。
空を覆い尽くさんばかりの無数の魔獣の影……ヌラヌラと黒光りするその影を浮かび上がらせる空の色は、血のような赤から、ユラユラと絶えず蠢き続ける闇色の虹彩へと変化していく。
美しくも見えるほど、悍ましい……
眩暈を誘発しそうなその空の色に、カシミアは思わずよろめき、デニムが左手でその腕を取った。
「……大丈夫か?」
「ああ、何とか……」
幻惑を振り払うかのように軽く頭を振って、カシミアは微かに笑って見せた。
デニムは小さく頷きながらも、心配げな眼の色でカシミアの様子をうかがう。
何となく面映ゆくなってカシミアは眼を逸らすと、もう大丈夫と言う様にデニムの手を外した。
二、三度瞬きをして再び空を見上げて呟く。
「でも……これで解ったよ」
「?……何が?」
「さっき、コットンが、陽が沈むのを気にしていた……こう言う事だったんだね」
カシミアの言葉に、ようやく立ち上がって尻の砂を払いながらコットンが頷く。
「今日は特に悪い日なんだ。新月の日が近いから、魔獣が一杯出てくるんだよ」
「……村は、大丈夫なのか?」
空を見上げながら呟くデニムの声。
不安の色は見えないが、その眼は油断無く魔獣たちの動きを追っている。
「大丈夫です。この村には結界がありますゆえ、ここには魔獣は入って来れませぬ」
長老の答えに、デニムは大きく息をつくと、やっと少しだけ安堵の笑みを漏らした。
右手に構えたままだった剣を鞘に収めようとして、コットンと眼が合ってしまう。
「えー……と……」
少しバツが悪そうな表情で、デニムは言葉を探すように唇を舐める。
コットンはそんな彼の顔を、じっと見つめていた。
デニムの陽気な茶色の瞳の中に浮かんできたのは、哀しみと後悔の色……さっき、戦闘の時に初めの一瞬だけ見せた色だ。
「嘘……ついてごめんな」
眉根を寄せ、本当にすまなそうに言うデニムを見つめながら、コットンは口を開かず、その剣を持った大きな右手に小さな手を置いた。
視線が剣に落ちる。
鞘から抜かれたままの剣……柄を見る限り、かなり古い代物だろうが、コットンにはその価値はよく判らない。
ただ、よく手入れされているのか、その刀身には曇り一つ無く刃こぼれも無い……
「なーんだ……錆びてないじゃない」
呟いて、コットンは顔を上げるとにっこりと笑った。
乗せていた手をそっと離す。
「でも、きれいな剣だね」
「……ありがとう」
デニムは微かに笑ってそれだけ言うと、今度こそ剣を鞘に収めた。
微かなカチリという音とともにストッパーが掛かる。それでもう簡単に抜くことは出来ない。
「抜かないですめば、それに越したことは無いんだけどね」
そう言いながら鼻の頭をぽりぽりと掻く。
……笑ってはいるが、その表情がカシミアにはどこか自嘲気味に見えた。
「さ、いくら村の中とは言え、外は危険じゃ……今夜は私の家にお泊りなされ」
長老のその一言で、黙って成り行きを見守っていた村人たちは解散し、二人は長老とコットンと共に村の奥の家へと向かった。
夜の村は、昼よりも更に静まり返って人影も無い。
それぞれの家に灯りがともっていることだけが、この村に人が住んでいることの証になっているかのよう……
長老の家にはすぐにたどり着いた。
「ここには宿らしい宿というものはございませんでな……何ももてなしは出来ませぬが、ゆるりとしていってくだされ」
そう言いながら、長老自ら入り口を開け、二人を誘う。
初めのうちカシミアに見せていた警戒の色はもう、無い。
カシミアは微笑みながら、
「いえ、一夜の宿を貸して下さるだけでも、ありがたいことです」
と、右手の親指で胸の真ん中を指し、左、右、そしてまた真ん中へと小さく振り、そして両手を組んだ。
祝福と同時に感謝を示す、神官特有の儀礼だ。
「すみません、ありがとうございます」
一方デニムは、ただ深く頭を下げる。そこにあるのは、単純だが精一杯の感謝の意。
長老は優しい眼でそんな二人を見遣ると、奥へと歩を進めた。
家の中では、既に食事の準備が出来ていた。
湯気の立つ豆と野菜のスープに、粉を練って焼いたもの、チーズ、果物……それらがやや小さいテーブルにきちんと四人分。
いい匂いが旅人たちの鼻をくすぐり、思わず空腹を思い出させた。
「いつの間に……」
カシミアはふと疑問に思い首を傾げる。
確かに夕刻までは長老とコットン以外に人の気配はしなかったはずなのだが……
それを知らないデニムは、ただただ目の前の料理に目を輝かせている。
しかし、二人の目を引いたのは用意された料理だけではなかった。
その周辺をちらちら、ちらちらと忙しなく行き交う小さな影……
「……うわ! 可愛い!」
デニムが思わず子供のような声を上げる。
カシミアはその視線の先を目で追って、少しばかり納得したような声で呟いた。
「なるほど……ねえ」
部屋の奥からえっちらおっちらと皿を運んで来たのは、小人のような生き物達だった。
大きさがコットンの膝まであるかないかしかない。
四枚の皿を一人一枚づつ持ってテーブルの下まで運んでくると、昆虫のような透明な羽根を必死にばたつかせながらそれを持ち上げる。
チラチラ……パタパタ……
彼らにとっては一抱えもある皿が重そうで、二人の方がハラハラハラハラする。
三人目が皿を持ち上げ、テーブルの上に降ろそうとしたとき……
「「あっ!」」
バランスを取りそこない、皿が小人の手から滑り落ちた。皿と同時に、小人もテーブルから落ちそうになる。
「危ないっ!」
咄嗟にデニムが手を伸ばし、小人と皿を受け止めた。
物凄い反射神経……さすがに戦士だけあって。
大きな手に受け止められ、小人が可愛らしい眼をぱちくりさせる。と、きょとんとした表情でその手の持ち主を見上げた。
「大丈夫かい?」
にっこりとデニムが笑いかける。
デニムの大きな手に尻を預けたまま、小人は言葉を理解したようにこくこく、こくこく、首を縦に……
「…………まったく、呆れた運動神経だね」
軽く含み笑いしながら、カシミアがデニムから皿を受け取りテーブルの上に乗せた。
ついでにもう一枚も小人から受け取り、テーブルの上に置く。
小人達の薄青い光を放つ、幾対もの大きな瞳が、二人の客人を交互に見上げた。
デニムの手に乗っていた小人がパタパタと羽を揺らし、デニムの目の高さの所まで浮かびあがってくる。
その高さでホバリングしながらデニムを覗き込んで来るのは空色に澄む瞳……
二人の視線が、しっかりと合わさる。
緑色の柔らかそうな短い髪に、子供のようなふっくりとした頬、人間のものと同じ、血の通った滑らかな肌をしている。
服装は草の葉のようなモチーフだろうか……ちょっと大き目ではあるが、それは草木の妖精を思わせた。
デニムが思わず見とれていると、小人はふいにニコニコと笑いデニムの頬に自分の頭を擦り付けた。
すりすり……すりすり……
「あはっ! かぁわいいなぁ……!」
くすぐったそうにしながら、デニムは子供のようにはしゃいでいる。
そこには先程の戦闘で見せた鋭さは微塵も感じられない……いやむしろ、全くと言っていいほどに締りが無い。
それを見ながら苦笑するカシミアに、別の小人が同じように頭を摺り寄せてきた。
カシミアは優しい瞳でその頭を優しく撫でる。
その手つきに薄っすらと目を細め、小人は心地好さげに喉の奥で「キュウ」と鳴いた。
「あははっ! オーボー達、お兄ちゃん達の事気に入ったみたいだね!」
コットンがニコニコと笑う横で、長老は二、三度手を叩くと、
「これこれ、せっかくの食事が冷めてしまうぞ……早く準備を」
その声に感応して、オーボー達は取り敢えず二人から離れ、仕事を再開した。
奥の部屋に入り、今度は何やら飲み物の入った壺を持ち出してくる。
「あ……、……、て、手伝おう、か?」
あまりの危なっかしさにまたもやハラハラしながらデニムが言うと、
「大丈夫だよ、僕がやるから。お客さんは座っててよ」
微妙に大人びた口調でコットンが返した。
「……そ、そう、かい?」
それでも心配そうにオロオロするデニムに、呆れるような視線を向けるカシミア。
「……デニム、立ってるとかえって邪魔かもしれないよ。ここはお言葉に甘えよう」
「……あ、ああ」
結局カシミアからも促され、デニムはしぶしぶ椅子に腰掛けた。
しかし、何だかんだで殆どもう準備は出来てしまっていた。
コットンは全員のカップに飲み物を注いで回ると、
「よ……ッと」
自分も席へと飛び乗る。
長老はそれを見定めると、胸の前に両手を組んだ。
一同もそれに倣い、首を垂れる。
「……では、どうぞ召し上がってくだされ」
短い祈りの後、長老の言葉を合図に食事が始まった。
一等最初に緑色の豆のスープを口に運んだデニムから、早速上がったのは感嘆の声。
「……ん! 美味い!!」
その手はもう、次の獲物を狙っている。
薄いパンにチーズを乗せて包み、それを大きく一口頬張って、更にスープを口に……
決して上品な食べ方ではないが、それが何故か、かえって見ていて小気味良い。
カシミアは初めのうちはその様を少々呆れ顔で見ていたが、徐々にその口元に笑みが浮かんできた。
そして自分もスープを口に運ぶ。
香りから豆だと判断したスープは、暖かくトロリと舌から喉の奥へと滑り落ちていく。豆の甘味に塩気が程よく効いて、それを纏めるやわらかなコク……
鼻に抜ける香りの中に微かに感じる爽やかさ。
…………とても、美味しい
ゆっくりとスープを堪能して、次にカシミアはパンを手に取った。
皆に倣い、味付けされた生野菜を乗せて丁寧に包む。
千切って食べるわけにもいかず、そのまま丸ごと一度に……
「…………なん、だよ…………」
隣から向けられるうざったいくらいに熱い視線に、齧ろうとした手を止め、じろりと横目に視線を投げ返した。
しかし更に投げ返されたのは大柄な男の無邪気すぎる笑み。
「いや……ちゃんと食ってるな、ってさ」
はにかんだように微笑んで言われ、カシミアはすっかり毒気を抜かれてしまった。
「……お口に合いますかな?」
二人のやり取りに微笑ましいものを見るような眼をして長老がそう尋ねると、デニムが忙しなく頷き、
「美味いです……懐かしい味がします」
カシミアが口を開くよりの早く、身を乗り出す。
「ほほう……懐かしい味ですか」
デニムの言葉に軽く興味をそそられたように長老の眼が見開く。
「ええ、俺の郷にも似たような料理があって……寒い夜なんかには特に美味かったなぁ」
どこか遠くを見つめるように眼を細めるデニム。
長老の髭が、もそもそと震える。
「ホッホッ、それはよろしゅうございました……カシミア殿は? 何分にもこんな小さな村……こういう物しかお出し出来ないのですが」
「いえ、とても美味しいです」
問われてカシミアは微笑を返し、今度こそパンに齧りついた。
確かに質素ではあるが、粗末ではない。
特にスープは美味である。
パンの付け合わせに揃えられた具材は、赤や緑などの野菜に白っぽいチーズ。
野菜はあるものは火を通され、あるものは生のまま、彩も豊かだ。
確かに味は、どこか郷愁を誘われる。
ただし……
その野菜たちの上にでん! と乗っかっているふよッとした見た目の物体の正体は明らかではないが……
正直食べるのに勇気が要りそうだ……
「……ねえ、デニム兄ちゃんの郷ってどんなとこ?」
そのふよふよを躊躇いもなくパンに挟みながら、コットンはデニムに話を振る。
「ああ、俺の郷か? そうだな……ちょうど、この村みたいに山の中にあってな……」
律儀にコットンに答えながらも、デニムの手は止まらない。
同じように躊躇う気配も見せず、ふよをパンにてんこ盛り……パンの上で透けて白ちゃけた物体がふるんふるんと震える。
美味しいのか……? いや、その前に……
本当に食べられるの……か?
微かに眉を顰めるカシミアをよそに、二人は豪快にかぶりつきながら会話を続ける。
「じゃあ、お兄ちゃんの村も、ここみたいに小さな村なの?」
「うん、あんまり変わらないかなあ……大人の男はあんまりいなかったし」
「え? どうして?」
コットンが目を丸くして尋ねる。
カシミアもさすがに興味をそそられて聞耳を立てた。
その二人の様子に、デニムは思わず苦笑を一つ。
「……単なる出稼ぎだよ」
「でかせぎ?」
「ああ、これと言ったものが何も無いところだからな……ある程度の歳になると、何年かは外に働きに出るんだ」
「出稼ぎかい? 働くっていったい何を?」
「あれ……? カシミア兄ちゃんも知らないの?」
「ああ……デニムとは王都で知り合ったからね。実はそんなに間がないんだよ。それにお互いの事も殆ど話してないし……」
「そう言えば確かにな……まあ、働きに出るったって色々だよ。ただ……特にこれが多いかな……」
そう言ってデニムは少し複雑な表情をして、腰の剣に手を掛けた。
カシミアはなるほど、と言ったように一つ頷く。
デニムはふよパンの最後の一口を口に放り込むと、口をもぐもぐさせながら、
「これ、初めて食ったけどメチャクチャ旨いよな!」
これ、なんていうんだ?
言いながら、二枚目のふよパンに取り掛かる。
(食ったことないんかい!!?)
カシミアはらしくない荒っぽい言葉で内心で力いっぱい突っ込んだ。
「これ? アングル・アングラだよ?」
それを感知することなく当然、と言った顔で答えるコットン。
「アングル・アングラ?」
鸚鵡返しをするカシミアに、無邪気な顔で大きく頷く。
「うん! アングルの幼虫だよ!」
はっきりきっぱりあっさり答え、コットンはふよパンを口に放り込んだ。
きりがないので、途中で投稿します(^_^;)
よろしくお願いします!