【1-2】グィルズベイル山 追放の裏道 / 兄の見送り
切り裂いた布を適当にまとい、その上からブカブカになってしまった外套をすっぽり被る。裾を少し引きずっているのはご愛敬。長い髪が鬱陶しい。
背中には僅かばかりの財産を背負い、シャラは微妙に傾斜した洞窟の中を早足で歩いて行く。明かりの無い通路だが、ドラゴンの目には関係無い。
天嶮・グィルズベイル山の中に魔法で築かれた、複雑で広大な宮殿洞窟が現在の『黒の群れ』の本拠地だ。
その出入り口はいくつかあるが、今シャラが歩いている場所は、追放者を叩き出すときだけに使われる道。
この道を通る者の末路に相応しく、飾りどころか照明器具すら無い荒涼とした道だ。
嘲笑いに来る見送りのドラゴンすら居ない。
いや……そうでもなかった。
「酷い目に遭ったな、シャラ」
行く手に、闇に紛れるような黒い影があった。
「……兄ちゃん」
「おお、その声と姿で呼びかけられると新鮮だな」
海藻のような黒髪短髪をした眼鏡男子がクールに微笑みかける。頬には鱗、側頭部には鋭い角が生えていた。
彼は貴族趣味めいたフリルシャツと、スキニーに近いズボン姿。そのどちらも後部に穴が空いていて、ずるりと長い尻尾と立派な翼が飛び出している。
シャラに声を掛けた彼の名はラウル。
その姿の通り、ラウルも当然ドラゴンだ。
「追放者に会いに来ていいのかよ」
「構わないさ。追放者に会いに行く奴なんか普通は居ないから、わざわざそれを禁じた掟など無いんだ。
群れの資源を……例えば食い物を分けたりしたら別だがな」
皮肉めかした表情でラウルは言う。
ラウルは300歳ほどで、年齢的にも実力的にも、群れでの地位は中堅どころ。
シャラにとっては(ドラゴンの基準で考えても)歳の離れた、異父兄に当たる。……母は同じだが、ラウルの父はガイレイなのだ。
群れの誰も彼もが出来損ないのシャラに辛く当たる中、唯一優しくしてくれたのがラウルだった。
そのラウルとも、どうやら今日でお別れだ。
「……これからどうする気だ? シャラ」
「人に交じって生きるよ。俺はみんなみたいに人を見下してないし、嫌ってもいない」
「ふぅん、いつもの前世の話か」
「相変わらず信じてねーな、兄ちゃん……」
シャラは溜息をつく。
実はシャラには、こうしてドラゴンに産まれるより前の記憶があった。
シャラは前世で地球という世界に生きていた、普通の人間の男だった。これと言って特殊な境遇だったわけではない。まだ中年とは言われたくない歳で、独居独身の会社員だった。
前世での死因はシャラ自身、実のところよく分かっていない。ある休日、遅い朝食を買いに近所のコンビニまで歩いていたら突然目の前が暗くなって倒れ、路上に横たわる自分の姿を見ながら空に吸い込まれていった……というのが、シャラが地球で見た最後の光景だ。
過労死するほど働いたつもりは無いし、特に持病も無かったはずなのだが、ちょっと睡眠時間の短い日が続いていたので心臓発作でも起こして急死したのかも知れない。
そしてシャラは気が付けば、卵の殻の中で身体を丸めて眠っていた。
自分が異世界でドラゴンに生まれ変わったのだということに気が付いた時は高揚したりもしたものだが、ドラゴンはドラゴンでも鼻つまみ者の出来損ないだ。
もしかしたら前世で人間だったせいで、今生でドラゴンとしてこれほど無能なのか? とも思ったが、他にサンプルが無いのでなんとも言い難い。
シャラが前世のことを……高度に科学技術が発達した人間だけの世界のことを話しても、皆、頭がいかれているのだろうと笑ってまともに取り合わなかった。
ラウルだけが(信じているかどうかは別として)シャラの話を興味深く聞いてくれたのだった。
ともあれ、前世で人間だった身としては、ドラゴンに生まれようが何だろうがどうしても人という存在に親近感とか同族意識を抱いてしまう。
大抵のドラゴンは人のことを、『愚かで貧弱なくせに数だけは多くて、ドラゴンのものであるべき大地を占有している、駆除すべき害虫』くらいにしか思っていないのだが、シャラは違った。彼らを皆殺しにして世界征服をするだなんてとんでもない。
もう群れには居られないのだから、どうにかして人に交じって暮らす道を模索しようと考えていた。正体がバレたら殺されるかも知れないとしてもだ。
「まあいいさ。
しかし、人里まで無事に辿り着けるのか?」
「それは……」
シャラは言葉に詰まる。
ドラゴンの群れの近くには、竜気を……ドラゴンの発するエネルギーを食らって力を付けた強力な魔物がはびこっている。彼らはドラゴンとの上下関係を概ねわきまえているが、血肉と力に飢えた手の付けられない狂犬のようなものでもある。
そんな場所に群れを追われた出来損ないのドラゴンが一頭きりで出て行くなど、エサにしてくれと言っているようなものだ。
人里に辿り着くまでがそもそも命懸けだった。着いてからも命懸けだが。
ラウルは何か、木管のようなものをポケットから取り出すと、それをシャラ目がけてトスした。
受け取ってみればそれは、軽いはずなのに手に吸い付くような重さを感じるという矛盾した手応えがあった。見ているだけで背筋が寒くなるような何かを感じる。
「持ってけ。俺の力を込めてある。魔物どもは威圧感にビビって逃げ出すぞ」
「恩に着るよ、兄ちゃん」
「効果が持つのは二、三日だからな。寄り道しないで真っ直ぐ街へ向かえよ。それから……」
次にラウルが持ち出したのは、小さい卒業証書入れみたいな筒状の物体だった。
「ナニコレ」
「手紙だ。要は紹介状だな。
前線都市に住むエレナ・グレイという人間の女を尋ねてそれを渡せ。俺とは知らんでもない仲だ」
「……兄ちゃん、人間の知り合いとか居たの?」
「居るさ。皆には秘密だがな。
相互に利益のある友好関係なら、相手が竜族でも人族でも関係無い」
当然のようにラウルは言う。シャラはちょっと不思議な気分だった。
ラウルも普段は他のドラゴンと同じように、人間に対しては見下しを隠そうとしなかったから。
そんなラウルが『相互に利益のある友好関係』と言うほどの相手。それほどの偉人、傑物ということだろうか。
「手紙で彼女にお前の世話をするよう頼んである」
「何から何まで本当にありがとう……」
「気にするな」
本気で有り難くて、シャラはちょっと泣きそうになった。
人間社会に身一つで飛び込むのがどれほど困難か、シャラは分かっているつもりだ。保護者が居てくれるのならば苦労は大幅に軽減されるはず。
「でも兄ちゃんはなんで、こんな……俺みたいな……」
「『出来損ないのために』ってか? 自分を卑下するのはやめるんだ、シャラ。
お前にも良いところはあるさ。例えば………………まあ、何か良いところはあるさ」
「フォローになってねえよ!」
目を逸らすラウルに、シャラは甲高い声でわめいて抗議した。
「……何より俺も、あのクソジジイは気に食わん。意趣返しのようなものだ」
いつも飄々とした調子のラウルが、闇夜のように深い色の目で虚空を睨み付けていた。
真剣な声音だった。
ガイレイはただ単に群れの長というだけでなく、他のドラゴンとは格が違う『古代龍』。しかし、だからと言って必ずしも群れの全員から神の如く崇められているとは限らなかった。
少なくともラウルはかねてよりガイレイを嫌っている。
シャラにとっては群れのほぼ全員が等しくクソ野郎であるが、その元締めがガイレイなのだから、自分にまともに接してくれるラウルとはそりが合わないのも当然だろうと単純に考えていた。
「折角こんな息が詰まりそうな穴蔵を出て外の世界へ行くんだ。
探せよ、お前の良いところ」
「……うん」
クール眼鏡の優男は、なんか問答無用でモテそうな雰囲気の微笑みを浮かべる。
シャラとしては唯々ひたすら頭が下がる思いだった。