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恭介・圭吾シリーズ  作者: 芹澤柚衣
アンリミテッド・スノーマンの情景
48/73

19

 広い座敷に、その空間をもて余す程の人数が着席していた。上座には、土屋の当主であり、その統治下に組み敷いた人間すべてを絶対王政で支配する男が座っている。平均値を超えていない筈の体格であったが、斜向かいに座す者の頭を、自動的に畳に擦り付けさせるようなオーラを放っていた。その横には側近にあたる五十半ばの男が一人、しかつめらしい顔で座っている。二人の正面には烏丸と、一歩下がった位置に恭介が対座し、入り口側には智也が着席している。レム睡眠の途中で叩き起こされたかのように、不機嫌極まりない顔を隠す気もないようだった。

 七年前を思い起こさせるようなデジャブが、一瞬烏丸に苦い気持ちを与える。出来損ないのロードムービーのように、これまで歩んで来たさまざまな瞬間が脳裏に甦った。それは型の古い映写機で傷んでいたリールを無理矢理再生したかのような、ぶつ切りのスライドショーだった。

 意識を持っていかれないよう、小さなため息をついてリセットする。間違いなくここから先が正念場で、烏丸には明確に爪痕を残せる一手があった。研ぎ澄まされた爪も、今すぐにその喉元へ食らいかんばかりに疼く牙も、今はすべてを水面下に沈めて、ただ穏やかに笑う。それは唇に浮かべた静寂だった。烏丸は己の野心とも言えるひとつの目的のために、完全に感情を殺すことができた。

「これより、恭介様の魂による移し替えの儀式を行います」

 智也が淡々と言った。あらかじめ用意されている進行表を、読み上げているかのように起伏のない声だっだ。


〝お、おい……! 始まっちまうぞ……!?〟

 ありがたいことに縁側に向けた襖の一部が空いていたため、誰に気づかれることもなく無事侵入を果たせた犬神が叫んだ。続いて鳴海、一之進、和真が歩みを進め、更に遅れて入ったのは圭吾、楠だった。こちらの姿が見えないとわかっていても、敵陣地に堂々と乗り込むのは居心地が悪い。少し距離をとりつつ、襖の影に仲良く隠れるようにしてしゃがみこんだ。

「その前に」

 烏丸が発言した。恭介の魂を儀式に使われる前に暴れ倒したい面々が、まさに今飛び出すべきではないのかと勇み足で互いの顔色を伺っていた矢先のことだった。

「ご報告したいことがございます」

 熱意を込めすぎて、警戒心を抱かせてはいけない。

 程よく冷静で愛想のある声が出た。及第点だなと自己評価する。

「申してみよ」

 王様が言った。烏丸は密かに奥歯を噛み締める。震えていたのだ。それは武者震いだった。

「――以前、私は恭介様、及び妹君の魂には、半分空洞があると申し上げました」


 畳み掛けるのは、間違いなく今だった。


「この事実を弱点として捉えるのはなく、うまく活用する方法がないか――僭越ながら、恭介様の監督役を仰せつかった日からこの七年、模索して参りました。その結果、とあるひとつの使い道を確立したのです」

「――使い道だと?」

 土屋の当主が目を瞠った。悪くない反応だっだ。

 七年前は、烏丸の言葉などは殆どこの男に届かなかった。話を聞いて百面相をして見せたのも、感嘆の声をあげたのも、その横にいるどうでも良い男だけ。まさに、最悪な立ち位置からの出発だったと言えるかもしれない。

 烏丸の演技は完璧だった。この七年、土屋に尽くし、人は殺めないというポリシーだけは曲げられなかったものの、ときに危ない仕事さえ自ら志願した。また一方で、恭介の様子を逐一報告しては、その際に何の感情も混ざらないよう徹底することも忘れなかった。

 なるべく軽薄な表情で、機械的に口を動かし、ある時には嫌味な笑顔さえ浮かべて見せた。まとめた書類や写真などには、データとしての価値以上のものは何もないという態度で取り扱った。

 すべては、この瞬間のためだった。犬に成り下がったのも、恭介の命を、ストックされた備品のように扱いせせら笑ったのも、その度に、腹の底でマグマのように、ぐつぐつと煮えたぎるそれをひたすら耐えたのも――すべて、この時のため。

「百聞は一見にしかず」

 烏丸は、敢えて軽口に聞こえるように言った。横に付き従う男の注意が、露骨に烏丸に向けられる。視線は、集められるだけ集めるのが望ましい。

「魂の儀式を行う前に、一度、妹君のご容態、拝見させていただけませんか?」

 提案は唐突だった。主は、まるで予測もしていなかった方向から、豆鉄砲を食らったような顔をした。

「何のつもりだ」

「治せるかもしれません」

「あれはもうすっかり衰弱しきっておる。恭介の魂が必要だ」

「何事にも、原因というものがございます」

 烏丸は、溌剌と答弁を続ける。

「それは勿論、妹君の魂を弱らせる某かにおいてもです。それは先だってから私がお話ししていたように、或いは恭介様の魂で補填可能な症状なのでしょう」

「……わかっているなら、早くやってしまえ」

 御当主の食いつきは悪かった。烏丸は、不燃ごみの日にまとめておいたそれを出しそびれたような気持ちになったが、すぐに切り替えた。月に一回処理をするチャンスの巡ってくるゴミ収集日のように、それらは烏丸にとってリカバリー可能な問題だった。

「ですが、もっと賢い使い道を確立したと申し上げているのです。割れ蓋を綴じるのに、形の似たそれをとりあえず当て嵌めるより、割れてしまった蓋が元通りに直る方が、ぴったりくるとは思いませんか?」

 烏丸は手と手を重ねて、参加者の綴じ蓋への想像を促した。まるで手品師の披露するマジックのように、傍聴席の意識が彼の手元へと奪われる。烏丸が本当にマジシャンなら、そのうちに種と仕掛けを拵えるところだ。

「お時間は取らせません」

「……好きにしろ」

「恭介様」

 許可を取るなり、烏丸が恭介を呼んだ。アルミ缶を踏み潰すかのように、何の愛情もない声だった。

 促されるようにして、恭介がふらふらと前に出る。改めて頭を深く下げてから、じっと几帳の奥を見た。

 高貴なお姫様は、その姿を下々の者に見せることはないという。その名前さえも、不吉な呪いに利用されることを恐れ、公表されないのが常だった。恭介だって、その姿を見たのは幼少の頃。鳥霊に襲われた彼女を助けるべく、本来は禁制であろう几帳の中へと無理に侵入した、あの一度きり。

 実の妹の姿を直接見ることは叶わないのに、その彼女を苦しめる動物霊の方が、こんなにはっきり視えるのは何だか皮肉だと思った。

「何が視えますか」

 烏丸が聞いた。赤の他人と話しているかのように、ひどく無味乾燥な声だった。

「……蛙、が、いる」

「成程。では飲み込めますか?」

「――どういう意味だ?」

 土屋の当主が、僅かに眉を動かして尋ねた。

「恭介様の魂には、半分空洞があります」

 再三、烏丸は言った。

「その上、恭介様は土屋の血を誰より濃く受け継いでいらっしゃいます。つまり、」

 烏丸はより効果的に響くよう、一度ためてから続きを口にした。

「その空洞を浄霊用の腔として使えば、邪霊をおのずと神聖な血でとり囲めます。結果――霊への浄化作用が可能になり、へたな清水よりも効率よく浄霊ができるということは、度重なる実験により実証済みでございます」

〝――烏丸ァ!〟

 成り行きを見守るつもりだった。烏丸に、何らかの意図があるのは明らかだったから。けれど、その一言を聞いてしまっては、犬神はもう耐えられなかった。

 胸に刺していた楠の羽を毟り取り、烏丸の前に、立ち塞がるようにその姿を現す。奥歯でさまざまな衝動を噛みしめながら、犬神は悲痛な声で問い質した。

〝ずっと、恭介の体で実験してたのか……!? 後々に、こいつらにとって便利な道具にならねェかって、恭介のことを、ずっと……!〟

「犬神」

 ぞくりとするような冷たい声だった。犬神は、やりきれない思いで烏丸を睨んだ。

「丁度良かった。ここからは、お前の力が必要なんだ。いつものように、竜巻でその他の邪気を祓ってくれないか? 始末する蛙霊以外の何かが、恭介様の体内に入ることがないよう整えて欲しいんだ」

 正気を疑う程に、何の乱れもない声だった。今犬神が激昂している感情も、羽を毟り取ってその姿を表した覚悟も、まるで届かないのだという絶望を味わい犬神は静かに立ち竦む。


 ――反面、頭の一部が、冷静に情報を処理していた。


 今までの浄霊のやり方について、改めて考えてみると確かに何かがおかしかった。対象にとりついていた霊を祓う時、今烏丸が言ったように、まず犬神は自身の霊力で以って竜巻を作った。その力に、恭介が僅かばかりアシストすることによって、標的を徐霊できていると思い込んでいた。

 けれど、今までどんな大きな霊と対峙したって、犬神がへとへとに疲れるようなことはなかった。そんなものだと思っていたから、改めて疑問に思うことはなかった。けれど先日の、拓真の依頼を受けた際、犬神は初めて霊力を使い果たした疲労というものを知った。普段のお祓いで、あれと似たようなことをしていたと思い込むには、明らかな違いがあった。なのにどうして、犬神はお祓いの一連すべてを、自身の力でできていると思い込んでいたのか――それは、恭介が()()()()()言っていたからだ。

 実際は、今烏丸が言った通り、恭介の腔を使っていたのだろう。対象の霊だけをうまく自身の体に取り込めるよう、その他の邪霊を弾き飛ばす結界の代わりが犬神の作る竜巻だったのだ。

「犬神」

 恭介が呼んだ。それは、泣きたくなる程優しい声だった。

「俺は大丈夫……烏丸さんの、言う通りにして」

 犬神は気づいていた。突然現れた自分にすぐさま役割を与えることによって、犬神の存在を、反乱分子かどうか判断しかねる空気感を烏丸が作ってくれたことを。烏丸の操縦によってこの場が動かされており、そのようにして今、犬神の立場が紙一重で守られていることを。

「始めましょう」

 どこまでも冷静な声が、だだっ広いその広間に落とされる。それは、犬神がお祓いの開始と定めているマスターの声ではなかったが、従わない訳にはいかない圧があった。

 犬神は自身の体を揺らし、徐々に気体へと形を変えた。渦巻く中心点を恭介に定めながら、姫君を苦しめる蛙の霊を引っ張り出すように回転を強める。引き剥がされたその蛙霊は、声を発する暇もなく恭介の体へ吸い込まれていった。

 そのからくりに、どうして今まで気づかずにいられたのかわからない程、わかりやすく蛙の霊は恭介の体に取り込まれた。

「ぐっ……、う……」

 恭介が膝をつき、胸を掻き毟るようにして畳の上へ転がった。何度か嘔吐を繰り返したが、胃液に近い液体が溢れるだけで、いっそ気絶してしまいたいくらいの吐き気からは逃れることはできない。

 畳の上に爪を立て、這いつくばった状態で息を整える。吸った分だけ呼吸が楽になる訳もなく、恭介は畳に額を擦り付けながらもがき苦しんだ。

「まだ、やれますよね?」

「っ……」

 恐ろしいことを烏丸が確認した。息を詰めながら、恭介はどうにか頭を縦に振る。寝転んでいたって抜けることのない吐き気と、全身を這い回る虫をも錯覚するようなおぞましさ。すぐにでも、取り込んだ邪霊に何もかも持っていかれてしまいそうで怖かった。肩に爪を立て、その痛みでどうにか正気を保っていた。

〝烏丸……! もう良いだろ!〟

「黙ってろ」

 耐えかねて犬神が叫んだが、ぴしゃりとはね除けられた。

〝恭介、ずっと苦しがってるじゃねェか……っ!〟

「だから何だ? 現状維持以外のことは何もするな。竜巻を勝手に解いたら、その恭介だって大変なことになるぞ」

 地を這うような声だった。脅し文句のようで、烏丸の言っていることは存外正しかった。従うしかないのだと、本当はとっくに悟っている。恭介がどんなに苦しんでも。涙を堪えられないような、ひどい痛みに襲われていても。

 動き出した歯車は、誰にも止められないのだ。


「はぁ、はぁ……」

「終わりましたか?」

 烏丸が簡潔に確認をした。真っ先に問いかけたのは、恭介の安否ではなく事象の進捗だった。恭介は、未だ肺を苦しめる後遺症にもがいていたため喋れなかった。必死で首を縦に振り、事の終息を烏丸に報告する。

「プレゼンは以上です」

 烏丸は、にこやかに笑ってそう宣言した。まるで、胃液を吐き続ける恭介など、視界に入っていないかのような朗らかな声だった。

「今回は少しばかり強い霊だったので、やや時間がかかってしまいましたが……今後とも似たようなケースがあれば、恭介様の空洞を使った浄霊が可能であり、その成功率も今ご覧いただいた通りでございます。しかも恭介様は、こと動物霊に関して言えば、強靭な霊力を放つという折り紙つき! 長い目で見ても、姫君の治療法として、そのお体をキープしておくのが賢明かと思われます」

 あと少しだ、と烏丸は思った。この心が可視化されてしまえば、どくどくと血を流しているのがばれてしまうだろう。烏丸が必死で耐えているこの痛みは、最早止血さえ不可能な程の大きな穴をあけていた。それらがすべて、見えないものであることに烏丸はただ感謝した。お陰で、こんなふうにへらへらと、笑い続けていられるのだから。

「贄として消化してしまえば一度きりですが、()()として使用するのであれば、何度でも使えます」


「ねぇ……もしかして俺たちって、恭ちゃんの体がいかに便利に使えるか……パフォーマンスするための場所を、あんな必死に守ってたっていうこと……?」

 事の顛末を静かに見守っていた中で、鳴海がその静寂を破るように口を開く。鳴海が言語化するまでもなく、その絶望は一堂痛いほどに噛み締めていた。

「城脇」

 堪らなくなって、鳴海は羽を仕舞っていた胸ポケットに指をかける。その手を圭吾に押さえられ、思わず叩くようにして振り払ってしまった。

「圭吾は、どうして平気なんだよ……!?」

「平気かどうかなんて、今は問題じゃない」

「だったら、何が問題なワケ!? 俺は嫌だよ! こんなこと、今すぐやめさせてよ! みんなで寄ってたかって恭ちゃんのこと、便利に使えるから生かしてもいいみたいな言い方っ……!」

 まるでスイッチを切ったように、突如鳴海の体が倒れた。反射でそれを支えながら、圭吾は窺うように鳴海の後ろに視線を走らせる。たった今鳴海の首に遠慮のない首刀を振り下ろしただろう一之進が、どんな顔をしているのか視ることは叶わなかった。

〝……鳴海には、酷だったみてェだからな〟

 優しい声が、そんな風に言うものだから。圭吾はやりきれなくなって目を伏せる。

 烏丸のしようとしていることは、いい加減圭吾にもわかっていた――だからこそ、見届けなければならなかったのだ。


〝……っ、いい加減にしろよ、烏丸ァ……!!〟

 感情を抑えられなくなった犬神が、吠えるようにして叫んだ。その時に止める者がいなければ、犬神の選択は、もう少し違ったものになっていたかもしれない。けれど踏み出したその足で、楠の羽を踏んでしまったその瞬間、犬神の耳に確かに響く声があった。

〝――耐えろ犬神!!〟

 それは、共に恭介を救おうと奮闘してくれた一之進のものだった。

〝俺らがここででしゃばっちまったら、烏丸が歯ァ食いしばって堪えてるもんが全部水の泡になっちまう……! 烏丸の、膝に載せてる拳を見てみろよ! ずっと震えてるだろ! 必死で取り繕って、平気な顔で言葉を尽くして、その水面下でずっとあいつは、爪が掌に食い込むくらいの感情を一人で耐えてきたんだよ!!〟


 それは、烏丸に飛びかかろうとした犬神の、前足を引き止めるには充分な力のある声だった。


〝俺だって、全部はわからねェ! だけど、この家が抱えてる闇も権力も柵も、子供一人と大人一人ぽっちじゃ、対抗なんかできねェくらいでけェだろうことは想像できンだよ! 恭介を自由にしてやりたくっても、土屋の枠を出てしまったらもう守れねェんだ! 少なくとも今は、烏丸が()()()の人間で居続ける以外に道はないんだよ! これがきっと、恭介を生かすための最善なんだ! 今は耐えてくれ犬神……! 頼む……!!〟

 犬神は、楠の羽を下敷きにするかのように、ぺたりとその場にしゃがみこんだ。その言葉を振りきってまで、二歩目を踏み出すに相応しい最善策などなかったから。七年来の友が、成し遂げようとすることに水を差すなどどうしてできよう。犬神は、這いつくばるように項垂れた。

 ここに居る全員で、できることはやったのだ――できることしか、やれないのだ。


「成程」

 土屋の王様が、口だけで笑った。珍しくご機嫌なその男は、唇を歪めながらこう言った。

「使う方が便利だな」

 烏丸はすぐに頭を下げた。それは、敬意や従順さを表すための土下座ではなかった。さすがに堪えられる範疇を逸脱した言葉を聞いて、露骨に表情に影響が出ることを懸念しての行動だった。

「大義であったぞ、烏丸。火急の折は、再び()()を連れてこい――下がれ」

 果たして、烏丸の血と汗と涙の滲んだその舞台は、見事満員御礼で千秋楽を無事終えられたようだった。




 外は、初夏の空気に相応しい程瑞々しい青に満ちていた。雲ひとつない薄い水色と濃い青のグラデーションが、裾野から滲むように広がっている。

 あれから、楠の部屋に匿われた圭吾たちは、その場でおとなしく待機していた。自分達にやれることはやり尽くしたため、後は大人の指示を待つしかなかったからだ。

 縁側に腰を下ろしていた圭吾は、自身の裸足をぼんやりと見下ろす。果たしてどうやって帰ろうかなどと、どうでもいいことを一人考えていた。

 どさり、と音を立てて、それなりな質量を持った何かが隣に下ろされる。つられるようにして右側を向いた。華奢な男性が横たわっているのが視界に入った。ストレートの黒髪が、おでこの中央で綺麗に分かれている。露骨に顔を覗き込んでしまったが、目が合うことはない。気絶なのか、或いは一時的な呪いでも掛けられたのか、それとも疲労困憊の末の爆睡中なのかは判断つかなかったが、しっかりと瞼が下りていたからだ。

 平均よりはやや細い体つきの割に、その指は節がしっかりしていて存外太い。ピアニストのそれだと圭吾が思うのと、傍らにいた和真が駆け寄るのは同時だった。

〝拓真、拓真……!〟

 愛しい弟を撫でるようにして、手を添えているのが圭吾にもくっきり視えるのは、彼が自殺した霊だから。拓真の話だと、それなりに才のあるピアニストだったそうだが、その指はもう、かつての太さを残してはいない。形の良いおでこを撫でようとする度に、すり抜けてしまい叶わないのは、彼が紛うことなき死人だからだ。

 それでも懲りずに、何度も手を伸ばしている。触れることが叶う叶わないではなく、ただ愛しいのだろう――圭吾は既に、その感情を知っているような気がした。

「お前たちは、一旦帰宅しなさい。心配しなくてももう、恭介は無事神社に帰れると思うぞ」

 たった今拓真を縁側に置いたばかりの烏丸が、はっきりとそう言った。どことなく緊張感の抜けきらなかった空気が、一気に弛緩する。本当に、もう帰って体を休めていいのだとわかった瞬間だった。無意識に長い息をついて、圭吾は大きく伸びをする。

「烏丸さんは、どうするんですか?」

「俺はもう少し、この屋敷にいなきゃならないな。説明とか、大丈夫だろうけど謀反が疑わしいところの弁解とか……することが多くて、大人は大変だよ」

「お前の場合は全部自業自得だろ!」

 モーターエンジンでも襖に取り付けたのかとでも思えるスピードで、入り口側の襖がスライドされた。眉毛をつり上げた智也が、ヒステリックにわめき散らしながら乱入して来る。圭吾は何となく、智也のいる方の耳を塞ぐことにした。後に振り返ってみても、圭吾のそれは英断だった。

「いいか! もう二度とこんな下らないことに俺を巻き込むなよ! 聞いているのか!?」

〝おい……いいのか? 糸目野郎がめちゃくちゃ怒ってるぞ〟

「智也君照れ屋だから気にしないで」

 一之進にとってはほぼ他人だったが、こんなに声を張り上げている人を視界に入れている以上性格的にも放っておけず、旧知の仲のようなのにまるで宥めようとしない烏丸に、とりあえず声を掛けてみたが本人はどこ吹く風だ。

「『照れ屋』で世の中の何もかもを片付けようとするな馬鹿!」

「お前のことしか片づけてないよ」

「……白虎」

〝はい、マスター〟

 完全に堪忍袋の緒が焼き切れた智也と自覚なくガソリンを振り撒く烏丸を横目に、圭吾は淡々とした声で白虎を呼びつけた。まるで一秒の遅れさえも失態であるかのごとく、すぐさま返事が返ってくる。それは、気持ちのいい程礼儀正しい声だった。

「城脇を、背中に乗せて移動してくれ。僕は拓真さんを運ぶよ」

〝承知致しました〟

 気絶したまま眠ってしまった鳴海を起こさないよう、丁寧に虎霊の背中に乗せる。鳴海は少しむずがったが、起きる様子は見られなかった。

「僕達は神社に帰りますが……一之進さんも一緒に来ますか?」

〝いや、俺は一旦和真を霊門まで送ってから合流するわ。その方が拓真も安心するだろうしな〟

 和真の魂が上にあがる直前にどうやら土屋の手の者に捕まってしまったらしい失態を反省すべく、今度こそしっかり見送ると心に決めていたようだ。申し訳なさそうに頭を下げる和真に、一之進は意気揚々とサムズアップのサインを送っている。どうでも良いがああいうのをどこで覚えてくるんだろうと、それなりに古の時代を生きたであろう商人の霊を不思議な気持ちで圭吾は眺めた。

〝……俺も、ひとまず恭介の傍にいるわ。圭吾、鳴海と拓真を任せても良いか?〟

 犬神が耳を伏せ、しゃがれた声でそう言った。雨に濡れたような弱々しい声だった。

「了解しました」

 圭吾は折り目正しい声でそう答え、拓真の腕を首の後ろに通す。意識のない人間の体重が、ずしりとその肩にのしかかった。

「必ず、恭介を連れて帰るからな」

 烏丸が再三言った。意味のないことを、必要もないのに何度も言葉にしない男だと知っている。

「……待ってます」

 圭吾は、静かにその二度目の約束を受け止めた。

〝あの……智也、さん〟

「何だ!?」

 一之進について行こうとした和真が、くるりと向きを変え智也に声を掛ける。未だに烏丸への怒りをふつふつと煮えたぎらせている智也の返事は、完全に八つ当たりを具現化したような刺々しいものだった。普段から控えめに過ごしていただろう和真にとっては出会い頭にいきなり頬を叩かれるくらいの衝撃と恐ろしさがあったが、気後れする気持ちを奮い立たせて何とか声を出す。

〝智也さんは最初から、本気で恭介さんの命を奪うつもりはなかったのではないでしょうか〟

「……っ」

「え、そうなの?」

 烏丸が無遠慮に割って入った。何事にも物怖じしないところがこの男の良いところであり悪いところでもあったが、この場合は明確に後者と言えるケースだった。智也のこめかみに血管が浮かび、和真は二歩後退した。

〝わ、私達は……智也さんの術によって、金魚の中に入れられたと思っていたのですが……実際はシェルターのような空間に、一時的に避難させられていただけのようでした〟

「……」

 気まずそうに、智也が目を逸らした。殆ど馬鹿正直に、図星だと言っているような反応だった。

〝もしかしたら恭介さんのことも、魂を入れ換えたと見せかけて……お守りするつもりだったのではないかと〟

 じっと、その場にいた全員の視線が智也に集まる。蝿でも追い払うかのように、智也は両手を振り回しならがら叫んだ。

「勝手なこと言うなよ! たかが恭介なんかのために、本気で貴重な術を極めるのが馬鹿らしかっただけだ!」

「えー、困るよ。とりあえずそこは、足並み揃えてもらわないと」

 烏丸の暢気な声が、無邪気に智也を非難する。とっくに切れていた智也の堪忍袋が、ついに燃え尽きた瞬間だった。

「どの口がそれを言うんだ!?」

「いひゃい、いひゃい! ……あ、圭吾。靴、とりあえずそこに置いといてあるから」

 雑巾を絞る勢いで烏丸の頬をつねる智也の手から器用に逃げ、烏丸は体を捻りながら縁側の石段を指差した。

「ありがとうございます」

「っていうかお前、足音を殺すために躊躇わず靴も靴下も捨てるって……どこの部隊で育て上げられた兵隊だよ」

「策士家のあなたに言われたくありませんよ」

〝どっちもどっちだろ……〟

 犬神がぼそりと呟いた。心からの言葉であった。

「じゃあ、もう行きますね」

 靴を履いて、足の裏の感触を確かめる。しっかり土を踏みしめてから、圭吾は拓真を担ぎ上げた。

「いろいろと悪かったな」

 そっぽを向きながら、烏丸が言った。一瞬誰に向けての謝罪か分からなかったが、とりあえず心当たりなら左頬にある。つ、と中指で剥がれかけている絆創膏をなぞってから、圭吾は改めて口を開いた。

「頬の怪我のことですか?」

「言っておくがそのことに関してだけは絶対に欠片も詫びんぞ! 俺の目の前で恭介に、キ……手……手を出しやがって……!」

〝ほーら烏丸! もう戻らねェと怪しまれるって! じゃあな圭吾! また後でな!〟

 瞬間湯沸し器のように突如怒りを露にした烏丸の視線を遮るように、犬神がわが身を犠牲にする覚悟で飛び出してとりなした。手を出した、なんて回りくどい言い方をわざわざしたのは、「恭介にキスをした」などとは言語化もしたくない程に腹立たしかったからに違いない。

 しっかりと拓真を抱え直してから、圭吾はペロリと唇を舐めた。一度目のキスも、烏丸の逆鱗に触れた二度目のキスも。それなりに切羽詰まっていたため、その感触は殆ど思い出せない。

 勿体ないことをしたな、と圭吾は思った。もう一回ぐらい、どこかのタイミングでできないだろうか。そこまで考えてから、さすがにないなと思った。いい加減、頭も体も疲れきっているのだと理解した。



 縁側に一人取り残された智也は、ぼんやりと一切の隙もない程整い過ぎている庭を眺めていた。とりあえず、ひと段落はしたのだと思う。まだ実感は湧かないけれど。

 智也にとっても、長いのか短いのかよくわからない七年だった。和真はああ言ったが、恭介のことは正直憎んでいるし、本当に殺してやろうかと思ったことも、一度や二度ではない。


 ――だって、あの子供が息をしている限り、烏丸の視線が他所へ向けられることはないのだから。


 今回の件に関しては、烏丸の方から智也を巻き込み、共犯に仕立てあげるという傍迷惑極まりない状況だった。

 故に、依頼を受けた通りに術式を極めてうっかり殺してしまったところで、責められるような謂れはないだろう。恭介から命を奪う名目も、チャンスも、お膳立てされたかのように、はいどうぞと言わんばかりに目の前にあったのだ。そんな好条件の中で、まったく心が揺れない訳がなかった――けれど。

「……お前が言ったんだろ」


 ――そんな術式、極めたところで非倫理的だ。傲りも甚だしいよ。俺は嫌いだね。


 そんな言葉で、智也が恭介を殺す可能性を0%にしてしまうだなんて。烏丸は思いもしないだろう。

 あの男は、いつもそうだ。本人にしてみれば深い意味なんかない、何気ない一言が、智也の心を、意志を、その行く末さえも、簡単に烏丸の望む場所へと縛り付ける。そうして、その場から動けなくなった智也なんかに見向きもしないまま、あの子供の元へと駆けて行くのだ――それでも。


(――嫌われたくないだなんて)


 馬鹿げている。決して自分を振り向きはしない男のために、智也はそれでも心から、そんな女々しいことを考えてしまうのだ。額を膝に擦り付けるようにして、体を丸めて縮こまる。

 どこにも行けやしないのに、迷子になったような気分だった。



 ぐす、ぐすと鼻を啜るような音が聞こえる。狸寝入りは完全に破綻していると言って良かった。

 圭吾は拓真を抱え直し、あと何分で到着するのだろうとぼんやり思う。恭介の住む神社から土屋邸へ向かうのに、行きは急いでいたため見落としていたが、どうやらバスのルートもあったようで。タクシーは金銭的に不可能なので却下。同じ公共交通機関を頼るにも、電車を選ぶには駅までの距離もあるし、この状態でいちいち改札をくぐるのも面倒だ。意識のない人間を二人抱えている現状での帰宅ルートは、いくつかの選択肢があるようでいて、結局のところ直通で最寄りの場所まで運んでくれるバスの一択だった。

 バス停は、圭吾の心を多少折る程度の距離にあった。逆に言えば、多少心を折ればどうにかなると言えなくもなかった。圭吾はため息を圧し殺して、駅に比べればまだ近いその場所へと歩みを進めることにした。そんな折に背後から聞こえたのが、件の鼻を啜る音である。

 気づかなかった振りをするのも優しさと思い放っておいたが、そろそろ音量的にそれも厳しくなってきた。何なら、気の早い蝉の声より大きい。新種の蝉かと思っていたから放っておいた、という言い訳も考えたが、さすがに苦しいかもしれない。

「……起きてたのか」

「うっううー……!」

 諦めて声を掛けたら、返事にならない呻き声があがった。拓真の意識はまだ戻っていない――ならば、泣き声の主は、虎霊に乗せた彼のものだろうと、とっくにあたりはつけている。

「白虎に鼻水つけるなよ」

「つけないよ!」

 ぐしゃぐしゃの声で鳴海が叫んだ。全部の単語に、濁音がついているかのような濁った声音だった。

「ほんとは……っ、ほんとはちゃんとわかってる……! あの時烏丸さんの作戦を邪魔して、恭ちゃんを連れ去ったって、何も解決しないことも! 俺らがまた巻き込まれることがないように、恭ちゃんが体を張って守ってくれたのも……! 圭吾が、ちっとも平気なんかじゃなかったことも、全部、全部……! ちゃんと、ちゃんとわかってたのに……っ!」

 嗚咽混じりに、鳴海が訴えた。圭吾は振り向かないまま静聴を続ける。

「ごめん、ごめんね……俺、俺っ……! 悔しいよぉ……っ!」

 喉が、潰れてしまいそうな慟哭だった。圭吾は目を眇めて、様々な感情をやり過ごさねばならなかった。

「僕は」

 それでも、伝えたいことは確かにあった。背負った拓真を抱え直してから、圭吾は静かな声で言った。

「お前があの時怒ってくれたから、多分……最後まで、見届けられたんだと思う」

 それは、ポツリと独り言のように響く声だった。鳴海に聞かせるための言葉というより、本当にただの独り言だったのかもしれない。押し付けがましさのないお天気雨のように、それは突然鳴海に降ってきた。

 むくりと体を起こし、鳴海は手の甲で涙を拭った。睫毛についた雫のせいで、世界が偽物の宝石みたいにキラキラ輝いている。

 いじける気持ちも、悔しい気持ちも、何もかも今すぐに、消えてしまうような魔法はない。

 けれどここには、こんなふうに圭吾がいて、白虎が自分を運んでくれて、拓真はちゃんと戻ってきて――それだけじゃない。きっとその後に、他のみんなが、あの神社に戻ってきてくれる。ただいまとおかえりを笑いながら言い合って、鳴海が山ほど焼いたホットケーキを、みんなで揃って囲むのだ。


「……次の電信柱で、たっ君背負うの代わるよ」

「肩怪我したやつが何言ってんだ、馬鹿」

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