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恭介・圭吾シリーズ  作者: 芹澤柚衣
アンリミテッド・スノーマンの情景
46/73

17

 その日は、朝からしんしんと雪が降っていた。暖冬だなんて、嘘っぱちじゃないかと烏丸は思う。三月の気温は毎年冬にカテゴライズされ、下手をしたら四月もコートが手放せない。綿ぼこりのような柔らかい雪をわざと踏み潰しながら、訪問者のやる気を出だしから削ぐような長い階段をゆっくりと登った。


 ――恭介との生活は、思いの外順調に進んでいた。


 気分屋の自分にしては足蹴く通っていたし、最初は表情の硬かった恭介も、少しずつ笑うことが多くなっている。中でも、烏丸が時々持参する手土産の和菓子に大層喜び、つぶ餡の大判焼きを初めて齧った瞬間の顔なんて、連写してアルバムに納めたいくらい可愛かった。

 日々新しい、楽しいことを教えては、そのインディゴ・ブルーの瞳が、キラキラと輝く瞬間を見るのが楽しかった。まるでスノードームをひっくり返したみたいに、あちこちからの光を受けた目が、烏丸の与えるものを映すだけで嬉しくなってしまう。

 恭介の透き通る海のようなそれは、気がついた時には片目だけ色が変わっていた。代わりにぼんやりとしか視えなかった犬霊が、毛並みの固ささえも想像できるほどリアルに具現化されるようになったので、恐らくは()()に使ってしまったのだろうと思う。九尾との盟約に何を使ったのかも未だ教えてもらっていないが、こんなふうに幼いあの子の体を切り売りするようなことは、もう二度と繰り返したくはなかった。

 寒さに煽られ、右手を思わずポケットにしまう。くしゃり、と紙の潰れるような音がしたので、烏丸は慌てて引っこ抜いた。そういえば、出掛けに剥がれかれていた札を見つけて、戻った時に貼り直そうと、失くしてしまわないようポケットに入れたのだった。

 摘まむようにして取り出し、改めてまじまじと観察する。見覚えがあるなぁとは思っていたが、記憶違いなどではないようだった。

(やっぱり、師匠の札だ)

 気がつけば、定期的に神社のあちこちに貼られるようになっていた。屈み込まないと見えない箇所に貼り付けてあるため、自分のような同業者でなければ見落としそうだけれど。それは時々形や大きさを変え、地脈を寸分たがわぬ正確さで読み取り、穴を据え置いた柱などによく見られた。

(恭介はもう守られなくなっただなんて言って、下手したら俺より過保護なんじゃないか……?)

 こんなふうに回りくどいやり方で世話を焼くくらいなら、最初から反対なんかせず、恭介と自分が関わることに対してもう少し協力的になってくれれば良かったのにと思う。そんな子供っぽい愚痴を、本人に聞かせるつもりは毛頭ないけれど。

(……でも、師匠の札が、()()()()()()()()のなんか初めてだな)

 ふいに、そんなことを思った。烏丸の知る限りでは、例え正式な依頼ではないような案件でも、己の仕事には拘りがあり、すべてにおいて卒なくこなすことのできる男だったから。手がけられた呪具はすべてその効力や相性もきっちりと計算されており、途中で剥がれるようなことは今までにもなかったように思う。

 珍しいこともあるもんだなと感想を抱きながら、烏丸は少し傷んだその札を改めてポケットに収納した。

(今夜は、積もりそうだな)

 恭介と雪だるまを作ろう。長靴はあっただろうか。もしなければ、雪うさぎにしよう。烏丸のかき集めた雪を縁側に持ち込んで、冷え込まないように、恭介には毛布を掛けようか。雪うさぎなら、冷凍庫に入れておけば数日は楽しめる。外の雪が消えてしまった頃に、冷凍庫に隠しておいたそれを手品のように取り出して見せるのもいい。きっと、驚いた顔が何度も見られるに違いない。

 まだまだ恭介の知らない、素敵なものがこの世には溢れている。それをひとつひとつ手渡ししてやれることは、烏丸の大いなる庇護欲と、少しの征服欲を満たしてくれた。

 鳥居をくぐった瞬間、チリ、と肌に痺れが走る。烏丸の周りだけ、空気が凍ったような感覚。雪の織り成す冷気とは別に、ぞわりと背中を這い上がるような冷たい予感。小さな悲鳴を烏丸の耳が拾うのと、柔らかくなった土を蹴飛ばすのはほぼ同時だった。

「恭介……!?」

「か、烏丸さんっ……!」

 恭介の腕を掴み、縛り上げるように拘束している黒髪の若い男と、縁側に乗り上げ、その足を押さえ込みながら喉元にナイフを当てている茶髪の中年男を視界に捉えた。いちいち敵かどうかを判断している暇はなかったので、烏丸は走ってきたスピードをそのまま助走として使い、一気に踏み込んだ。飛び上がった角度から、スピードを殺さずに中年男の顔面を蹴りあげる。放り投げられたナイフを器用に避けながら、反動で跳ね返った体は右掌を畳についてうまく支え、軽く軌道修正を図る。体を捻りつつなるべく距離をとり、大きく円を描くようにして反対側にいた黒髪男の脳天に踵を振り落とした。

 体の部位で言えばそれなりに硬い骨ではあるが、仕掛けた自分もそれなりに痛い。片腕と膝を使ってうまく着地しながら、反対の手で恭介の腰を引き寄せた。その小さな体ごと巻き込むようにして後転を繰り返し、勢い土壁に背中を打ち付けて小さく呻く。

「いきなり何すんだ、てめェ……」

 中年男が顔面を押さえながそう言ったが、それは完全にこちらの台詞である。烏丸は恭介を背中に隠すようにしながら、改めて目の前の二人組を睨んだ。

「何のつもりだお前ら。どうして、恭介にこんなこと……!」

 中年男は明らかに気分を害したような顔で、でっぷりとした腹を撫でながら答えた。それはひどく耳障りな、妙にざらついた声だった。

「土屋の屋敷はああ見えて守りがカタいからな。中にいたまんまじゃ手も出せなかったが……そいつの血は、金になるんだよ」

 頬肉を歪めるようにして笑うその表情は、なめくじのようにべとついた不快感を纏っていた。

「俺は個人的に土屋一族に恨みがあってなぁ……如何に忌み子と言えど、てめェらの子供を嬲り殺された挙げ句、その血であぶく銭を稼いだ反乱分子に寝首をかかれる屈辱ってのを、味わわせてやりてェのよ」

 くつくつと嘲笑うようにして、黒髪の若い男が言った。黒板を爪で引っ掻く時に似た、不快感が烏丸の喉元を襲う。背に庇った恭介が、きゅう、と烏丸の背広を掴んだ。

「……恭介、耳……塞いでろ」

 感情を押し殺したような声で烏丸が呟く。こんな醜い言葉、これ以上聞かせたくはなかった。

「しかし何だァ、忌み子ってのは、思っていたより綺麗な肌してんのなァ……その泥水みてェな汚ねぇ血、搾り取る前に可愛がってやってもいいんだぜ?」

 やに下がった中年男の眥が、視姦するように恭介をなぞる。耐えられない不快感に、烏丸は眉を潜めた。

「そいつをおとなしく渡してもらおうか」

「ふざけたことを言うな」

「先に目をつけたのは俺らなんだよ。横からかっさらうなんて、卑怯な真似してんじゃねェよ」

 にやにやと小馬鹿にするように笑う中年男の後ろで、黒髪の男が忌々しげに吐き捨てた。じり、と一歩後ろに下がった烏丸は、スラックスのポケットに指を掛けながら問い掛ける。

「――嫌だと言ったら?」

「力ずくで奪うまでさ」

 相手が動く前に、師匠の札を取り出して足元に据え置いた。瞬時に作られた結界により、烏丸と恭介の周りを半円の光が取り囲む。中年男の繰り出した念道力を弾き返すことには成功したが、その一発を食らったことにより形成は一気に逆転した。

 衝撃でたわんだ畳をしっかりと踏みしめながら、烏丸は目の前に広がる絶望に、なす統べなく立ち尽くしていた。

(ちくしょう……! 同業者かよ!)

「おかしいと思ったんだよなァ……確かにこの辺りに神社があったはずなのに、訪れるたんびに狐につつまれたみてェに、迷い込んじまって辿り着けなかったんだよ」

 中年男がやれやれといった風情で、わざとらしくため息をつく。

「楠の札が隠してたんだな。それが突然今日になって、尻尾を掴めたのが不思議だったんだが……事情を知らないお前みてェな馬鹿が、運悪く剥がしてくれてたのか。笑えるぜ」

 黒髪の男がせせら笑った。こちらの神経を逆撫でするような、毒のある笑い方だった。

「てめェで剥がしたてめェの師匠の札、後生大事に再利用すンのはいいけどよォ……それ、多分もうそんなにもたねェぜ? いいこだからこっちに渡しな」

 中年の男が、ひらひらと太い腕を振りながら言った。呆れたように言われなくとも、そんなことは烏丸自身が一番よくわかっていた。師匠の札は、地脈に沿うように貼られていた時点で()()()()()できている。剥がれかけていた段階で効力の殆どは失われているし、そもそも戦闘向きに作られた呪具ではない。

 それでも、そんな残り火のような力でも、騙し騙し使わなければならない理由が烏丸にはあった。

(後悔はしていない)

 ポリシーがあった。人助けのためにこそ、その力は使われるべきだ。誰かが誰かを呪い殺すのを手伝ったって、その恨みは悲しい連鎖を生むだけだ。終わりのない泥沼に足を突っ込むのは御免だったし、そんなつまらないものに使われる呪具なんか作りたくはなかった。

 人と人は対等に向き合うべきだ。そしてその命は、平等に扱われるからこそ尊い。故に、必要とされた時にだけ相応しい呪具を作り、自身の保身のためだけの、目的のないものは一切作らない。それが烏丸の掲げる信念だった。


 ――お前一人だけ汚れ役の一切をせずに済まそうなどとは、聊か考えが甘いぞ。


 ――お前くらいだよ……いざという時のことを考えて、何ひとつ備えない馬鹿は。


 だが、その烏丸の信念が、今この瞬間完全に裏目に出てしまっていた。

 師匠の札から、薄い梔子色の煙が光っている。並々ならぬ念を込められたその札は、残り火でも生々しく燃え上がり、烏丸と恭介を包み込んでくれた。

 うまくこの場を凌げば、恭介だけでも逃がすことはできるかも知れない。烏丸の中で、そんな希望が頭をもたげた矢先のことだった。

「厄介だなァ……おい、もうアレを出しちまえよ」

 じんわりと汗の滲んだ二重顎を掻きながら、中年の男が黒髪の男に指示を出す。懐からガラス瓶を取り出し、黒髪の男が薄っぺらい笑みを浮かべながら言った。

「その札と、この瓶に閉じ込めた、きったねェ野良犬の霊とを交換ってのはどうだ?」

(っ、……犬神……!?)

 今更その事態に気づき、烏丸は愕然とした。恭介がその右目を失ってから、当たり前のように彼の傍らに居た動物霊が見当たらない。

 烏丸の意識が逸れた一瞬の隙を見過ごさず、中年の男が、丸太のような腕を振り上げて鈴を鳴らす。その直後、烏丸の喉元を自身のネクタイが締め上げ、見えない力によって宙に引き上げられた。

「ぐっ……!」

「烏丸さん……!」

「動くなよガキ。でないとお前のお友達のお兄さん、うっかり絞め殺しちゃうぜ?」

 言葉だけで恭介の動きを封じ、中年男が唇を醜く歪めて笑った。

「逃げ……ろ……、恭介っ……!」

 烏丸が殺される。そんな恐ろしいことが現実になるかもしれない。恭介は今まで感じたことのない絶望で、立ち上がることもできない程打ちのめされていた。

 ――薄暗い世界から日の当たる場所へ。

 文字通りその住処だけでなく、烏丸はこの世の美しいものを、次から次へと見せてくれた。忌み子と嫌悪され、謗られるのにも傷つかなくなった空っぽの心が、あらゆる光で満たされてゆくのが楽しくて、反面足が震える程に怖くもあった。

 こんな凄いひとが、いつまで自分のようなものを構ってくれるんだろう。期限があるなら、先に教えて欲しい。でなければ、卑しい自分はその時に放せそうもない。

 そんなふうに恐る恐る、烏丸の指をそっと握っていた。誰かに終わりだと言われることが、ひどく恐ろしくてならなかった。きっと――とっくの昔に、何もかも手遅れだったのに。

 恭介は、畳に転がったナイフを静観する。あの道具の使い方は、奇しくもこの男たちが教えてくれた。

(俺の……せいだ)

 震える指で、そっと握り込む。恭介の手はまだ小さくて、凶器を握るには、両手でしっかり掴まなければならなかった。

(俺さえ、いなくなれば)

 細い首筋に、その刃を当てる。ヒヤリと、金属の冷たさが肌を刺激したが、すぐに体温に馴染んだ。これを横に動かせば、きっと望むとおりに命を手放せる。囚われてしまった犬神も、今殺されかけている烏丸も、この忌々しい自分から解放されるのだ。

「恭介、駄目だ……! 駄目だ……っ!」

 喉を引き千切るような声が、遠くから聞こえる。ぎゅう、と目を瞑って、ナイフを動かそうとした瞬間、手の甲が蹴りあげられた――烏丸だった。

 今までだってただの一度も、烏丸にこんなふうに、乱暴に叩かれたことはない。けれどそんな優しい彼が、恭介の安易な自己犠牲を許しはしなかった。

 恭介の手から離れる瞬間、そのナイフは顎先を掠めて遠くへと飛ばされる。どろりと顎を伝う血液の感覚で、恭介はあるひとつのことを思い出していた。


(――そうだ、自分には、ひとつだけ大きな武器がある)


「……九、尾」

 その名を呼んだ瞬間、鉄の匂いに混じり、甘やかな香りが恭介を包んだ。目の前に現れたのは、可愛らしい狐の霊。ぼんやり眺めているうちに、それはあっという間に夥しい数に増えていった。

 ぎちぎちと、狭い空間に圧倒的な質量のそれを捩じ込むような音。畳が上下に大きく揺れ、いよいよ立っていられなくなった直後――目の前に、動物霊の総帥が現れた。

 九つに分かれた尻尾を翻し、耳元まで裂けた大きな口がニヤリと笑う。銀色の涎が滲む牙を見せつけながら、唯一無二の動物霊が大仰な声で言った。

〝久しぶりだな――土屋の倅〟

 恭介は、底冷えするような大きな恐怖と戦いながら、目の前に対峙する恐ろしい物の怪と向き合わなければならなかった。

〝何用だ〟

「烏丸さんに、ひどいこと……するやつ、みんな」

 どうにか絞り出したそれは、ひどく掠れた、弱々しい声。


「やっつけて……!」


 とんでもなく恐ろしいことを、口にしてしまったのかもしれない。命じ終えた恭介がそう怯える前に、九尾が口を大きく開けて笑う。全身の毛を逆立てるように膨らませた後、濁った双眼を不気味に歪めてこう言った。

〝いいぜ。丁度、腹が減ってたところだ〟


 それは一瞬のことだった。まるで凄惨な事件があった直後のように、夥しい血液で畳が濡れている。その傍らに、まるで生ゴミのようになった肉塊が転がり、その端にはピクリとも動かなくなった人影が二体横たわっていた。

 それは、いたいけなその子供に何一つ見せたくはない現実だった。

「お……俺……」

 恭介が、しゃくりあげるようにして泣いていた。聞いているこっちが、堪らなくなるような切ない声だった。烏丸はその視界を肩で覆うようにして、恭介の体をぎゅうっと抱き締める。本当は、そんなふうに無理に目だけを覆ってみせたって、この生臭いにおいが、空気が――烏丸に手を掛け、犬神を瓶の中に閉じ込めた男二人の無惨な末路を、余すことなく正確に物語っているのは承知の上だった。

「恭介」

 それでも、烏丸は腕の力を緩めなかった。

「見なくて良い。お前は……何にも、見なくて良いんだ」

 肩を震わせて、恭介が烏丸の胸に顔を埋める。幼い子供には理解できないような残酷な現実は、烏丸の作る防波堤なんて簡単に飛び越えて、丸ごと恭介の肩にずしりとのし掛かっていた。

(こんなことが……ずっとつきまとうのか)

 情けなかった。大人なのに、恭介の心も、体も、何一つ守れなかった。高を括って、自身の能力を過信していた。できないことがこの世にあるなんて、まるで思いもしなかった。

 だが――現実はどうだ。結局師匠が、この神社にいる恭介がよからぬ輩に見つからないよう、ずっと守ってくれていた。あの札がなければ、応戦する手立てもなく殺されていただろうし、恭介の体は好き放題に蹂躙され、挙げ句大人の都合で切り売りされていたのかもしれない。烏丸には、烏丸だけでは、きっとそれらのどれも止められなかっただろう。抱えようとしていた子供の、背負う柵の大きさを見誤っていたせいで。

 恭介は、声をあげずに泣いている。まるで喉を潰してしまいそうなその泣き方が、恭介自身をも焼き尽くしそうな絶望を孕んでいるのがわかってたまらなかった。

(――ああ)

 込み上げる感情を喉元で殺そうとしたが、うまくいかない。気がつけば、熱い涙が烏丸の頬を伝っていた。

(今ここで、この首をへし折ってやれたら、お前は幸せになれるんだろうか)

 そっと、首筋に手を添える。細い首は、大人の自分が少し力を加えるだけで、ぼきりと折れてしまうかもしれない。

 それは甘い誘惑だった。ここで何もかもを終わらせてしまえば、もう二度と恭介がこんな恐ろしい目に遭うこともないし、理不尽に罵られることもない。砂を噛むような思いで感情を押し殺すような泣き方をしなくて良いし、薄暗い牢屋に閉じ込められたり、誰かのストレスの捌け口になることもないだろう。本人が望んだ訳でもない特殊な血を受け継ぐ者として、心ない輩に利用されることもない。

 もう、楽にしてやりたかった。それでもどうしても、絞めようとするその手には力が入らない。こんな、泥水みたいなものに侵され、息もできないくらいの絶望に苦しめられても、化け物との因果関係を結ぶ羽目になっても、そのことで春になる前に、隙間風のひどい神社に追いやられても――。


 それでも、それでも――生きていて欲しかった。


 それはすべて、どうしようもない、儘ならない烏丸のエゴだ。こんなに愛おしいのに。こんなに哀れに思うのに。楽にしてやれる道へ、連れてゆくこともできない。

 雪解けの地べたに這いつくばって、烏丸は叫ぶようにして泣いた。



 一晩が経ち、町の至るところに太陽光が注がれる。それは、大きな道路には照りつける夏の日差しのようでもあったし、森に囲まれた土屋邸には、木漏れ日よりも弱い光を降らせる程度の明かりだった。平等に注がれるからこそ、それらは平等にはならないのだと思い知らされる。ひどく気分の悪い朝だった。

 寝不足の重い瞼を擦ることもせず、ただ口を一文字に引き結び、柱に凭れるようにして烏丸は中庭の池を眺めていた。

「……どうして、恭介ばかりが標的にされるんだ」

 音もなく開かれた襖から、ぎしりと体重を乗せる音がする。振り向いて誰かを確認する必要はなかった。それは烏丸の問いの答えに心当たりがありそうで且つ、ひどく聞き慣れた足音を立てる人物だったから。

 案の定烏丸の師であるその男は、不躾な質問に面食らうこともなく、忍のように音も立てず静かに正座した

「……本来であれば、お方様の実子は恭介様お一人のはずじゃった」

 烏丸が、視線をあげた。明かされる事実は、今まで知りようもなかった――否、知ろうともしなかった恭介の生い立ちだった。

「それを、呪いによって二つに分断されたのじゃ。ひとつの命を、無理に引きちぎるようにな。そんなやり方をすれば当然、()()も歪なものになる」

 奥方の名誉のため、その生まれた子供に仕組まれた力の譲渡の経緯は伏せて、楠は静かに事実を伝える。

「結果、神力と霊力の大部分を妹君が持ち、恭介様はその殆どを持たぬ代わりに、土屋の血を色濃く引き継がれた」

「血……」

「つまり、自身を守る術を何ひとつ持たないのに、あらゆる権力や悪事に利用すれば大きな財産となるであろうその血を、濃く受け継いでおられるということじゃ」

 は、と思わず烏丸は笑ってしまった。それは日照りの続いた大地のように、カラカラに乾いた笑い声だった。

 狙われるのも道理だな、という言葉は飲み込んだ。それが原因だったと言われれば、今までの恭介の身に起こったあらゆる理不尽のすべてに説明がつく。説明がついたところで、何ひとつつ納得なんかいかないけれど。

「……あいつらは」

「聞く覚悟があるか?」

 眉を上に持ち上げるようにして、楠が逆に問い掛けた。烏丸は、すぐに答えることはできなかった。

「心配しなくとも、死んではおらん。恭介様が九尾に『殺して』ではなく『やっつけて』という言い方をしたのが不幸中の幸いだった」

「……死んではいない、ってことは……」

 続けて尋ねようとして、その先を口にするのが怖くなった。脳裏に、鮮血に染まった畳と肉塊が過ったから。烏丸は尻すぼみになった己の声を飲み込んで、楠から一度視線を外す。

 外は、描きあげたばかりの絵画のように静かだった。

「一人は、下半身の殆どを喰われておった。残りの人生、半身不随じゃろうな。もう一人の黒髪の方は、左側を重点的に抉られておる。どうにか足は繋げたが、左腕はもう駄目じゃ。切除以外に生きる道はない」

「……俺の、せいだ」

 想像以上にひどい損傷を負った二名の反逆者に、何と言えば良いのかわからないまま烏丸は両手で顔を覆う。

「恭介に……人を、傷つけさせちまった……」

 あの時意識が犬神に捕らわれなければ、やすやすと首を絞めあげられて、己の死を恭介に想像させなければ。いや、そもそも恭介と、自分が出会っていなければ――さまざまな「もしも」は濁流のように烏丸の内に雪崩れ込み、息を吸おうとするその喉元を残酷に塞いでゆく。

「忠則」

 ふいに、楠に名前を呼ばれた。

「抗えぬものは抗えぬ」

 早朝の樹木を伝い走る滴のように、透き通るような声だった。

「考えろ忠則。それは、今のお前にはできぬこと」

 烏丸は、震える瞼をきつく閉じた。聞くに耐えない現実が、頭から降り注いでくるような感覚だった。

「――ならばいつ、どう動く?」

 まっすぐな問いだった。烏丸を苦しめていた濁流をも真っ二つに割るような、凛とした響きのある力強い声だった。烏丸はゆっくりと息を吐きながら、眉間に中指を押し当てる。その瞬間、思考を止めていた頭が、鈍い音を立てて動き出したのがわかった。

 落ち込む前に、しなければならないことがあった。


「この度は、私の弟子が勝手な真似を致しまして、恭介様に多大なるご迷惑お掛けいたしましたことを、心よりお詫び申し上げます。すべては、私の不徳の致すところであり、弁論のしようもございません」

 その日広間に呼び出されたのは、烏丸、智也――そして二人の師である楠の三人だった。

 二人の重傷者を出したことにより、ことはより深刻な事態になってしまった。土屋の総帥が直々に顔を見せ、ことの詳細を説明せよとのお達しが出るくらいには。

 完全に巻き込まれ事故の智也は近年の中でも稀に見る不細工な顔をしていたが、師匠の顔に泥を塗るつもりもないようで、雰囲気に合わせてきっちりと頭を下げている。

「――烏丸忠則」

 名前を呼ばれて、胸の内がざわりとする。もとはと言えばこいつが、恭介を追い出したりしなければこんな事態にはならなかったんだ。恭介の暮らす神社を守ることを、土屋の人間で師匠以外誰も気にかけてはいなかった。そこにすべての答えが出ていた――恭介は、完全に他人だとみなされている。

「お前は、恭介を使って謀叛でも起こすつもりか」

「滅相もございません……! 忠則は、恭介様にもしものことがあって、土屋家全体の威信に関わることがなきよう努めておった次第でありまして……!」

 師匠が、額を畳に擦り付けながら叫んだ。辻褄を合わせた体のいい理由を並べ立てて、烏丸を守ってくれているのはわかった。その横で同じように頭を下げながら、烏丸は必死に怒りを収め、脳内でさまざまな策略を組み立てていた。

 邪霊と盟約を交わしたという格好の理由を盾にして、実の子供さえあっさりと捨てた男。先達てのような輩に襲われて亡き者にされてしまえば逆に都合がいいだとか、狂ったことを平気で考えていそうな独裁主義の王様相手に、自身へ向けられた猜疑の念を払拭し、恭介を生かし守ることの利点をプレゼンすることができなければもう後がなかった。

「御当主様」

 自身の声とは思えぬ程、穏やかな声が口をつく。恐ろしいくらい、頭の中は落ち着いていた。

「何だ」

「提案がございます」

「――提案だと?」

 師匠が僅かに目を瞠り、その横で智也が顔を顰める。烏丸はお手本のように隙のない笑みを浮かべ、改めて主へと面を上げた。

「恭介様は、本来お一人でお生まれになる筈だったところ、呪いで無理に二つに裂かれました。ここで――ひとつの仮説が立てられます」

「……何だ」

「妹君も、恭介様も、お互いの魂の器に()()()()()()()()()()()()()ということです」

「空洞……?」

 智也が露骨に何を言ってるんだお前、という顔をした。烏丸は、視線だけで不敵に笑う。

 ショー・タイムの始まりだった。

「土屋家の血筋には、多くの穢れを清め、祓う力があります。先日も、霊障で爛れた私の左掌が、恭介様の血液を口に含むことにより、瞬く間に完治する瞬間を目の当たりにしました。その効力は折り紙付きでございます。妹君は、神力、霊力共に凄まじい力をお持ちでいらっしゃいますが、残念ながらそのお体に流れる土屋の血そのものは、濃くありません。加えて、失礼を承知で申し上げますと――まだ幼く、そのお力の殆どをうまく使いこなすことができていないようです。故に、魂の空洞に邪霊が入り込みやすいのでしょう。鳥霊に襲われた一件も、その結果だと思われます」

 まるでその現状を心から憂いているかのように、烏丸は欠片も痛まない胸を押さえて俯いた。智也などは過剰な演技に露骨にひいていたが、初見にはそれなりに効果のある演出だったよう。並べ立てられた事実の殆どが現実であり、説得力もあった。傍聴席は一気に、烏丸のステージに塗り替えられていた。

「今後もまた似たようなケースが起こる可能性は充分考えられますし、最低限妹君が成人し、無事その力を使いこなせるまで保険は必要だと思います」

「――保険?」

「恭介様の魂でございます」

 烏丸は本来、弁の立つ男だった。頼りなさげな表情から一変、確信を持っているかのような強い意思を覗かせる顔に切り替えた。主の目をしっかりと見つめながら、駄目押しのように言い含める。

「恭介様はその血を強く引き継いでいらっしゃいますので、邪霊の乗っ取りを許すことはまずありません。妹君に万一のことがあった時のために、キープしておくのが得策かと思われます」

「……いざという時が来れば、あの出来損ないを跡目にしろと?」

「まさか!」

 烏丸は手を叩いて笑った。恭介に愛情など微塵も感じていないような男を見事に演じるためだった。

「御当主様のベストは、霊力、神力共にレベルの高い妹君を万全の状態まで育て上げ、跡を継がせることでしょう? 恭介様の命をひとまずキープしておけば、それが可能だと申し上げているのです」

「どういう意味だ」

「恐れながら申し上げます。ここに着席している智也という男は、楠の二番弟子にあたり、彼は――その体に宿る命を、別の体に移し替える術式を使えます」

「……っ」

 智也が、息を飲むのがわかった。烏丸はへらへらと笑いながらも、智也の顔を見ることはできなかった。

「何と……! それは誠か!」

「……はい」

 当主の横に使えていた側近が声をあげた。ざわつく室内で今更研究途中とは言い出せない智也が、苦虫を噛み潰したような顔で答える。

「なるほど……確かに、妙案かもしれんな」

 主の表情は露骨には変わらなかったけれど、側近の興味を引くことには成功したようだった。

 ――畳み掛けるなら今だ。

 烏丸は、唇を無意識に舐めてから口を開いた。

「今回のように恭介様の血筋を悪用しようと企む輩は一定数現れると思われますが、この烏丸にお目付け役を御采配いただければ、そのような危機を根刮ぎ排除することをお約束致しましょう。万一恭介様が土屋に反目なさるようなことがないかどうかも、合わせて監視を勤めあげてみせます――是非ご一考を」

 軽やかにそう宣言し、烏丸の演説は以上を持って終了した。手応えはあったが、どう転ぶかはわからない。不安そうな表情は一切見せずに、口元には笑みを残したまま次の指示を待つ。

「――承知した。下がれ」

 果たして、運命の女神は烏丸に微笑んでくれたようだった。

 土下座の見本のように頭を深く下げ、烏丸と智也は師匠を残しその部屋を後にした。


「無様だな」

 恭介の元へ行くために門を潜ろうとしたら、漆喰の壁に背を預けた男が引き留めてきた。鴬色の着物の裾から覗く、ジョッパー・ブーツには見覚えがある。お得意先の上客からプレゼントされたけれど趣味ではなかったので、横流しするように智也にあげたものだった。

 人様から貰ったものを他人にやるなと散々文句も言われたし、もともと着物好きな男だとは知っていたのでどうせ捨てられるだろうと思っていたが、何の気まぐれかその次の日から智也は、横流しされたそれを着物に合わせて履くようになり烏丸を大層驚かせた。どういう訳か現在に至るまで、智也は着物と合わせるにはどこかアンバランスな履物を永らく愛用していたのだった。

 さっきの今で気まずいことこの上なかったが、無視をする訳にもいかず立ち止まる。胡乱気な瞳が烏丸を捉えた。まるで、弱り切った烏丸の本心までをも見透かすような、居心地の悪い視線だった

「己が不道徳的だと、切り捨てた力に縋るのか」

「……悪い」

 あの場で話を合わせてくれなければ、手応えも何もあったものじゃなかっただろう。助けられた自覚はあって、烏丸は素直に謝った。

「俺は、お前が憎いよ」

 泣きそうな顔を歪めて、智也が吐き捨てるように言った。

「俺や師匠が何を言っても残ろうとしなかったのに、ただ一人の……あんな哀れな子供のために、あっさりここに留まると決めたお前が憎い」

 片手に提げた風呂敷の包みをぎゅっと握りしめながら、智也は絞り出すような声で続ける。

「そんなお前を、土屋に縛り続ける恭介も憎いよ。だから――躊躇わないからな」

 じろりと睨まれたって、反論の余地はない。烏丸は投げられる言葉をすべて受けとるつもりで、静かに彼の声に耳を傾けた。

「どうせ時間稼ぎのつもりであんなことを提案したんだろうが、いざその時が来たら、俺は迷わず恭介から命を取り上げるぞ。俺にあのガキを殺されたくなかったら、精々次の()()を考えておくんだな」

 土を蹴るようにして、智也はくるりと背を向けた。大きな風呂敷の荷物は、烏丸の足元に置いたまま。

「智也……これ」

「……ゴミの日に、出しそびれただけだ。お前が代わりに捨てておけ」

 

 ――中身を開かなくったってわかる。それが仕上がったばかりの、恭介の着物だということは。


 脇に抱えるようにして、烏丸は改めて門を潜った。

 雪はすっかり、溶けてしまっていた。


 あんな状態でひとり神社に残してしまった恭介をそのままにしてはおけないと急ぎ戻ってきたものの、烏丸は今更どんな顔をして恭介に向き合えばいいのかまるでわからなくなっていた。縁側に腰かけて、荒れ果てた庭をぼんやりと眺める。

 すっかり水の乾いてしまった池や、砂利の隙間から強かに生える雑草を見つめつつ、最近すっかり縁遠くなっていたキャメルの箱に手を伸ばした。咥えることさえ忘れていたのは、副流煙など欠片も浴びさせたくはない子供の元へと通っていたからで。禁煙しようとしたつもりもなかったけれど、自然と愛煙家からは程遠いような生活を送っていたらしい。鼻を抜ける甘い香りは、随分と懐かしいものになっていた。僅かにくらくらとしたが、途中でやめずに、一気に肺に吸い込んでから、ゆっくりと吐いた。

 すぐ傍に、しつけられた犬のような行儀のいい格好で、犬神が座る気配がした。烏丸はもう一口吸ってから、仄かに甘い紫煙を纏う。

「……俺はもう、これ以上恭介を庇いきれないぞ」

 煙草の煙が、目に染みる。思わず口をついて出たのは、誰に向けられた言葉でもない、弱音のような独り言だった。

〝……見捨てられるくらいじゃ恨まねェよ。引導を渡すなら、早めにしてやってくれ〟

 悟ったような、犬神の声はひどく優しかった。滲んだ涙を、揉み消すように目を瞑る。

「烏丸……さん」

 愛らしい声が聞こえ、烏丸は反射的に煙草を携帯灰皿に押し付けた。まだ二口程しか吸っていなかったが、どちらが大事か何てもう、天秤にかけるまでもない。

 烏丸はゆっくりと、声のした方を振り向いた。捨てられた子供のような顔で、恭介がぽつんと立っている。

 もう、大丈夫だよと言ってやりたかった。お前のことは何に代えても俺が必ず守るだとか、心配事は何もかもなくなったとだとか嘯いて。甘ったるい声でその愛しい名前を呼んで。どろどろに溶けちゃうくらい抱き締めてやりたかった。

 けれど独裁国家の王様に見張ると言ったばかりのその口で、恭介の命をひとまずキープしましょうとせせら笑ったその口で、そんなおためごかしはどうしても言えなかった。烏丸は口を引き結んで、そっと形の良い頭を撫でる。

「……恭介。俺は、お前の味方にはなれないよ」

 僅かな期待を、打ち砕かれた顔。恭介の大きな目が、一気に絶望へと染まった。それでも訂正することはできずに、烏丸はその小さな肩に手を添えて、言い含めるように言葉を掛けた。

「親にも、兄弟にも、友達にもなれない……だけど」

 ぼたぼたと、大粒の涙を溢すまろい頬を優しく撫でながら烏丸は、今の自分に最低限約束できることを口にする。

「師匠には、なってあげられるよ。おいで恭介……生き抜く方法を教えてあげる」

 柔らかい、小さな手。しっかりと握りしめ、烏丸はゆっくりと立ち上がった。涙の止まらない幼気な頬を、何度も優しく拭いながら。



 その日から、烏丸は徹底的に恭介にお祓いの仕方を叩き込んだ。敢えて恭介自身の体を使うようなやり方を選んだのは、ひとつの意図があったから。払われる邪霊とのシンクロが強いのがメンタル的に負担となったのか、慣れない最初の頃恭介は、体を折り曲げ何度も嘔吐した。酷い時には意識さえ失うこともあったが、烏丸は決してやり方を変えなかった。邪霊と向き合ってはもがき苦しむ恭介を、何度も抱き締めては慰め、さまざまな言葉で励ました。

 一方で烏丸は、恭介が二人組に襲われた忌々しいあの日から、ネクタイをすることを一切やめた。万事に備えた呪具を収納した大きいアタッシュケースを持ち歩くようになり、さまざまな用途のあるそれらを常に安定した力で使いこなせるよう、制御する数珠を開発し身につけるようになった。

 すべては、来たるべき未来を恙無く迎えるために――呪具師、烏丸忠則は静かにその時を待った。

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