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恭介・圭吾シリーズ  作者: 芹澤柚衣
アンリミテッド・スノーマンの情景
44/73

15

「ふざっけんなクソジジィ!」

「これ忠則。仕事は仕事じゃ。生意気にも選り好みするでないわ」

 眠たげな目をさらに細めながら、楠は嗜めるように言い含めた。目の前で怒り心頭といった風情で地団駄を踏んでいるのは、彼の弟子のうちのひとり、烏丸忠則という男だ。

 齢は二十一。明るいプラチナブロンドに染められた髪はやや癖っ毛で、全体的に滑らかな髪質に反し、毛先には計算し尽くされたような跳ねがある。どこか日本人離れしているようにも、浮世絵に登場するモデルのような出で立ちにも見えるその男は、一度拗ねだしたら手がつけられないという面倒臭さも内包する扱いづらい青年だった。

「師匠。どうかなさいましたか?」

 鴬色の着物の裾を翻して、もう一人。烏丸が懐かない野良猫なら、この男はさしずめ、飼い慣らされた主人以外には本能的に毛を逆立てる訓練を済ませた狩猟犬だ。身に纏っている仕立ての良い着物や、純和風な日本家屋に不釣り合いなジョッパー・ブーツを踏み鳴らし、楠が何かを答える前に疾風のごとく素晴らしいスピードで烏丸を睨んだ。

 頭頂から頬に掛けての大きな傷を隠すため、右側だけ長く伸ばされた髪の毛が顔の半分を覆っている。それでも雄弁という言葉では足りない程、約半分以下の表情筋でも喜怒哀楽を豊かに伝えてくる男だった。

 彼の名は、柏木智也。楠の二人目の弟子であった。

「別にどうもせんわい。忠則に仕事を任せておっただけじゃ」

 最早宥めるのが無意味にも思えたが、弟子同士の諍いは、できれば生まれる前に芽を摘みたいところ。大したことはないのだと言外に含めつつ、のんびりした声で現状を簡潔に説明した。

「俺はやんねーぞ」

「烏丸! 師匠に対して何だその口の聞き方は!」

 摘もうとした端から上質な水を与える男と盛大に肥料を足す男がいるので大抵すくすくと育ってしまうその争いの芽が邪魔をするせいか、楠の思う通りにその土を均せたことは一度もない。今世だけの因縁とは思えぬ程の条件反射で、互いの存在が目に入る度に目くじらを立てるのだから均しようもないのが正直なところだ。

 普段であればどっちつがずで中立の立場を貫く楠だったが、今回だけはどうしても烏丸に一言言っておきたいことがあった。両手を正面に向け、レフェリーのようなポーズで仲裁に入る。勢いだけで会話のラリーを交わしていた二人が同時に口を噤んだあたり、単に仲が悪いだけではないのかもしれないとは楠の持論であった。勿論恐ろしくて、そんな推測はおくびにも出せないけれど。

「……のう忠則。お前は呪術を志す者として、人を殺めることだけは絶対にしたくないと言っていたな。お前のその主義主張は、これでもそれなりに汲んでおるつもりじゃ」

 図らずも火種となってしまった依頼の話に戻し、楠は縁側に胡座を掻いた。

「だかな、お前一人だけ汚れ役の一切をせずに済まそうなどとは、聊か考えが甘いぞ」

「だからって……」

 わなわなと肩を震わせて、烏丸がギロリとこちらを睨む。振り上げた拳をまさか師匠に振り下ろす訳にもいかない彼は、僅かな逡巡の末雨戸を力強く叩きつけた。それは、来世は雨戸にだけはなりたくないなと思える程の轟音だった。

「チンコがもげるくらい痒くなる呪いをかける札を作る依頼なんか、引き受けるな!!」

「あっはっはっは!!」

 智也が、烏丸の隣でひっくり返りながら笑った。普段なかなか喜怒哀楽でいうところの「喜」と「楽」を見せない弟子の、オリンピックが開催されるペースよりも頻度の低い満面の笑みを見られたことに楠は一人謎の感動を覚えていた。今日は良い日かもしれない。

「何とか言えよ、師匠!」

「仕方ないじゃろう。不倫をなかなか辞めてくれない旦那さんをこらしめて欲しいとのことじゃ。お方様と懇意になさっている焔様のご依頼じゃぞ。無下にもできん」

 全身に毛があればもれなく逆立てていたであろう勢いで烏丸が何とか言えというので、とりあえず何かは答えなければならない空気だった。手始めに事情をベラベラ喋ってみたが、彼が望む回答ではなかったのだろう。明らかに相槌ではない言葉を放とうとする弟子に、楠は念を押すように言い置いた。

「それとも、()()()()()()の方が簡単か?」


 ――つまりは、そういうことだった。


 依頼者であれ対象者であれ死体のひとつも作りたくない烏丸と、自身に危害を加えた相手の安寧を根刮ぎ奪いたい依頼者の利害は、一致することの方が実は少ない。決して暇をもて余すことはできないような仕事量の中から、それなりに厳選した結果がこれだと敏い弟子は気づいていたに違いない。

 文句は必ず言われるが、それは渋々といったポーズをとるためだ。如何にも不本意ですと言いたげな空気を全力で出しながらも、縁側に放り投げられていた書類を拾う手は存外丁寧だった。

「……奥の、作業部屋借りる」

「好きにせえ」

 明確な了承は何一つない代わりに、許可をとる必要のない作業部屋をわざわざ使うと言ってきた。交渉成立だ。意味のない茶番のようにも思えるが、このやりとりで発散したい鬱憤はそれなりに抱えているらしい。

「いいか師匠。俺はこんな窮屈ところ抜け出して、さっさと独立してやるからな!」

 見事な吠え面で、烏丸がストレート・チップの靴を投げるように脱ぎ捨てた。某有名ブランドで購入されたシューズはそれなりに高価な筈だが、自身の懐を痛めた訳でもない烏丸は清々しいほどに無頓着だった。

 黙っていれば人形のように美しい顔立ちの彼は、依頼者――とみに、富豪と呼ばれる属性の人間に好かれやすい。楠の傘下を出る前の今でさえ、既に固定客はいくつか掴んでいるようだ。まるで歌舞伎町の人気ホストように、高価な貢ぎ物をされていることも知っている。

 成る程、独り立ちしても確かにやっていけるのだろう実力も、実力以上の何かを味方につける運も。彼は既に持ち合わせているらしい。反対する理由の方が、見つけにくいのは事実だった。

「まったく……」

 あともう少し、おとなげというものをどこかで拾ってくれればいいのだけれど。そんな気持ちでため息をついていたら、智也にじろりと睨まれた。

「師匠。少しあいつに甘過ぎやしませんか」

「人を呪わば、穴ふたつ」

 叱られなければならない事柄に自覚はあるが、自覚があることには、大抵明確な理由がついてくる。楠は如何ともしがたい顔で、可愛い小言を言ってのけた二番弟子を振り仰いだ。

「呪具師は、業が深い仕事じゃ。それは、人間の抱える闇と密接な関わりがある。どんなに思考を巡らせたところで、人の命を左右する依頼をすべて、避けたままでいては成り立つような仕事ではない」

 智也が、静かに頷いた。それは反論の余地もない程揺るがない事実だった。

「……が、不思議なもんだな。そんな不可能をあいつが成し遂げるさまを、儂は見届けたいのかもしれん」

 聞き分けのない子供を育てているつもりで、それでも彼の主張には彼なりの筋道があった。それはあらゆる闇に慣れた楠でさえ、たじろぐ程しなやかで悲しい光を放っている。

「智也」

 どんな些細なことでさえ、楠の言うことに何ひとつ異を唱えず付き従うもう一人の弟子に、楠は柔らかい声で話し掛けた。それはお寺の住職のように、何かを説いているような声音だった。

「何も忠則に限ったことではないぞ。儂が土屋家の専属だからといって、お前たちがこの家に縛られる必要はない。お前も欲しい未来を見つけて、好きな場所へと羽ばたくべきじゃ」

 智也の目が、一気に不安の色に染まった。親鳥を某かの不条理で奪われた雛のように、その姿は楠の目には儚げで寂しく映った。

「……あんな恩知らずと、一緒にしないでください」

 ややあって返されたのは、孤独を揺蕩う者の放つ、か細い声だった。暗にもう一人の弟子を詰ってから、何かを確かめるように右頬の傷をなぞる。

「俺は師匠によって救われ、生かされました。これから先も死ぬまでずっと、あなた様にお仕えし――この生涯を懸け、ご恩をお返しするつもりです」

 楠は、是とも否とも答えなかった。

 世界がここだけではないことも、外に出たら高い空があることも、マーブルチョコのようにカラフルな街灯がそこらじゅうを飾っていることも、歩きながら食べられる珍しい食べ物があちこちの街角に売られていることも、路地裏の飲み屋には初めての客が知りようもない不思議なルールがあることも、野菜が存外高いことも、レジ袋に値段がついていることも、本来であれば何の苦労もなく体験することのできる日常だった。それでも彼は、これから先もずっと、空の高さを気にして見上げることもなく、宝石のようにキラキラ光る夜の町をあてどなく散歩する趣味も持たず、度し難いルールのあるうらぶれた店に立ち寄ることもなく、野菜の高さに嘆くこともせず、レジ袋の値段を気にしてエコバッグの購入を検討することもせずここに残ると決めているのだ。

 それは、土屋の家を出ていくと決めた烏丸の決意と同じくらい、確固たる意志だった。

 楠は、胡座をついた太腿に手を添える。整備された土屋邸の中庭は、雑草の一切が刈り取られており、小石の色や形、配置に至るまで綿密な計算が施されていた。そのへんに転がる石を蹴飛ばしたところで何の秩序も乱れない川に連れていって鮎を釣ったり、雑草だらけの山に登って、豪華な日本家屋とは比べようもない掘っ立て小屋のようなロッジに泊まり、珈琲を飲みながら星空の高さを飽きる程眺めるだとか、そういったことを本当はいくらでも教えてあげたかった。

 けれど楠はこの家に恩があり、出て行くことはどうしてもできない。生きてゆく方法として、自分のような殺伐とした生業に身を置いてしまった人間が、教える仕事だって褒められた内容のものじゃない。こんな大人に気まぐれに拾われた子供の二人の末路が、燦々と太陽が照らす道のりではないことだけは、どうしようもない現実だった。

 そこにあるのはとても理不尽で、冷酷で、不平等な世界だった。


「とりあえず作ったぞ。二十枚くらい」

「お前はチンコが二十本あるの?」

 襖を開けるなり足元に蛾の死骸でも見つけたかのようなひどい顰めっ面で、烏丸が紙の束をぐいとこちらに押しやってくる。呆れたように突っ込んだ智也を、血走った目でぎろりと睨むことも忘れない。

 予備としてありがたく受けとるには在庫十九枚というのは明らかに予備の概念を逸脱しているし、やはりどうにも必要枚数を改めて報告する必要があった。

「一枚で構わんぞ忠則」

「先に言えよ!」

 詳細を伝える前に天岩戸になったのはお前だろうとは楠の言い分であったが、それは一番弟子に伝える前に飲み込んだ。この札を作るまでの彼の駄々が長かったため、待ち合わせの時間が刻一刻と迫っていたからだ。

「まあ良いわ。急ぎだったからのう。助かった。儂はこれから、依頼主に届けに行ってくる。あとは各々好きに過ごして良いぞ」

「はぁ!? 好きにするも何も……どーすんだよこの残りの十九枚!」

 するりとババ抜きのように必要な一枚だけ引き抜いて、楠は軽く身を翻し消えていった。手元に残ったのはババ十九枚と、抜かれたエースの代わりに置いていかれた、長形三号の封筒のみ。金を払ってもらったからにはこれ以上文句も言えず、烏丸はがしがしと髪の毛を掻きむしる。

「烏丸」

 腕を組んで雨戸に背を預けていた智也が、ごく自然な声で烏丸を呼んだ。いつもの怒声にまみれた声ではなく、夜明け前の田舎道のように静かな声だった。

「――お前、本気で独立するつもりなのか?」

 問われていることの真意がわからずに、返答に詰まったのは一瞬。出ていくと決めたことは烏丸にとって何らかの決意が必要な程大層なことではなかったが、それ故に本気度を疑われるのも癪だった。烏丸は面倒臭そうにため息をついてから、重たくはないが決して軽くもない口を開く。

「ここの水が合わないのもあるけど、俺はもともと人に指図されるのが嫌いなんだよ。もっと自由な感じで、気の向く仕事だけしてたいし。才能あるし」

「鼻っ柱へし折ってやろうか?」

 淡々とそんなことを言うものだから、智也はそのお綺麗な顔面に遠慮の欠片もないパンチをお見舞いしてやりたくなった。距離的にギリギリ届かない位置にいる時にばかりこんなことを言ってのける烏丸は、嫌になるくらい計算高い男だった。

「お前はどうなんだよ。本当に、土屋に骨を埋める気なのか?」

「……俺は、恩知らずのお前とは違うからな」

 値踏みするように真意を問われたって、智也の返答は変わらない。師匠にしても、この男にしても、まるで自分が優等生で空気の読める良い子だから、ここを出たくとも出られないのだなんて目で見てくるから嫌だった。

 とっくの昔に智也の幸福は決まっていたし、閉じ込められているなどと思われているのなら勘違いも甚だしい。智也はその、身動きのとれない場所が好きだった。ぎゅうぎゅうに押し込められたって、上から蓋をされたって、例えばそれで窒息死したって、他に替えがたい幸いが確かにそこにあるのだから、結局のところここに残るという結論にすべてが収斂されてしまうのだ。

「師匠のお役に立てるのであれば、俺の骨が埋まる場所など泥沼でも更地でも構わない」

 烏丸は、片眉を動かしただけで相槌さえも打たなかった。到底理解できないのだろう。この――無限に可能性も、居場所も、他にいくらでもある男には。

「……今、命を移し変えることのできる呪具を研究しているんだ。完成までは先が長いが、これが実現できるようになったら、すごいと思わないか? あらゆる生命が、俺の思うままになる。きっと師匠も、喜んでくださるに違いない」

 烏丸はくしゃくしゃに握っていた札の束を胸ポケットにしまい込みながら、胡乱げな目でこちらを見遣った。薄い紫の光で彩られているその双眼はがらんとうで、樹洞のようにぽっかりとした闇が広がっている。

「な……何だよ」

「神様にでもなったつもりか?」

 冷たいナイフを、頭から突き立てるような声だった。

「この世に生まれた命はどれも、なるようになる方が良い。人は須く生き、須く死ぬべきだ。理を逸脱してはならないよ――命をそのように運ぶと書いて『運命』と言うだろ? まぁ、俺はあんまり好きな言葉じゃないけど」

 そんなふうに冷たい言葉を突きつけた後で、憐れむような顔を見せるものだから、智也はたまったものではなかった。

 やめろ、やめろ――そんな戦争孤児のような、引き取り手のない被害者遺族を見るような目で、俺を見るな。悔しさを堪えられなくて唇を噛んだ。滲んだ血が、ひどく不快だった。

「命を扱うような呪具が万一できてしまったら、お前は多分、本当に自分を神様だと思い込むことになるよ。自ら、理性をなくした獣に成り下がるつもりか?」

 だのにこいつという奴は、情け容赦なく追い討ちを掛けてくる。ただでさえ立ち上がれなかった足に、太い槍を押し込んでくるんだ。智也の体から夥しい血が流れたって、きっと眉のひとつも動かしてはくれない冷たい男だ。逃げ道など、残してくれる筈もなかった。

「とにかく、一度冷静になって考えろ。どうしたって道徳的なやり方じゃない。そんな術式、極めたところで非倫理的だ。傲りも甚だしいよ。俺は嫌いだね」

「な……何とでも言えよ! 師匠にならともかく、薄情なお前に指図されるような謂れはない!」

「薄情?」

「出ていくくせに!」

 堪らなくなって叫んだ智也を、平気で置いてけぼりにできるような顔だった。智也が数日前からより一層苛立っている理由になんて、まるで心当たりもないとでもいうような表情。

 ずっと、隠していくつもりだったのに、不意に口をついて出てしまったから、もう引き下がれなかった。どうしてもこの男に、智也を絶望の海へと突き放した原因を思い知らせてやりたかった。

「俺……と、師匠を置いて、出て行くくせに!」

「羨ましいのか? だったら、お前も出ていけば?」

「……っ、俺だってお前の、そういうところが大っ嫌いだ!!」

 何を言ったって、ちっとも響かない。何をしたって、気を引くことはできない。わかっていたのに、どうして一矢報いることができるだなんて一瞬でも思ったりしたのだろう。

 言い捨てて、智也は逃げるように走った。智也が道を外れるようなことをしたって、関わらなくて済む向こう岸から、嗜めるように悪態をつくだけだ。喧嘩にだってならない。やっぱりお前は心配なやつだから、もう少し傍に居て見張っていようかなんて、思い止まってもくれない。

 わかっていた。最初から、わかっていたのだ――烏丸は、これから先もずっと、誰のものにもならないって。



(……?)

 頬を撫でる風があまりにも控えめだったので、最初は気がつかなかった。くるくると旋回するように烏丸の眼前を動く靄の塊は、数多の色や形に変わり、判然としないまま停滞している。

(犬……にしては霊圧が弱いな。形もろくに保てていないし……浮遊霊の一種か?)

 烏丸も、霊感自体は強い方ではなかった。全般的に意志のある霊はだいたい視えるが、近眼の人間に無理やり遠視用の眼鏡を掛けた時のようにピントは合わない。

(何だろう、呼んでいる気がする)

 普段なら関わらずに済ませるところだが、その日は仕事も早く片付いてしまったせいで、時間だけは無駄に有り余っている。すべてはただの偶然だった。烏丸が、らしくない気まぐれを起こしたことも。

 自室に戻らずに、土屋邸に背を向けるようにして歩く。まるで庭のうちのひとつみたいな扱いで、広大な敷地が裏門の近くに広がっていることは知っていた。改めて足を運んだことはなかったが、本当に金はあるところにはあるのだなとつまらない感想を抱く。浮遊するか細い光は、一直線に先へと進んでいた。

 着いてこいと言っている気がしたのは、あながち勘違いではないのかもしれない。

「……なぁ、ばれたらまずいって」

「別に平気だろ」

 切り開かれた緩急のきついくだり坂を降りたところで、人の声が聞こえた。洞窟のような穴は奥へと続いており、錆びた鉄の匂いと、僅かな生臭さが鼻を掠める。

「仮にばれたとしても、相手は忌み子だぜ? お咎めなんて、あってないようなもんだろ」

(忌み子……?)

 腰を落として声のする方に近づいていくと、薄暗い明かりに浮かんだ牢屋の前で、見張りらしき男が一人仰向けになって倒れているのが見えた。首に人差し指と中指の二本を当て鼓動を確かめたが、僅かに脈拍を確認できる。どうやら昏倒しているだけらしい。

「あー……たまんねェなぁ……俺、これくらいの子供の肌、好きなんだよ」

「出たよ変態」

 ぞわり。下卑た笑い声が聞こえ、鳥肌が立った。

 古びた鉄格子でできた牢屋は扉の鍵が壊されており、中では大の男が四人ががりで、誰かを押さえ付けているのが見える。明らかに合意ではない悍ましい何かが、行われようとしていることは明白だった。

(待て――子供、と言ったか……!?)

 岩壁の後ろに隠れるようにして、烏丸は息を潜めながら様子を伺った。押さえつけられていたのは、着崩された黒い着物の端を、震える指で掴む黒髪の少年だった。年齢は、十にも満たないかもしれない。細い手足と、小さな体。どう考えても犯罪だった。

「すげー、すべすべじゃん。肌が掌に吸い付いてくるわ……これなら勃つかも」

「俺が先で良い?」

「おい、最低限解せよ。お前も痛いぞ」

(あいつら……!)

 烏丸は、浮遊している犬のような何かにジェスチャーで指示を出し、少年の気を引くよう命じる。身ぶり手振りが大きいだけのサインは我ながら雑で自分でもよく分からない命令の出し方だったが、状況判断を怠らなかった犬霊はだいたいのことを理解してくれた。

 ふわり、ふわりと少年の前を何度か行き来し、涙ぐんだ大きな目が自身を捕らえた瞬間、翻して烏丸の元へと舞い戻る。僅かに、少年の目が見開いた――無事、視界には入れたようだった。

 烏丸は自身を指差しながら、口パクで必死に作戦を伝える。

(いいか、今から俺の真似をしろ)

 少年は何度か瞬きをして、烏丸をじっと見た。今思えば、薄暗い岩影からの口パクが正しく伝わったというより、烏丸が何をしているのか理解しようとしたが故の行動だったのだろう――胸元から引っこ抜いた一枚の札を握りしめ、くるくると指を動かして正面を指し示した烏丸と、全く同じ動きをしてから少年は首を傾げてみせた。

「足、広げた状態で抑えてろ。先に……っ……!」

「おい、どうした?」

「いや、何か……痒いっ……!?」

 覆い被さるようにしていた男が、小さく呻いて股間を押さえるのが確認できた。にやり。思わず口許が綻ぶ。当たり前だけれど、自分の作ったものに不良品はないらしい。

 烏丸は続けて、少年の気を引くように手を仰ぐ。ピタリと、また視線が合った。今度はしっかり意図を理解した少年が、再び烏丸とまったく同じ動きをしながら今度は別の男を指差してじっと待つ。

(頭の良いガキは嫌いじゃない)

「っ、やべェ、俺も何か急に、チンコが……!」

 呻き声は、ほぼ悲鳴に近かった。後半の方などは、何を言っているのか聞き取れなかったくらいだ。

「お前の粗チンがどうしたって?」

 からかうようにニヤニヤと笑う一番性格の悪そうな男にも、問答無用で同じ呪いをかけてやった。こちとら、全員倒してもまだ十五枚お釣りがくるほどの札を持っているのだから、躊躇う理由はどこにもなかった。

「アァ……ッ!?」

 不潔そうなオッサンの喘ぎ声ほど、聞くに耐えないものはない。烏丸は眉間に皺を寄せつつ、もう一度少年に視線を戻した。

「何だこれ……!? おい、このガキ何かしたんじゃねーか!?」

(さぁ、これで最後だ)

「何かって、何……、……っ!?」

 ラストにとっておいた男は、軽快な音楽を添えてやりたい程良いポーズでぶっ倒れてくれた。笑い転げたいのを寸でのところで堪え、烏丸は口を覆ったまま俯せる。

「くっそ痒い! 何だこれ……もげる……っ!」

「お、おい……絶対こいつだろ!? もう関わんない方が良いって!」

 指示に倣って同じように指を差しながらも何が起きているのかいまいちよくわかっていない少年が、噛みつかれるような勢いで睨まれビクリと肩を揺らしている。暴力を振るうような余裕は男たちにはない筈だが、守るつもりでやったことで反感をを買い殴られてしまっては元も子もない。烏丸は他の呪具を持ってこなかったことを後悔しながら、影に隠れたまま状況を静観した。

「おい、もういいって! 見つからないうちに逃げるぞ! マ……マジでやべェってッ……!」

(……)

 結論からいうと、札による呪いの効果はバッチリあったらしい。目の前に横たわる少年に再び絡むこともなく、仲良く四人揃って飛び上がるように走り逃げて行くのが見えた。よほど痒いのだろう、その後ろ姿は一様に、独特としか言いようのない不格好なフォームだった。

「あっはっはっは! ざまあみろ!」

 安堵と僅かな高揚感で大きく笑い声をあげ、烏丸が地下牢の入り口に転がるように倒れた。まるで試合終了前にコーナーにぶちこまれたボールを、ギリギリのところでガードできたゴールキーパーのようなポーズだった。

「っ……」

「ああ、すまん。驚かせたな……立てるか?」

 起き上がり、何気なく手を伸ばしたが、無神経だったかと一瞬ひやりとした。けれど少年がその烏丸の手を、引っ込める前に繋いでくれたことにホッとする。

(躊躇いなく、握ってくるな……こいつ、何をされそうだったのかわかってないのか)

 それはつまり、未然に防げたということ。よく見ると、少年の太腿に白濁の汚れがついていた。もう少し大きくなった頃にその意味を知って二度傷つくかもしれないが、行為に及ばれる前に止められたのは不幸中の幸いだったと思うことにしよう。

「……着物は?」

「? これ……」

 少年がそう言うので、足元に絡まった布をそっと羽織らせてやる。持った瞬間に気づいたことだが、それはやはり、子供の背丈に合わせて作られたものではなかった。先程の強姦魔の気持ちなど微塵もわかりたくはないが、どれ程前身頃を押さえても、大きくたわんだ襟口からのぞくうなじに妙な色気がある。

「ガキ、よく聞け」

 太腿をハンカチで拭いながら、烏丸が覗き込むようにして少年に視線を合わせる。大事な話をするので、しっかり心に届いて欲しかった。

「こんなの着てたら、また同じ目に遭うぞ。いいか、もしさっきみたいな変態おじさんが、寄ってたかってお前に何かしようとしてきた時はこれを使え。あとチンコ十五本分ある」

「ちんこ……?」

「いや悪かった。復唱しなくて良い」

 あどけない声にチンコと言わせてしまったことにより生まれた罪悪感が御在所岳八合目程に膨れ上がった烏丸は、瞬時に額を床に擦り付けて瞬く間に謝罪の辞を述べた。

「……続けるぞ。いいか、またさっきみたいなことがあったら『俺に手を出すと、あそこが痒さでもげちゃう呪いをかけちゃうからね』って言って、この札を握りながら人差し指を相手に向けろ」

「俺に、てを、出すと……」

「わー待て待て待て待て! 今、俺にかけんでいい!」

 烏丸は飛び上がって避けた。彼が抜群の瞬発力を発揮しなければ、善良なチンコが予定外の呪いをかけられるという悲劇を生んでしまうところだった。

「ご……ごめんなさい」

「いや、いい……俺が悪かった。んで、お前がその科白を口にした瞬間、さっきみたいに相手が痒がったら、続けてこう言うんだ。『俺に触った人はみんな、この呪いにかかっちゃうけど良いの?』って」

「それって、どういう意味?」

「えーと……ま、魔法の言葉だ」

 言うに事欠いて大層なことを口にしてしまったが、なるべく卑猥な言葉を聞かせないで状況を説明しようと思ったら、それらは大体ファンタジーに帰結する。このひどく愛らしい顔立ちをした少年に、まさか犯されないために言う呪詛の言葉だとは言えなかった。

「まほう?」

「そう、魔法。所謂……あれだ、あの……魔法の……呪文的な」

「まほうのじゅもん……!」

 ついには呪文と言い出した自分の神経を烏丸は疑ったが、目の前の子供は嬉しそうにそう何度も口にしては噛み締めている。

「そうそ、魔法の呪文な。お札握りながら、ステッキ代わりに人差し指立てて、くるくる回すの。さっきみたいな怖いおじさんたちから、きっとお前を守ってくれるよ」

 何も、恐ろしい現実を全部教えなくても良いじゃないか。言い訳のように心中で呟いて、烏丸は目の前の魔法少年に向き合った。

「おいガキ。このままにしとくのも夢見悪いし、送ってくわ。部屋どこ? つーかお前、この屋敷の住み込みか?」

「ここ……」

「は?」

「俺の、部屋……ここ」


(――ここ、とは?)


 烏丸は改めて、特別意識して視界に入れることのなかった狭い部屋を見渡した。いや、有り体にいえばそれは牢屋だった。見上げれば天窓はあれど、雨戸のようなもので塞がれており、光など取り入れようもない。四方の殆どは土壁で覆われており、正面の扉は鉄柵でできている。多少廊下のようなものはあったが、それは屋外へと直結した鉱山道だった。子供ひとり育てる場所としては、言うまでもなく劣悪だ。

「ガキ……お前名前は?」

「つ……つちや、きょうすけ」


 ――相手は忌み子だぜ。


 妙に耳に残っていたあの一言が、生々しい温度を孕んで甦る。すべてにおいて合点がいった。烏丸は改めて膝をつき、恭介と名乗ったその少年の頭を撫でる。

「こんなとこ、ずっといるのは嫌だよな。俺が、もっと良いところに連れていってやる。だからもう少し……我慢できるか?」

「……うん」

 目を細めて、恭介が寂し気に笑った。大人の言葉を、完全には信じていない顔だ。約束は、必ず守られるものばかりじゃない。こんな幼い時分から、もうそれを知っているようだった。

 視界の隅で、犬の霊が上下に揺れている。まるで人間が頭を下げているようなその仕草に、烏丸は思わず口許で笑った。

守られる約束を、何としてでも見せてやりたいと思った。



 翌日、クロスワードのマスを埋めながら寝転がっている烏丸にずんずんと近づいてくる足音があった。それはダースベーダーのBGMがとてもよく似合う、重厚感溢れる音だった。

「……おい忠則。お前恭介様に何をした?」

「は? えー誰、キョウスケって」

 耳早い師匠が烏丸の襟首を掴んだ。まるで脱走を試みたペットを掴むかのごとく力任せに鷲掴むその行為は、殆ど確保に近い。

「とぼけるな。恭介様が、今朝から地下牢をお出になられて、新たなお部屋に移動なされたぞ」

「……あー、そう言えば昨日、ふいに思い立って恭介サマの世話係? みたいな人と多少話はしたようなしてないような……」

「話?」

 襟首を放された。しかしそれは、イコール釈放という訳ではない。正面に回り込み、部屋の四隅へと追い詰めるように近づいてくるあたり、おとなしく煙に巻かれてくれるつもりはないらしい。

「まぁ多少……師匠の名前を出して、その弟子であることを殊更強調したような気もするし」

「多少!」

「このまま地下に恭介サマを閉じ込めていたら、風水的に良くないだの何だのは、言ったような言わないような」

「言ったような言わないような!」

 楠はパワーワードを拾っては声を張り上げるようにして復唱した。脳内でぼんやりと、経緯を辿ることも忘れない。恭介に部屋の移動を命じたらしい世話係の男は、やくざものか何かに手酷く脅された後のような憔悴しきった顔をしていた。祟りがあってはかなわないと、一人言のように呟いていたのも記憶している。烏丸の言うところの()()強調されたのだろう専属呪具師の一番弟子によってあることないこと聞かされて、得も知れない不安にからめとられたが故の、突然の大移動だったのだろうと推測はつく。

「あと……嫡子として育てるつもりが土屋の皆々様にないとしても、ずっと日の当たらない場所で育てられた子供の体には、如実に虐待のあとが残るから。万一今の恭介サマの扱いが御当主様の知ることになった場合、その体に虐待の証拠なんかが見つかってしまえば、痛い腹を探られることになりますよとも言ったけど。なるべく、優しい口調で」

「……恭介様を地下に閉じ込めていたのは、御当主様の意志ではなかったのか……」

「多分な。だって、話が早すぎるでしょ。おおかた恭介サマの世話役を仰せつかった人間が、ストレス発散で良いはけ口にしてたってとこだろ……まぁ、件の御当主も、あらかた知ってた上で、黙認してたんだろうけどな」

 ――これはもう、叱るに叱れなくなってしまった。

 おそらく、烏丸が動いた本題は後者なのだろう。風水のことで嘘をついてまで脅したのは、黙認している現状をひっくり返せるだけの論拠が欲しかったからだ。家相に響くような事態だと嘯けば、それは公に御当主様の知るところになる。

 どのようにして恭介と烏丸が巡り逢い、どのような事情によってこういった行動に出ることになったのかは知りようもないけれど。犯罪者か何かのように閉じ込めてられていた恭介を、あの場所から無事連れ出せたことは誰に言われるまでもなく幸いだった。

 楠は深く考えるのをやめ、烏丸を見逃がすごとにした。それは主のすることに正面から逆らうことのできない自分には、まるで思い付きもしない妙案だったのだから。

 烏丸は再び腹ばいのポーズに戻り、クロスワードのマスを埋めてゆく単純作業に戻ったらしい。よく見ればその雑誌はすべて応募期間が切れており、全問正解したところで何の懸賞も当たらないようだ。意地悪くも小さなフォントサイズで明記された締め切り日に烏丸が気づいているかどうかは微妙なところだが、どうせわかっていなかったとしても、大きなダメージは受けないのだろう。

 そういう男だった。


 程なくして、恭介を襲った人間は一人残らず局部が呪われるという噂が、まことしやかに土屋邸に広まった。それを聞いた烏丸は、大層愉快でならなかった。

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