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恭介・圭吾シリーズ  作者: 芹澤柚衣
アンリミテッド・スノーマンの情景
42/73

13

 街から離れた場所にある土屋邸は、街灯に照らされない分、闇夜にしっかり飲み込まれていた。足元に落とし穴があっても気づけない程、木々に囲まれた大部分は影に侵されている。

 圭吾は片手で携帯を操作しながら、その屋敷の全体像を確かめていた。賃貸住宅の内見のように間取りを細かく調べることはできないけれど、シルエットだけでだいたいの構造は想像がつく。全体的に古びてはいるが、それなりの財がなければ私有化はできないだろう、しっかりした造りの日本家屋。最初の印象が「旅館」だったのは、縦にではなく横に広かったから。相当な敷地が確保されており、保有する部屋数を推測しても、充分商売が成り立つ数が所有されていると判断できた。

 一般家庭とは、よもや思えない規模だ――もしこれが観光地に建てられていたなら勘違いした観光客が迷い混む危険性もあっただろうが、繁華街とはお世辞にも言えない寂れた街からも距離のある、こんな深い森の奥に建てられた正体不明の旅館じみた建物になど、立ち寄る奇特な人間はなかなかいないだろう。子供を一人、見聞の悪い育て方をするには、成る程恰好の張りぼてだったに違いない。

 圭吾は人差し指と中指で拡大と縮小を繰り返しながら、細部に渡って建物の造りを精察した。

(こういった建物は、隠したいものをだいたい内に内にと造る)

 ぐるりと屋敷を囲うように設けられた渡り廊下は、よく観察すれば、機能性やデザイン性を慮って造られている中にも、極端に不自然な設計を見つけることができる。侵入者を迷い込ませるように配置されたテレビ局の構造にも似た廊下の一部が、壁に囲まれて突如軌道修正されていた。その向かいには離れが造られており、いかにもそこに何かがあると見せかけた配置になっていたが、その斜向かいに出っ張るように造られていた、小さい部屋の方が妙に気に掛かる。

 風水における方角の知識を考慮しても、角部屋をわざわざ増築しなければならないような鬼門ではないし、殊に上から見下ろす角度で注視すると、単純にバランスの悪さが目立っている。

(とりあえず、ここに向かうか)

 爪先をスコップ代わりに、柔らかい土を掘り起こす。ある程度穴を深く削ると、湿り気のあった柔らかいそれは僅かに粘りを持ち始めた。粘土を石に塗りつけるように採取し、片方のローファーを脱ぐ。両足の靴底に、薄く粘土を塗ってから履き直した。即席だけれど、音を吸収させるゴム代わりのつもりだ。爪先から地面へとつけるように足を滑らせて、方角を再度確認する。

 だいたいの配置を頭に入れ、携帯の電源を落とした。これだけ濃い闇なら、ディスプレイを照らす明かりでさえ、悪目立ちする危険性が高いから。サイドに付随された凹凸のないボタンを長押ししながら、電池の残量を確認する――四十五%。長期戦になるなら、少し微妙かも。

 鼻から抜ける程度のため息は溢れたが、嘆く前にすることがあった。圭吾は砂利と枯れ葉を避け、柔らかそうな土を厳選して踏み走った。

 まだ走れる。現状把握も、判断もできる。きっと自分は、まだ大丈夫だ。迷いを振り切るために、確かめるように言い聞かせた。

 本当は、すぐそこまで来ている何かに、飲み込まれるのが怖くて怯えているくせに。


 渡り廊下の外側をなぞるように、圭吾は屈みながら歩を進めていた。目視で家の様子を伺いながら、人影を探しつつ息を潜める。丑三つ時を迎える直前の土屋邸には人通りこそ多くなかったが、生活音はそこかしこから聞こえてきた。目よりも情報量の多い耳を頼りに淀みなく動かしていた足が、何かを視界に捉えた瞬間ピタリと止まる。

 花弁を広げ始めたチューリップのような、上向きに口を開いている硝子の器。その形は、幼い頃祖母の家でよく見かけたことのあるものだった。

 中で跳ねるように泳いでいるのは、黒と赤の金魚。


 ――金魚は、二匹いた。


 一之新の台詞が木霊するように、脳の一部に響いた。

(城脇……!?)

 反射で踏み出そうとする足を止め、周囲を先に確認する。静まり返った廊下の奥にさえ、人影は見当たらない。

 一之新を探しに行くか悩んだが、自分が目を離している隙に、移動されてしまっては元も子もない。こんなところに無防備に置かれている金魚鉢に僅かな疑心は生まれたものの、迷ったのは一瞬。音を立てないように駆けつけ、鉢の中を覗き込む。今思えば――少し、焦っていたのかもしれない。

「動くな」

 空気が皸割れたような気がした。それ程に、放たれた声は無遠慮だった。圭吾はゆっくりと一度瞬きをしたが、頭は静かに混乱していた。

 視界で確認できる範囲内には、人影はいなかった筈。確認を怠らなかった自分を思い返したけれど、大前提で間違えていた。相手は普通の人間ではないのだ――少なくとも、霊体の鳴海を金魚の内に取り込めるくらいには。

「もっと頭が切れると思っていたがな。餌を前にがっついたか?」

 智也が、愉快そうにせせら笑った。楽しくて笑っているのではない。心の底に沈めた悪意が、蓋も出来ないほどにせり上がっているから、そのように誤魔化しているだけ。そんな邪推を駆り立てる程、大根役者じみた大袈裟な笑顔だった。

「……ひとつ、聞いてもいいですか? 跡目にするためだけに、どうしてここまでするんです?」

 捕まるのも、最早時間の問題だ。それならば、疑問点は出し惜しみしない方がいい。圭吾は一歩踏み込んだ質問をした。宛てもなく内情を探るよりは、余程手っ取り早い方法だった。

「跡目?」

 不躾な質問に、智也が眉を寄せる。まるで、そんな事情は初めて聞いたとでも言いたげな顔だった。

「……ああ、恭介のことか。確かに表向きは、そんな口実で引き取りに行ったかな」

 白々しい顔で、智也が首を振った。緩めたままの口許を、片方の端だけあげてみせる――嫌な笑い方だった。

「だが、現実はもっと残酷だ」

 耳の奥で、チリ、と何かが焼けたような気がした。この先を、聞いてはならない。それは根拠もなく、正体も曖昧だったけれど、確かな危険信号だった。

「恭介は、贄のために呼ばれたんだよ」

「……贄?」

 馬鹿みたいに、単語を繰り返す。意味のわからない、ふりをした。実際、脳に到達するまでに僅かなタイムラグはあったけれど。聞き返したのは殆ど、防衛反応に近かった。

「妹君の魂が、化物に犯された。昔からつけ入れられやすい体質だったみたいたけどな。()()はもう助からない。だから、()()()()使()()()()

 まるで消耗品のスペアを新しく開けるみたいに、頓着のない顔で智也がつらつらと語る。圭吾は言葉を失った。

 恭介のを、使うと、確かに彼は言った。

「薄々は勘づいていたんじゃないか? 俺の能力は、魂を別の体へ移すこと。移動されてしまえば最後、初めのうちはまだ自我もあるが……時間が経てば記憶も薄れ、じきに新しい体に馴染む。恭介は、妹の存命のために殺されるんだ――土屋の親族によってね」

「……嘘だ」

「嘘だも何も、実際恭介の師匠が準備してたじゃないか」

 呆れたように、智也が言った。圭吾は、出会い頭にいきなり頭を殴られたような気持ちになった。ぐらぐらと揺れる脳みそを支えながら、どうにか単語を繰り返すので精一杯だった。

「準備……?」

「あいつが何のために、魂を体から抜く薬を作ったと思ってるんだ。その日を恙無く、迎える必要があったからだろ」


(――ああ、ついに)


 すべてが繋がってしまった。圭吾が千切ってでも別の何かに繋げたかったそれらは、あっさりと一直線に、ひとつの絶望へと結ばれてしまった。

 烏丸は、途中で裏切ったのではない。最初からこの日を迎えるために、恭介の傍にいて必要なことをしていただけで。


 ――あいつを、信じたいんだ。


(犬神さんに、何て言ったら良い)

 こんなひどい現実を、伝えなければならない。烏丸は味方かもしれないなんて、思わせ振りな推理を聞かせてしまった。一之新にも、余計な混乱を招かぬよう、烏丸に関する情報の一切を伏せてしまっている。その結果が、このざまだ。

 犬神だけじゃない。情けない話圭吾自身、無意識にどこかで宛てにしていた。彼がこの屋敷にいるのなら大丈夫だなんて、甘ったれた考えを当たり前のように抱いて。だから、侵入するのも、探るために踏み込むのにも、一度も足が震えなかった。最初から――とっくに四面楚歌だったのに。

「圭吾」

 不意に、空間の中に聞き慣れた声が響いた。かつて、恭介の体をまさぐるように触れるたび、目くじらを立てて窘められたことのある声。

 あの、わかりやすい感情に溢れていたそれが、まるで嘘みたいだった。ゴムボールが音も立てず弾むかのごとく、圭吾を呼ぶ声には何の重みもない。圭吾は、力なく振り向いた。こんなものが現実なら、何ひとついらないのに。

 それでも受け入れなければならなかった。すべては事態を甘くみていた、己の招いた結果なのだから。

「恭介から伝言だ。明日の午前十時、恭介の魂を使った儀式が行われる。だが悲しいことに、恭介を忌み子と嫌い、血縁者として関わることを快く思っていない連中は一定数いる。土屋のやり方に反発意識を持っている者も含め、そういった輩が邪魔立てすることがないよう、儀式の行われる部屋を警備して欲しいとのことだよ」

「……それだけですか」

 この家を、抜け出すことが叶わなければ殺されてしまう。そんな状況下で、まるで普段の依頼によくある、事務手続きか何かのような命令。それは自死の選択と同意だった。手段があっても、逃げる気はない――まるで恭介が自ら命を差し出すことを受け入れ、何もかもを諦めてしまってるみたいに。

「本当に……本当に、先輩が僕に望んだのは、それだけなんですか……!?」

 烏丸は可哀想な子供を憐れむような顔をした。圭吾は、唇を噛んでぐっと堪える。本当は、叫びだしたい気持ちだった。

「疑うのは自由だけれど、本当だよ。何なら本人に直接確かめてみるか? お前がそう望むなら、今この場に引き摺って来ても構わないけれど」

「烏丸さん」

「言うことが聞けないなら、残念だけれど帰ってもらうしかないな」

「烏丸さん……!」

 もう、限界だった。恭介を物か何かのように軽んじる言葉をこれ以上聞いてはいられなくて、圭吾は遮るように烏丸を呼ぶ。まるでひとりの人間の命が、代替えのきくものか何かのように扱われている。それは、わかりやすい悪夢だった。

「悪いが、俺は烏丸程甘ったれじゃないんでね」

 智也が忌々しさを隠さずに言った。まるで親の仇を、漸く見つけた時のような声だった。

「大人しく帰してなんてやらないよ。悪い虫は一匹残らず駆除する主義だからな」

 もう、圭吾にはその言葉さえ届かなかった。まだ大丈夫だと必死に思い込み、言い聞かせて動かしていたブリキの玩具が、とっくの昔に錆びていたことに気づいてしまった気分だった。走って逃げようとも思えなかった。畳に張り付いた足は、立ち続けることさえ放棄しようとしているのだから。

(もう……無理なんじゃないか……?)

 自分が、恭介だったらどう思っただろう。実の親から、踏みつけるみたいな手紙を郵送され、犬神と同じくらい信頼していた烏丸に刃を向けられ、まるでこの日が来るのを待っていたみたいに、檻の中に投げ捨てられ見向きもされないなんて。烏丸が恭介に注ぐ愛情には、明確な期限があった。それをこんなふうに、畳み掛けられるように思い知ってしまったら――もう。


(死んで、しまいたくなるんじゃないか……?)


 目を開けていられない程の絶望が、ついには圭吾の全身を飲み込んだ。役立たずになった足が折れ曲がり、力なくその場にへたりこむ。

「人質は、二人もいれば充分だからな。安心してお前は、この場で死ね」

 振り翳した智也の右腕が、一枚の札を握っている。逃げようとすれば逃げられたのかもしれないが、圭吾はそういった思考をすべて止めてしまっていた。コンセントごと引っこ抜いたような体は、電源ボタンを押されたとしても動かないだろう。脱力した体に逆らわず、圭吾は静かに目を閉じた。

 ――瞬間、目映いほどの閃光が、圭吾の周りに壁を作る。

 柔らかな風が、圭吾の頬を撫でるように吹いていたので、つい、つられるようにして目を開けてしまった。

「……白虎」

 目の前に広がっている光には、見覚えがあった。光沢のある白。上等な毛布のような毛並み。おそらく自分に呼び出されるまで、じっと息を潜めて耐えていてくれた――唯一無二の動物霊。

〝出過ぎた真似を、申し訳ありません〟

 独断でしゃしゃり出たことを真っ先に詫びて、白虎は光の壁から形を戻す。白くて艶やかな毛並みに包まれた背中には、いつものように、ライトグレーの明度を少し落としたような模様が描かれていて。見慣れたその姿は、こちらを振り向きもしないままだったけれど。その声には、身震いする程の力強さがあった。

〝犬神は、闘い方を間違えました。奴が智也と対峙した時にまるで歯が立たなかったのは、己の力のみで応戦したからです。恭介が近くにいて、霊力をある程度補完すれば、それは生き霊を含んだパワーへと変化し、智也に届く力になり得た筈――故に〟

 盟約を交わした相手を頼ることもせず、一人で勝手に、絶望に打ちひしがれていた圭吾を白虎は責めなかった。その代わりに飾り気のない真摯な声で、圭吾の目を覚ますように言葉を尽くす。

〝私を貴方の傍に置いて、貴方が私を使ってくださるのなら、私はマスターを守れます〟

 何でも盟約主の言われるままに動いてしまっては、盟約を交わした意味がない。かつて犬神に言われた言葉が、白虎を突き動かしていた。慎ましやかな虎霊が、主に逆らいながらも絶対服従を誓っている。矛盾していたが、それは同じ感情から生まれた行動だった。

 圭吾に逆らってでも、圭吾を助けたい。それが、白虎の導き出した服従のあるべき姿だった。

〝ご命令を!〟

「白虎……剣になれ!」

 高らかに指令を請う白虎につられるようにして、圭吾が片膝をついて立ちあがる。翳した掌に、光の粒が集まった。

 様々な色や形に変化しながら、それらは圭吾の身長をも追い抜く程の大剣となる。具体的にこうなれと指示したことは一度もないのに、白虎はいつも、圭吾の思い浮かべる武器になってくれた。

 片手で支えきれない太い柄を、しっかりと両手で握り込む。ざっと、部屋の広さを見渡した。狭くはないが、宴会場のような広さはない――風圧は、一撃で部屋全体に届くだろう。欄間がない分、跳ね返りやすい。圭吾は改めて柄を握り直し、フェイントで助走をつけたように走る。右肩から背中へと持ち上げて、右手首を僅かに捻りながら振り下ろした。刃の幅が広いつくりだったため、近距離で風圧が小さな渦を巻いた。それは織り混ぜられた圭吾の霊圧と共に雹のような風を作り、智也の足元へ放たれる。その閃光はすぐに跳ね返り、光を纏いながら襖を貫いた。

「はっ、大振りだぞ! まだコントロールできてないんじゃないか!?」

「承知の上だろ」

「は?」

 烏丸は肩を竦めて、視力検査中の眼科医のように指を差す。示したのはもちろん、Cの形をした記号の穴が開いている箇所の確認ではなく、たった今智也が駆除をすると息巻いていた対象の所在地を報告するためだった。

「目眩ましのつもりだ。追わないのか?」

 親切心でもう何も載せていない正面の畳を指差しながら、再三確認をとった。脱水中の洗濯機のようにわなわなと肩を震わせた智也は、まんまと猫騙しに引っ掛かったことに今更気づいて地団駄を踏む。

「くそっ……!」

「お前その、何かというとすぐくそって言うのやめたら」

「うるさい!」

 八つ当たりで烏丸の足を踏んでから、智也は渡り廊下に飛び出した。痛いんですけどなどと、本気で痛がっているようにはまったく聞こえない文句が背中から聞こえてくるが鮮やかに無視をした。

 廊下の右と左、どちらへ行くかの二択を迫られる。小さく舌打ちをし、智也は迷うことなく右へと走った。勘の良い子供なら、こんな時に選択を間違えないからだ。


 圭吾は廊下を獣のように走っていた。

 影が襖に映らないよう上半身を屈めているせいで、ときどき前足のように両手も使っているため、比喩でもなく言葉の通り、その姿は正に獣に近かった。

 早い段階で、靴は捨ててしまった。人様の家に土足で入り込むことを憂慮したというよりは、靴底の汚れを廊下につけて足がつかないようにしたためだ。靴下と板の間の相性は言わずもがな最悪だったので、靴下も早々に脱いだ。裸足で走る方が音も立たないし、ブレーキも掛け易い。反射的に右へと曲がった廊下は、奥へ奥へと圭吾をいざなった。

 核心に近づいている期待はあったが、それはつまり、袋小路に自ら突っ込んでいるということ。新たな作戦も何もないこの状況では、体制を立て直すための時間稼ぎが必要だった。

 確実に見つからないような場所を可及的速やかに確保するべきだが、そもそも土地勘のない敵陣地でそんな場所が見つかる可能性は低かった。それでも、可能性が高い低いを判断基準に据え置けるような、恵まれた状況ではないことは重々承知している。

(――ああ)

 嫌になる。ちっとも言うことを聞いてくれない、思う通りにはならない人。こうやって駆けつけるのも、手を伸ばすのも、恭介に望まれていないのなんか、最初からわかってた。きっとあの人にとっては全てがいらぬお節介で、だから事情のひとつも話してはくれない。そもそも修学旅行に行けとかいうし、ちらし寿司だって、こちらが暴かなきゃ戸棚の肥やしになったまま静かに賞味期限を迎えていただろうし、きちんと寝ろと何度も言っているのに、一度調べものを始めたらきりのいいところまで読みきるまで寝ないし、御飯だって三食食べろと言っているのに、圭吾や他の人間が来なければ平気で二食は抜くし、左手が不自由な間も着替えは絶対手伝わせてくれないし、結果一人で無理に結んだネクタイがあんまりに不恰好だからとこちらから解きにいかなければ締め直させてもくれないし、早く起きて境内の掃除は欠かすなと言っているのに寝汚いし、だから早く寝ろって言ってるじゃないですかはもう百回は言っているし、まだ自分が食べたことがないけんちん汁を平気で他の男に振る舞ったりするし、圭吾が距離を詰めるたびに、同じだけ距離をとって逃げるし――本当にあれもこれも、毎日、毎回、いちいち面倒で、掴めなくて、掴んでくれなくて、だけど、だけど――あの一瞬。

 圭吾が落としたサインを握りしめて、しっかりとこちらを見上げたあの相貌は。

(諦めて、おとなしく言う通りにするだなんて、可愛いげのある顔じゃなかった)

 もたつく足で何度も転びそうになりながら、圭吾は必死に闇から這い上がろうとしていた。


(先輩は、きっと何かを企んでる)


〝マスター! 行き止まりです!〟

 突き当たりで、白虎が叫ぶ。目の前には、漆喰の壁が広がっていた。試しに力強く押してみたものの、忍者屋敷のようにひっくり返ってはくれない。左右は部屋へと続く襖に挟まれていた。まさに、進路も退路も塞がれている。

(このまま……追い付かれるのを待って、応戦するか……?)

 切り札はあった。けれど、それを使うのは今じゃない。胸ポケットを無意識に触って、圭吾は考えを巡らせた。

 白虎が言ったように、圭吾の霊力でアシストすれば闘えるかもしれないけど、その結果捕まってしまったら、起死回生は絶望的だ。一之新や鳴海の安否がわからない以上、自分は戦力として逃げ切っていなければならない。

(一か八か、どちらかの襖を開けて隠れるか)

 圭吾は悩んだ末、左側の襖に手を掛けたが、その手が意志をもってスライドする前に、目の前の扉が自動ドアのように勢いよく開かれた。

(……っ!?)

 圭吾が叫び声をあげる前に、頭から布のようなものが被せられる。剥がそうと暴れるその上から、落ち着いた声が落とされた。

「捕まりたくなかったら、おとなしくしておけ」

 少し掠れた、年輩の男性のような声だった。

(……()()()()()()()()()()?)

 その後すぐに、スパン、という音が聞こえる。まるで捕獲されたような状況なのに、報告するでも、仲間を呼ぶでもない。圭吾は身じろぎひとつせず、耳だけに意識を集中させる。

 視界は奪われ、吸い込める空気量も限られているのに、不思議と息苦しさは感じなかった。

 バタバタと、足音が聞こえる。重なり合う音にはそれぞれの癖があった――多分二人か、三人。途中で追っ手を増やしただろう智也が、ここまで追跡したのだろう。

「楠様……!」

「何じゃ何じゃ、夜中だってのに騒がしい」

「大変失礼しました。現在、屋敷に侵入者を確認したとの報告がありまして……」

 ふぉ、ふぉ、ふぉ、と好々爺特有の、口の中で声を頬張るような笑い声が聞こえた。

「このあたりは昔から、河童の伝説が多いからのう。どこぞの小童が、迷い込んだのかも知れんぞ」

「お戯れを……!」

 のらりくらりと躱されて、困り果てたように誰かが窘めていた。立場上強く言えないのだろうか。それ以上食い下がる者はいなかった――ひとりを、除いては。

「お師匠様」

「智也か」

「犬猫を、匿うのとは訳が違います。賊を気まぐれで庇いたてなさいますと、謀反を疑われることになりますよ」

 ふぉ、ふぉ、ふぉ。またあの穏やかな笑い声が聞こえた。

「耄碌したジジィに、そんな体力があるもんか」

「ですが……!」

「さぁ、散った散った。今何時だと思うておる。年寄りは早寝じゃ」

 ぱたぱたと、空気を手で叩くような音が聞こえた。蜘蛛の巣を散らすように、いとも簡単に追っ手を追い払ってしまったよう。安心した瞬間急に布を捲られて、圭吾は目を細めた。薄暗い回廊の隅。相手がラスボスならジ・エンドのテロップロールが流れてもおかしくない状況だ。

「……さて」

 予想は良い方に裏切られた。覗き込んで来たのは、やんちゃないたずらを繰り返す孫を見つけたかのような、柔らかい眼差し。圭吾は今更ながら、まじまじと相手の顔を観察した。垂れ下がった、太い八文字眉。小柄な体は、上品な浴衣に包まれている。年輩と予測したことに間違いはなく、二回り、いやそれ以上には年上だった。銀髪の前髪を横に流した髪型は、少しだけ軟派な印象を与えるかもしれない。眠たそうに眼の半分を覆っている瞼の奥からは、黒曜のように研ぎ澄まされた黒目が覗いていた。

「正体がわからぬままでは、敵も味方も判断できんからな。お主は何者じゃ。何の目的で忍び込んでおる」

「僕は……」

 即答できない質問だった。正義の味方を気取れもしない、本人に助けてと言われた訳でもないこの状況。圭吾を動かしているのは自我で、自分の都合で、正解も不正解も善悪も世界事情も、一切関りのないものだから。

「恭介さんを、拐いに来ました」

 正直に答えてみた。また、ふぉ、ふぉ、ふぉ、と独特の声で笑われる。ぱさり。もう一度頭に布を掛けられたので、赤くなった耳を見られずに済んだのは僥倖だった。

「それは屍布といってな。そいつで体をくるんどる間は、周りのものに存在を認知されることはない。儂の作った呪具じゃ。儂が声を掛けるまでは、暫くはそこに隠れておれ。良いな」

 得体のしれない賊相手に解説を終えた好々爺は、一方的にそう声を掛けるなりどこかへと移動してしまった。一気に体から力が抜けて、圭吾は未だ刀から姿を変えない白虎を抱えたまま真横に倒れる。

(……何か、すごいこと言ったかも)

 拐いに、来ただなんて。まるで横恋慕していた花嫁を、式の当日に連れ去りに来た男のような言い草。それじゃあ、まるで。

(――恋、みたいじゃないか)

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