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恭介・圭吾シリーズ  作者: 芹澤柚衣
アンリミテッド・スノーマンの情景
40/73

11

 錆びた鉄の匂いと、すぐそこに梅雨がきているかのような湿った空気が鼻孔を掠める。ざり、と頬に砂が擦れる感覚。ひたりと張り付くように無機質で冷たいそれは、まどろんでいた恭介の意識を容赦なく現実に引き戻した。

 頬に触れていたのは、壁ではなく地面だったと遅れて気づく。古い記憶が、脳の一部で呼び起こされた。この感触には――もっと言えば、この雨上がりの鉄棒に似た匂いにも、ある種の懐かしささえあった。

「随分図太い神経をしているんだな」

 軽蔑を織り混ぜたようなひどく攻撃的な声が、無遠慮に頭上から聞こえる。どうやら俯せて眠っていたらしい上体を持ち上げて声の主を確認しようとした瞬間、鳩尾に焼けるような痛みが走った。わざと爪先で抉るようにして蹴飛ばされたのだと理解するには、寝起きの頭は鈍すぎた。シナプスが痛みを脳へ知らせる前に、両手をつき、前屈みになってえずく。唾液に混じった、生暖かい胃液が逆流した。こめかみが膨張するような、血液の巡りが反転する感覚。嫌な汗が顎を伝った。生理的な涙が、重力に逆らわず鼻根へと流れ落ちる。

「なぁ」

 左手を踏みつける、クラシカルなブラック・ブーツ。容赦なく体重をかけられ、嫌な音が鳴る。潰れた声で呻く恭介を、冷たい双眸が見下ろしていた。髪の毛で隠されている右目は見えなかったが、細い左目は、あの頃と同じ――猛々しい緋色に燃えている。

 腹の底からお前が憎いと言っているような視線を、全身に注がれるのは存外久しぶりだった。踵でごり、と骨を潰される。痛みで声を上げる恭介の胸ぐらが、乱暴に引き上げられた。

「どんな気分だよ? お前のせいで人生狂わされた男に、寄生しながら生活するってのは」

「智也」

 恭介が何かを答える前に、男の声が遮った。他人のように感情をまるで見せないそれは、聞きなれていた人のものなのに、随分遠くから聞こえているような感覚がした。捕まれていた胸を突き飛ばすように放される。鉄格子に背中を強く打ち、恭介はずるずるとしゃがみこんだ。

「相変わらず過保護だな。俺がこのガキを殺さないか見張りに来たのか」

「さすがにそこまで馬鹿だとは思ってないよ」

 癇癪を起こした子供を片手間に宥めるような口調で、烏丸がのんびりと答えた。

「恭介」

 あんなに甘ったるく自分の名前を呼んでくれた烏丸が、ひどく他人行儀にその名を呼んだ。それは、まるでそこに書いてある日本語を、読めと言われたから読んだかのような義務的な声だった。ひどく照れくさくて、居たたまれなくて、時々走って逃げてしまいたくなるくらいの幸せで包んでくれた、恭介を呼ぶ烏丸の声を思い出す。無機質に響くそれにはもう、愛情などはどこにもなかった。そんなものを未練がましく探そうとしてしまう自分が、悍ましいほど愚かだと思った。

「薬箱だ」

「手当てがいるような怪我はさせていない! 改めてそんなもの、持ってくる必要なんかないからな!」

 続けられた言葉を聞いた瞬間、ガン、と鉄格子を蹴りつけて、智也は檻の外で壁に凭れている男に吠えた。烏丸は胡乱げに智也を見たが、それだけだった。一瞥もされない自分は、壁の一部になって消えてしまったのかもしれない。そんな突拍子もないことを考えるくらいには、恭介の頭は混乱していた。

 ある程度痛めつけたことで満足したのか、智也はオズの魔法使いに出てくるドロシーのように、大きく踵を鳴らしてから背を向けた。乱暴に扉を押し開けながら、ジャラジャラと鍵束を見繕っている。

「……左から七番目」

「わかってる!」

 ガシャン。恭介をなぶるように踏みつけていたその男が外に出てすぐ、錠の落ちる音が響く。

「逃げようなんて思うなよ」

 吐き捨てる勢いで言い置いた智也の声に、反目する気さえ起きない。苛立ちを表すかのようにもう一度鉄格子を蹴り上げて、智也は足音を響かせながら通路の奥へと消えていった。結局烏丸は恭介を一瞥もせずに、無言でその後に倣った。ライオンがサバンナを悠然と歩くかのように、躊躇いのない足取りだった。

 鼓膜を揺らし、煩いくらいの音を浴びせる智也がいなくなってしまった今、小狭い牢にはすぐに静寂がやってくる。恭介は鉛のように重たい手をゆっくりと持ち上げて、顔を覆った。深く吸い込んだ息を、ゆっくりと吐き出す。そうしなければ、叫び出してしまいそうだった。

 恭介は気づいた。気づいてしまった――烏丸の意図に。

 彼が、どのような思念を持ち、どのような計画を立てながら、どのような覚悟をもって恭介の傍に居続けたのかを――全部、全部、わかってしまった。

 胸が焼き切れてしまいそうだった。掻き毟るように爪を立て、恭介は声にならない泣き声をあげた。それは悲しい慟哭だった。何も知らずに甘やかされていた自分が、ひどく憎くて堪らなかった。

 床に手をつけた瞬間、チリ、と皮膚の一部に焼けるような痛みが走る。着物の袖を捲り、痛みを覚えた腕を確認した。視界に入ったのは、縦方向に走ったみみず腫。表面にはうっすらと血が滲んでいた。智也に踏みつけられた時にではない。烏丸に背中を突き飛ばされた時でもない。どのタイミングでつけられたのか、明確に心当たりのある傷だった。

(――数珠を、渡すだなんて)

 たったそれだけのことで、わざわざ指を絡ませて。烏丸に拐われるように家を出ようとした自分を引き留めてもくれないその指で、こんな引っ掻き傷だけ残した意地悪な圭吾。

 無感情な唇に奪われた意味を持たないキスよりも、ずっと大きな衝撃で、心臓を貫かれるような悦びを与えてくれたのがこの傷だった。容易く足元を揺さぶられる怖さも、痛みを伴う幸福も、すべてこの男が教えてくれた。もし――もし、もう二度とあの神社に戻れないというのなら、この傷だけは残っていて欲しいと願ってしまう。このまま痕になればいい。醜くひび割れたって、この後何度痛みに疼いたって、そのことに一生苦しんだって――自分はいっこうに構わないから。

 自身で傷口に爪を立てながら、恭介は蹲った。

 大きな覚悟を、しなければならなかった。


「二手に分かれましょう」

 携帯に残っていたデータを頼りに辿り着いたその建物の近くで、茂みの中に片膝を付きながら圭吾が言った。ひどく虚心坦懐な声だった。

「先輩を見つける役は、僕と犬神さんと白虎――白虎はあくまで保険なので、必要があると判断したタイミングで呼び出すつもりです。城脇を救出する役は、一之進さんにお任せして……目的を無事遂行できた方が、手間取っている方のアシストに駆けつけることにしましょう」

〝異論はねェが……パワーバランスが悪くねェか?〟

 親切にも人差し指と中指を立てて分かれるチームが二組であることを誤解のないよう伝える男の横で、犬神が明らかに偏りのある内訳を突っ込んだ。

「単純に、相性の問題です」

 恭介救出チームに持ち霊二体と圭吾、鳴海には一之新のみというアンバランスな配備に関する犬神の貴重なご意見は、誠にありがとうございます感ゼロのまま冷静な少年にすっぱりと切り捨てられる。

「城脇を救出するにあたり、囚われている場所があの金魚鉢の中である以上、智也さんとの戦闘は避けられません。現時点での情報から総合的に考えて、智也さんとぶつかるには、白虎や犬神さんの力は相性が悪いと判断しました。いたずらにいち君の補佐をする人員を増やしたところで、足手まといになる可能性の方が高いでしょう」

「……いや、おい、急にいち君って言うな。突っ込みそびれるとこだっただろ」

 動揺した一之進が、やや遅れて突っ込んだ。

「あと、多分……」

 圭吾はふいに口を閉ざした。こめかみに人差し指を押し当てながら、小さく息をつく。

「土屋先輩を、見つけた後にやることが多いと思います」

 ややあってから、分厚いチーム体制であることのもうひとつの理由を白状した。

〝やることって、何だよ?〟

「ここに無理強いされて連れて来られた訳じゃない」

「そうなのか?」

 一之進が意外そうに問い掛けた。

「少なくとも抵抗をする素振りはなかった、という注釈はいるかもしれませんが……城脇を人質にとられて脅されているのが、ポーズや体裁ではなく真実であれば話は早いですしやることも簡単だと思います。だけど」

 一度言葉を切って、圭吾は下唇を緩く噛んだ。

「そこに先輩の意志があるなら、動かせるものなんかひとつもなくなる」

〝……お前、もしかして恭介が、跡を継ぐ気で帰って来たって思ってる?〟

「それ自体が」

 圭吾が、ぐるりと首を回してから如何ともしがたい顔で言った。

「隠れ蓑かもしれません」

 それは夜の空気を押し上げるような、不穏な言葉だった。

「とにかく、先輩がどういうつもりなのか、どういう事情が背景にあって、今現在何に巻き込まれているのか……助ける前に確認が必要です」

「助ける前に?」

「助ける前に」

 きっぱりと圭吾が言った。惑いも迷いも一切薙ぎ払った、明鏡止水に満ち満ちた声だった。

「……なぁ、圭吾っていつもこんななの?」

〝だいたいな。頭が切れるし、判断力もある。こいつの言うことは大概、ただの勘より信憑性はあると思うぜ〟

 落ち着き払ったトーンで様々な思考を巡らす男を目の当たりにし、一之進は敬意よりも恐怖が勝って小声で犬神に問い掛けたが、すっかり慣れているらしい犬神が胸を張ってこれは日常だと言い切ったので閉口するより仕方がない。恐れ慄く一之進の心情だけが、置いてけぼりにされた気分だ。

「ふーん……ま、いっか。味方なら頼もしい限りだしな。どっかで、でけェ反動が来なきゃいーけど」

「ご心配なく」

 圭吾が、ぴしゃりと音のしそうな速さで答えた。三者三様、お互いの顔を見遣って頷く。時刻は、二十三時と十二分。それぞれが頷いたのを合図に、恭介と鳴海の奪還作戦が決行された。

「犬神さん、辿れますか」

〝恭介にもらった目があるからな〟

 青白く暗闇に光る犬神の右目が、釣瓶落としの炎のようにゆらゆらと揺れている。

〝着いてこい、圭吾。この目があれば、俺は一生恭介を見失わない〟

(――そういうの、僕にもあればいいのに)

 圭吾は目を伏せて、先に駆け出した犬神の後を追った。

 見失ってばかりだ。ふいに溢れそうだった言葉は、喉の奥にしまいこんで。

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