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恭介・圭吾シリーズ  作者: 芹澤柚衣
アンリミテッド・スノーマンの情景
37/73

「こっちにはいませんでした」

 台所を確認し、圭吾が簡潔に報告した。

「というか、けんちん汁……」

 鍋に半分残されたそれを覗き込み、まるで大きな災害や事故が起こる度に後手後手になっている政府の対策を嘆く評論家のように顔を顰めるので、犬神は飛び上がらんばかりに驚き、その勢いのまま駆け寄った。

〝けんちん汁がどうかしたのか……!?〟

「僕、まだ食べたことないんですけど。先輩の」

 そりゃあお前が味噌汁を出した時に限って山盛り食べたがったりおかわりしたりするもんだから他の汁物を作る機会がなかったんだろうだとか、お前は食べたことのない恭介のけんちん汁が自分ではない誰かが先に食べたというそれだけのことが原因で軽減税率の対象を決める国会の答弁に参加している重鎮みたいな苦々しい顔をしてるのかだとか言いたいことは色々あったが、どれもこれも言葉にするのさえ馬鹿馬鹿しく思えて犬神は力なく尻尾を下げた。

「……! 待ってください!」

〝どうした!?〟

「先輩、筑前煮の下ごしらえまでしてるんですけど、僕まだこれも」

 ついに、犬神は切れた。さすがにもう切れていいと思った。

〝お前は一旦台所を漁るのをやめろ!!〟

「鍋がまだ、あたたかいです」

〝この話まだ続けんの!?〟

 昔を思えば随分と長くなっただろう堪忍袋の緒を自ら切ろうとたった今決めたばかりの犬神を制すように、圭吾がはきはきとした声で報告を続けた。いやに神妙な顔だった。

 嘆くように虚空を仰ぎ見ていた犬神が、何とはなしに視線を戻す。

「先輩が台所を離れて、おそらくそれ程経っていません。まだ、近くにいるのかも」

「動くな」

 冷たい声が、背後から聞こえた。水が氷を張る瞬間、これくらいまで温度が下がるかもしれない。そんなことを想像させるような、ひんやりと血の通っていない声だった。

「動くと、こいつの首を斬る」

 ぞわり。犬神はその声が生み出す氷水に、足を突っ込んだかのように固まった。

 確認したくない未来が、今、背後で現実となっている。

「烏丸、さん……?」

 先に顔を向けたのは圭吾だった。つられるようにして、犬神がゆっくりと振り返る。恭介を羽交い締めにした烏丸が、その喉元にナイフを突きつけているのが見えた。

 エフェクトが掛かったかのように、ふわふわと犬神の視界が揺れる。

 テレビのモニター越しであって欲しかった、安っぽい、ドラマのような結末。大きな失望と怒りは、犬神から全ての言葉を奪ってしまった。

「……本気です?」

 正気を確かめるように、圭吾が静かに問い掛けた。犬神は神経を張り巡らせ、周りを探るように確認する。烏丸にだけ伝わるように何かしらの指示を出している第三者的存在を、或いはどこかで期待していたのかもしれない。

「俺はいつまでも、恭介の味方って訳にいかないからね」

「何故?」

「土屋側の、人間だからだよ」

 美しく、烏丸が笑った。作りたての西洋人形のように、隙のない笑顔だった。

「最初から、御当主様に命じられていたんだよ。時期が来るまでは恭介の世話役を頼むって。その主が、もう恭介を連れて本家に戻って来いと言ってるんだ。俺に逆らう理由はないし、飯事みたいなこの生活も、俺の任務も、晴れてお役御免という訳さ。おとなしくしてくれたら、乱暴な真似はしないよ」

 言葉の通り、恭介の首に押し付けたナイフ以外、烏丸の態度は優雅の一言に尽きた。まるでパーティーをたった今抜け出した招待客のように、ひどく紳士的だ。

「それにしたって、性急過ぎじゃないですか? ご実家に連れ帰るにしても、荷物のひとつくらいまとめるべきでしょう」

 脅して恭介を連れて行くことより手ぶらで帰ろうとすることを的外れにも指摘した圭吾が、呆れたように息をつく。

 それは場違いな世間話のような、ひどく日常に近い声音だった。

「この子に、まとめなきゃならない程の荷物はないよ」

「……数珠は?」

 自身の袖口を指で差し示し、圭吾がシニカルに笑った。一瞬だけ息を飲んだ烏丸が、訝るように視線を合わせる。

「先輩がお祓いの時に必ず、身に付けている朱赤の数珠ですよ。あれ、貴方が与えたものでしょう? その証拠に、烏丸さんが普段身に付けているものと色違いだ」

 袖口から覗く、黒曜のそれを指差してやんわり指摘する。肯定も否定もせず、烏丸は黙秘を貫いた。

「由来はわかりませんが、せめてそれだけでも先輩に持たせても構いませんか? あんたのことだ。ただの飾りであれを渡した訳じゃないんでしょう? 何かの、お守り代わりになるかもしれないし」

「……時間稼ぎのつもりか?」

「まさか」

 圭吾は大袈裟に肩を竦めて、掌を天井に向けて笑った。

「こんなやり取りで、何分稼げるって言うんです? 仏間から取ってきますから、そこを動かないでくださいね」

 てきぱきと指示を出し、有能なバイトは躊躇いなく台所を後にした。烏丸の謀反に大して驚くこともせず、こんな現状をあっさり受け入れ次の行動に移っている。

 どうしていいかわからないまま、動けずにいるのは犬神だけだった。

〝……恭介〟

 さっきから一言も喋らない、抵抗する素振りのひとつさえ見せない主の名を呼んでみる。

〝烏丸に……それなりの恩義があるのはわかる。だが、それとこれとは、話が別だ。こんな誘拐みたいなやり方で連れ出されることに、おめェは納得してンのか〟

「師匠は、何も悪くないよ」

 大きな力関係で、主従の立場にある訳じゃない。それでも恭介はだらりと、体の力を抜いたままだった。

〝どうして……嫌だって、助けてって言わねェ……〟

 畳に爪を立て、犬神が呻くように吠えた。そうでなければ烏丸の喉元に噛みついて、その腕を千切り落としてでも恭介を連れ戻していたに違いない。

 それをギリギリのところで抑え込んでいるのは、犬神に残る僅かな理性と、恭介がそれを望んでいないという現実だった。

〝じゃなきゃ、俺は……!〟

 重ねて責め立める声に、恭介は笑った。まるで、犬神の怒ろうとしたことに、恩師の手に握られた刃物が自身の首に向けられていることに、何の意味もないみたいに。

 深い絶望と脱力が、ついに犬神の全てを飲み込んだ。立っているのが不思議な程、犬神から生気が根刮ぎ奪われた瞬間だった。

「土屋先輩」

 戻ってきた圭吾が、その名を呼ぶ。びくりと肩を震わせて、恭介がおずおずと烏丸の顔色を伺った。

「……直接、渡しても?」

 人差し指に引っ掛けた、朱赤の仏具。くるくると弄ぶように回して、圭吾が片目を細める。

「好きにしろ」

 恭介の喉元に刃を宛てがったまま、烏丸は興味なさそうに呟いた。これは時間稼ぎではない。そう答えた言葉に嘘偽りなく、取り立てて緩慢な動作をすることもせず、圭吾はすたすたと恭介に近づいた。

 恋人繋ぎのようにその指を絡ませ、自身の手首からするりと数珠を移動させる。怖々と、上目遣いでこちらを見遣る恭介に、圭吾は柔らかく微笑んだ。

 目を瞠る恭介の一瞬の隙をついて、彼の手首に指を走らせる。

「……っ」

 勢いのままその腕を掴み、爪を立てた。痛みで呻く恭介の声ごと抑え込むように、その口を自身の唇で塞ぐ。

〝っ、……圭吾!〟

 烏丸の振りかざしたナイフを間一髪で避け、目を潰す目的で弧を描いただろうそれはギリギリのタイミングで圭吾の頬を掠めた。

「……へえ? 期限付きで師匠をやってた割に、存外本気で可愛がってるんですね」

「師匠……!」

 挑発するような物言いの圭吾を遮るように、それまで従順だった恭介が、初めて声を張り上げた。

「俺……っ、ちゃんとついてくから! 逃げようなんて、思ってない! だから、だから……しのと犬神に、酷いことしないでくれよ……!」

 すがる指が、媚びるように烏丸の腕をなぞる。血のついた刀を軽く振って、感情をまるで見せないその男は、やや強引に恭介の腰を抱いた。

「……行くぞ」

 唇を噛んで、恭介は俯いた。何一つ言い訳も弁明もせず、助けを乞うこともなくその声に従って静かに歩く。

「何もそんなに、慌てて出て行かなくても……お味噌汁くらい、飲んで行きませんか?」

「……遠慮しておこう」

 おどけた口調の圭吾に流されることなく、烏丸はすげなく断った。まるで恭介をエスコートするかのごとく、腰に手を宛てたまま躊躇いなく玄関へと向かってしまう。

 恭介の背中を黙視したまま、圭吾は一歩も動かないままだった。


 突き放されるように、背中を押された。後部座席のドアをついでのように開け、掌を緩く振って、乗り込めというジェスチャー。

 烏丸が運転席へ回り込む。逃げない、という言葉を信用したのか、或いは最初から確信があったのか、烏丸は簡単にその拘束を解き、後ろを振り向くことさえせずにステアリングを握っていた。

 恭介は、促されるままその滑らかな座席に腰を下ろした。つるつるとした、ケミカルな肌触りが腰から背中に伝わってくる。

「師匠」

 振り向かないその背中に、ふいに恭介が声を掛けた。

「俺……大丈夫だから。ちゃんと、わかってるから」

 ざらついた声が、鼓膜を揺らす。まるで、自分の言葉じゃないみたいだ。

「師匠が俺の、」

 つぐんだその先を、言葉にするのがつらかった。

 外套の陰に隠れるようにして、恭介は僅かに眉を寄せる。

「……見張り役だって」

 烏丸は何も言わなかった。差し込まれたキーを回して、静かにエンジンをかける。ウインカーを出して細い路地から大通りへ出る瞬間さえも、一度も恭介を振り向いてはくれなかった。

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