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恭介・圭吾シリーズ  作者: 芹澤柚衣
アンリミテッド・スノーマンの情景
31/73

「何か、案外あっさりしてたよねぇ」

 ホットプレートに生成色の生地を流し込みながら、鳴海がついでのように呟いた。食器棚から人数分のフォークとナイフを発掘することに集中していた恭介は、顔をあげるのも、声の主に視線を走らせるのさえ鈍く、話し相手としてのリアクションを評価するなら0点の反応だった。

 抽斗をを最大限まで引いても、どういう訳かナイフしか見つからない。よしんばフォークをナイフの代わりに使えるケースがあったとしても、その逆は難しいから。手探りで掴むものすべてがナイフかバターナイフという現状に頭を抱えたくなったとしても、発掘作業を途中で放り出す訳にはいかなかった。どういう訳かも何もあんたが普段から整頓していないからこういうことになるんでしょうだなんて、幻聴のように某後輩の説教が聞こえた気がした。勿論、遠慮の欠片もなく上司でさえ頭ごなしに叱り飛ばす彼はもうここにはいないのだから、気がした、だけだけれど。

「けーごだよ」

 独特の、間延びしたような呼び方。名指しされたのは、たった今思い浮かべていた人物に相違なかった。正直恭介もあっさりした別れを物足りなく感じていた、二個年下の後輩だ。

 別に恋人同士でも何でもないのだから、彼がじゃあ行ってきますの「す」も言い切らないうちに門扉を叩き閉めたって、文句を言われる筋合いはないことはわかっている。一度も振り向いてくれなかっただとか、自分は小さく手を振ったのに振り返してくれなかっただとか、面倒くさい彼女のようなことを言うつもりは毛頭なかった。ただ、直前まであんなにべったりと体のあらゆるところを触られていたのに、出発時間が近づいたからってさっさと切り替えて背を向ける彼が、ほんの少し憎らしいだけ。

「二、三日くらいの旅行で、いちいち俺に言い置いていくようなことなんかなかったってことだろ」

「うーん……あれはどちらかというと、既に企みごとを終えているような顔……」

「え?」

「何でもなーい」

 歌うように朗らかに笑って、鳴海は塞がっている両手の代わりにフライ返しをひらひらと振った。

 ふつふつと小さな気泡が表面に表れている円形のそれは、状態といい計測時間といい説明書きに倣うのであればそろそろひっくり返し時だった。不安になるほど火力を抑えたホットプレートの上で、鳴海の差し込んだフライ返しに持ち上げられた生地が軽やかに舞う。

「ね、バッチリでしょ」

 言われるまでもなく、拍手を贈りたい程に焼けむらのない綺麗な狐色。その昔、一人で台所に立つことをなかなか許してくれなかった過保護な師匠と共に恭介も試しに作ってみたことがあったが、両面を焦がした上に生焼けというひどいありさまだった。

 箇条書きで記してある調理手順のフローチャートは、三番目に至る頃には完成図が載っているという初心者向きのレシピだったため、恭介も烏丸もまさか失敗するなどとは考えてもいなかった。写真のように生クリームやフルーツなどで飾り付けることまで徹底しなければ、決して難しい料理ではないという油断があったのかもしれない。蓋をあけてみれば案の定、フライパンに生地を載せたあたりから手順通りに進まなくなり、最終的には焦げた部分を削ぎ落とし、ラップにくるんでレンジで温めて食べた。恭介がずっと憧れていたホットケーキの記念すべき最初の一口は、蒸しパンに近い食感に、ほんのり香る焦げ臭さを伴ったものだった。

 パッケージに載っているような、溶けたバターとはちみつを絡めながら行儀よくフォークとナイフでいただくなどということはできないままに終わってしまったが、それでもおやつを名乗れる程度には十分に甘かったし、ラップを剥きながら少しずつ食べるそれは、まるで夜中にこっそり食べるおにぎりのように恭介の心をウキウキさせた。何でもできると思っていた男の、思わぬ不器用な一面を知れたことさえ嬉しかった。

 ばつが悪そうに頬を掻きながら「これはホットケーキじゃない、いいか恭介、今日食べたものはホットケーキじゃないんだ。いつか最高のホットケーキを食べる日のために、今日食べたホットケーキもどきのことは一切忘れるんだ。いいな」と譫言のように繰り返す彼を前に、本当は笑い転げたいくらいに幸せだった。

「……なるほど……敗因は火力か……」

 懐かしい記憶を思い返しながら、恭介が悟ったようにひとりごちる。

「初めて作る人って、大抵焦がしちゃうからね。プレートで焼くならまず間違いはないと思うけど……火加減が強めになりがちなコンロとフライパンで焼くんなら、殆ど弱火くらいで丁度いいかも」

 あの頃にもらえたらどれ程ありがたかっただろうアドバイスを噛み締めるように聞きながら、恭介はかつてのほろ苦い日々に思考をやりながら静かに息をついた。

「……ところで」

 慣れた手つきで堆く積まれていく焼き加減の絶妙なホットケーキを眺めながら、思わず硬い声になってしまう。適当に投げて重ねているくせに何故か寸分のずれもなく、まるで一本の柱のように積み上がっていくその枚数は、いちいち数えるのが恐ろしくなるくらいには量があった。

「これ、何枚焼くんだ……?」

「何枚って……何枚だろ?」

 聞かれるまで枚数の制限を定めることを思いつきもしなかったような口調で、鳴海が同じ質問を誰にともなく繰り返す。恭介はその場で膝をつき、嘆きたい気持ちになった。一人の人間が所有している胃袋の数とその大きさには限りがある。いくら大食らいの気がある鳴海とて、並みより小食な自分とセットで考えてしまえば、プラマイゼロに少し足が出る程度だ。目の前に積まれた柱のひとつさえ、完食するのは難しいだろう。

「別に、余ったら冷凍保存してもいいし。何なら烏丸さんとたっくんも呼んじゃう?」

 絶望している恭介とは対照的に、鳴海にとっては大した問題になり得なかったらしいホットケーキ消費問題に関して、のんびりとした声でとりあえずの措置を提案する。たっくんというのはおそらく拓真のことだろうとあたりをつけながら、恭介はゆるゆると首を振った。一度しか会ったことのない依頼人に一足飛びに砕けたあだ名をつける鳴海の人懐っこいところは大変好ましい長所ではあったが、一度しか会ったことがない依頼人相手にホットケーキパーティーを開ける程の対人スキルは恭介にはなかったし、お祓いの仕事を生業とする上でなけなしのポリシーもあった。

「一度依頼を受けた人間とは、もう一度会うことはしないようにしてるんだ」

「そうなの? ……どうして?」

 心底不思議そうに、長い睫毛に縁取られた両目をパチパチとさせながら鳴海が問い掛ける。自分に関わりなど、なるべく持たない方がいいからだ。喉まで出かかった言葉を、どうにか抑えて恭介は目を伏せる。

 得難い友人を手に入れた今でさえ、土屋という血筋の柵は足元でずっと蠢いていた。

「うまく……言えない。ごめん」

「ふうん」

 柔らかい相槌に、泣きそうになった。きっと鳴海は、踏み込むべき場所とそうでない場所を見極めようとしている。話せない理由が「うまく言えない」だけではないことはきっとお見通しに違いないのに、ちゃんと説明しろだなんて問いただすような真似はしないのだから。

「それじゃあ、圭吾が帰って来たらみんなでしようよ、ホットケーキパーティー。烏丸さんも呼んでさ! きっと楽しいよ」

 約束を嘘にはしたくなくて、恭介は曖昧に笑った。こんなふうに次の予定をつなごうとしてくれる存在が自分にもできた。それ自体が恭介には奇跡に近い。適当な言葉で躱すのだけはどうしてもしたくなかったので、ただ力のない笑みを返すだけに留めておいた。

 以前のように薄暗い気持ちが、恭介のすべてを覆い尽くすようなことはなくなった。けれど今の自分には、少し先のことを約束できない事情があった。

 予定通り、圭吾を修学旅行に参加させることには成功した。あとはどうにかして、この人懐っこい少年の隙をつき、ばれないように準備しなければならない。


 ――猶予は、三日しかないのだから。

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