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「状況を説明しよう」
ホストあがりのような明るいストライプシャツの襟元をただして、唐突に烏丸が言った。部屋の隅で倒れている恭介に寄り添うように、鳴海がその肩を抱いている。傍らには、栓を抜かれた瓶が転がっていた。目算で数を確認し、一粒足りないことを改めて知る。保険だから気安く服用するなと口を酸っぱくして注意した筈の愛弟子が、その一粒を躊躇わず胃に落としたことは明白だった。僅かに顔をしかめたが、それで時計の針が戻るはずもない。値踏みするような視線はそのままに、烏丸は恭介の肢体に近づく。だらりと畳に投げ出された両腕は、マネキンのように無機質だった。
〝……状況説明の前に自己紹介をしろ烏丸〟
犬神に呆れたように言われて、漸く自分の立ち位置を自覚する。成程突如現れた胡散臭い詐欺師のような金髪男に、説明しようなどと言われても耳を傾ける気持ちにはならないかもしれない。
コホン。わざとらしく咳をひとつ。ギャラリーと呼ぶには些か人数の足りない面子を見渡して、烏丸は改めて挨拶の辞を述べた。
「ただいまご紹介に預かりました烏丸忠則です」
〝いや紹介はしてねェだろ〟
間髪入れずに犬神が突っ込んだ。
「ええと、恭介の師匠やらしてもらってます。和装じゃないから、意外かもしれないけれど」
「恭ちゃんの、先生……?」
服装のチャラさはご愛敬とばかりににこやかに笑って、烏丸は先を続ける。質問というよりは、言葉の意味を噛み締めるかのように鳴海が呟いた。師匠というからには、お祓い業のノウハウを知り得た人物だ。この場で事情を説明して、頼ったとしても問題のない唯一の大人ということ。理解した瞬間、恭介の肩に添えた鳴海の手から、ゆるりと力が抜けてゆくのがわかる。敵か味方か説明もないままでは、犬神の言う通り不親切だったのかもしれない。
「ご存知の通り……というかお察しの通り、割と今大変なことになってます」
かといって、不安げに瞳を揺らす少年を安心させてやれるだけの言葉は何ひとつなかった。柔らかい断言に、走る僅かな緊張感。犬神は目を伏せた。巻き込んでしまった鳴海も、死体のような恭介も、何を考えているのかまるでわからなくなった圭吾のことも、視界に入れたくない気持ちだった。
「いろいろ時間ないからさ、もう元凶と現状の解説始めちゃってもいいかな?」
お伺いの姿勢を取りながら、有無を言わせない流れで言葉を操った。教師が黒板にするかのように、コツコツと襖の柱を叩く。
「説明しよう」
改めて、烏丸が言った。反論する者は誰ひとりいなかった。
意識のなくなった依頼人を居間へ運び込み、気休めにと毛布を掛ける。明らかに一般人と思われる鳴海を一旦別室に避難させた後は、烏丸による状況説明が行われることになった。師匠の手によってお座なりに並べられた客用座布団の上に表情ひとつ変えないままの圭吾が着席し、人ふたり、もののけ一匹という、参加人数の割に広すぎる部屋での会合は、飯事のように滑稽でシュールだった。
均衡のまるでとれていない位置に置かれていた座布団の上に、主催者である烏丸も着席する。おもむろに口を開き、授業を控えた講師のように滑らかな声で率直に事実を語った。
「守護霊交代の儀式を始めてしまった以上、途中で止めることはできないんだよね。いちいち面倒だなと思うけど、恭介の手によって一度外された霊を、元に戻そうにも必要な手続きがいるんだ。新たに引き継ぎをする筈だった守護霊候補がああなったとしても……」
ちらりと、部屋の隅で丸くなっている、代理になるはずだった霊を見咎める。大きな体を縮めるようにしながら肩を揺らしたのは、依頼人以外に縁もゆかりもない商人の霊だった。上等な唐紅の着物を着崩しており、少し癖のある黒髪は、無造作な結い方でひとつにまとめている。ハーフアップのように横に流した前髪の陰から伺える双眸は、しっかりした青年の体躯に比べどこか幼い印象を抱かせた。
無責任に話を振ってきた烏丸に噛みつくように、釣り目気味の眦をさらに釣り上げて渦中の霊は怒鳴り返す。
〝しょうがねぇだろ! あんなご立派な霊が憑いてるなんて聞いてねェ……! 交代の儀ってのはなァ、本来なら対等なレベル、もしくはそれ以上の霊を相手に成立するモンなんだよ! 俺がお武家様の代わりに守護するなんてそもそも筋が通ってねェし、あそこで辞退しなきゃ前より状況が悪化して、後から困ンのは俺の子孫だからな!?〟
「……なったとしても、そのルールは揺るがないってこと。かといって、守護霊がいなくなった状態の依頼人を、そのままにしておくなんて無防備なことはできない。急遽代わりに守護をしてくれる存在が必要だったんだ」
〝……それを、自分にしたのか〟
犬神が、苦々しい表情で呟いた。
「勿論、霊体でなきゃ守護霊候補にすら入れないからね。恭介はひとまず自分から魂を抜き出して生き霊の状態になり、生きてるってことを隠すために、霊体そのものを九尾でコーティングしたんだよ。動物霊が人間の守護霊になることは理論上できないけど、媒体として恭介の生霊を噛ませたから、どうにか理屈が通ったんだろうね。九尾なら、格だけで言えばお武家様と比べてもお釣りがくるくらいの高さはあるし……我が弟子ながら、うまいこと考えたもんだよなァ」
床に転がる瓶を無感情な目で見やりながら、烏丸が乾いた声で皮肉を添えた。濃紺の球体は、彼の望むままに体と魂を引き離すには、成程都合のいいアイテムだったに違いない。
「無茶なことを……!」
苦々しく吐き捨てた圭吾の声が、意識のない恭介を責めた。いざという時に自分のことだけを慮らなくなる上司の決断は、いつだってその身を容易く危険に晒す。詰るその言葉尻を拾うように、力ないトーンで犬神が嘆いた。
〝そう……ほんとに無茶だ……こんな付け刃で守護霊のふりなんかしても、生きてることがばれるのは時間の問題だろ〟
耳と尻尾が、力なく垂れている。ただでさえ過保護気味だった犬神には、受け入れがたいくらいの現実だろう。何より他でもない自分こそが狼狽えてしまいそうで、烏丸は癖のようになっていたため息をひとつ飲み込んだ。
「恭介の体から、あんまり長いこと魂が抜けてる状態ってのも芳しくないからね。とにかく、ばれないうちに早く生き霊の恭介を外して……問題は、その後だ」
〝守護霊だった霊を呼び戻すんじゃだめなのか?〟
「それじゃあ元に戻っただけだろ? 改めて聞くが、依頼内容は何だったんだ?」
〝最近とみに危ない目に遭うから、もしかしたら守護霊が弱まってるかもしれないって話だった。本人たっての希望で、守護霊交代の儀を執り行うことになったんだ〟
「……依頼人の名前は?」
嫌な予感が胸を掠め、烏丸は低い声で先を促した。
〝水無月……えっと、なんだったかな……拓真……?〟
「よくない噂を聞いたことがある」
〝は?〟
「兄の方の、弟に対する執着がバケモノ並だって話さ。何でも、弟さんが兄の生き霊にとり憑かれてるとか憑かれてないとか……? 弟に近づくもの――守護霊さえ許せなくて、自ら死を選び、いつ守護霊に成り代わるかわかったもんじゃないってもっぱらの噂だったよ」
事実だとしたら空恐ろしい話を、烏丸は事もなげに言ってのけた。
「まあ真偽の程は定かじゃないけどね。聞くだに、水無月の家は名の知れた音楽一家だそうじゃないか。父は著名な指揮者で、母も容姿端麗な有名ピアニスト。半分は、成功者の集う金持ち一家への、やっかみみたいなもんさ」
「……益体もない噂話の方が、真実だったとしたら?」
水面に突如投げられた小石のように、圭吾の声がひとつの波紋を作る。
〝どういうことだよ圭吾。お前、まさか……〟
机に投げられた封筒が、犬神の頭を過る。何かに怒っていたって決してものにはあたらなかった彼にしては珍しく、封筒の中身が弾みで出てしまう程に乱暴に扱われた書類。まるで誘導されたかのように、自然と目がいったのを思い出す。中身は、新聞記事の切り抜きを集めたものだった。依頼の待ち合わせに遅れてきた理由をわざと口にしなかった時から既に、圭吾の策略が始まっていたのだとしたら――。
〝わざと見せたな!?〟
「犬神!?」
思わず前足で圭吾を突き飛ばした。そのまま食って掛かりそうな犬神を制すために、名を呼ぶ烏丸の声さえ煩わしかった。
新聞記事は、拓真の兄の死を、警察が自殺だと断言したというものだった。あれをわざわざ恭介に見せたあの行為が、何の意図もなかったとは最早思えなかった。
〝自殺の線が濃厚だと思わせて……! だからこそ視えないと答えたお前に、恭介は一瞬違和感を覚えた筈だ! お前は恭介に不信感を与えるためにそのすべてを仕組んで、あいつが圭吾を見限るよう仕向けた! いや、むしろ……〟
その先は、口にするのさえつらかった。それでも明確な裏切りを目の当たりにして、導き出される答えはひとつしかない。
〝お前が恭介を見限ったんだ! 違うか!?〟
「はいはーい! 犬神落ち着け、ストップ」
間延びした声が、やんわりと犬神を宥めた。本当に宥めようとしてるとは思えないやる気のない声が、それでも確かな強さをもって犬神の耳に届く。
「状況はよくわからないけど……有益な情報交換ならともかく、どうしてあの時ああしなかった的なことで揉めるのは止めよう。何度でも言うけど、時間がないんだ。恭介が死ぬぞ」
きっぱりと、烏丸が言い切った。
「犬神が言うようにこの少年が今後恭介を見限るつもりだったとしても、相応な能力があるならひとまず手を借りるしかないよ」
シビアな現状を思い起こさせるために、敢えて現実的な話を持ち出した。犬神が確かに矛をおさめるのを待って、烏丸は冷静な声で先を続ける。
「まとめると……依頼の内容とは異なるが、ひとまず守護霊を元に戻すのが先決だな。ただ、恭介の執り行った儀式で外された霊は、一旦霊道を通りあの世へとあがってしまうんだ。数多ある霊魂の中から目的のそれを見つけて引き留め、説得をするなんて器用な真似ができたらの話だけとね」
「烏丸さん」
圭吾の声が、いやにはっきりと響いた。励まされるというより訝る気持ちが強く、見定めるような視線で犬神は圭吾をなぞる。
「策があります」
「……策?」
「城脇! 入ってこい」
別室に追い出した筈の少年の陰が、屏風越しに小さく揺れるのが見えた。少しの間があった後、静かに戸が開かれる。新学期初日に宿題を忘れた小学生のような気まずさの伺える顔で、鳴海がゆうるりと頭を擡げた。
「拗ねてんのか」
「やなこと言う……」
長い睫毛を伏せて、鳴海が口の端を歪める。敷かれた簡易的な境界線をあっさりと飛び越えて待機すべき部屋から抜け出してきたであろうその少年は、躊躇うことなくその一歩を畳の上に踏み出した。二、三何かを探るような視線を走らせてから、もう片方の足を同じように畳の上へと滑らせる。
「拗ねてないよ……っていうか冷静に考えたら、あれは失言だったし」
「失言?」
「恭ちゃんは、多分俺を守ろうとしたんだよね」
自分さえいなければ、否、自分がいたとしてもどうにか切り抜けたであろう存外頭の回転が速い二つ上の先輩は、本来なら選べた筈のいくつかの方法を手に取る前に放棄し、あっさり毒薬を飲むことを選んだ。それが何を背に隠し、何の盾になろうとしてのことだったか、わからないほど鈍感ではないつもりだ。
「あの時事情を知った俺が、勢いで盟約を交わして……俺まで寿命が短くなっちゃったら、きっと恭ちゃんは今度こそ自分のことを許せなかった。だからあの場をどうにかする方法なんて多分他にいくらでもあったのに、九尾を俺から離すためだけにあんな無茶をしたんだ」
それは不自然すぎるほどに素早く、意図的に鳴海から切り離された危機だった。いつだって依頼の一つ一つと向き合い、丁寧に文献をなぞり、反射で動くことを良しとしない恭介がらしくなく力業で動くのは、守りたいものをその背に隠した時だけだった。
「俺たちは、価値のある血筋の家系ではないし。盟約を交わすには、九尾の仲介がなければ成り立たないんでしょ……圭吾」
覚えたての雑学を一息に捲し立てて、鳴海の盾となって床に倒れた二個上の先輩と同じく、もしくはそれ以上に頭の回転が早いだろう友人の名を呼ぶ。
「……何だ」
それは、何かを問いながら既に、責められるだろう事柄を承知しているかのような声だった。
「恭ちゃんに、ひどいことしたね。自分の命を、まるごと背負えだなんてさ」
何故かそう望まれているような気がして、鳴海は圭吾を責めた。柔らかな声に、辛辣さを少し織り交ぜて。
どこかホッとしたような顔つきで、圭吾は小さく息をつく。
「……方法を、選んでられるような状態じゃなかった」
「それって言い訳?」
立て続けに責め立ててみる。求められた叱責以上の冷たさを孕んでしまったのは、少し私情が混じってしまったかもしれない。
「圭吾一人分背負うので、きっとあの人はギリギリだよ。俺まで煽るようなこと言わないで……俺だって」
意図せず声が掠れて、鳴海は慌てて続きを飲み込んだ。押し込めようとした瞬間皮肉にも、その感情が胸のうちにあるのだと悟る。
「そうやって関わりたいって気持ち、抑えてない訳じゃないんだから」
言葉にして、残り香のようにまとわりつく未練を断ち切った。スイッチを切り替えたように、幾分かクリアになった頭で改めて自分の立ち位置を把握する。
必要なポジションは、わかりやすくそこにあった。
「さてと! もう隠す必要はないみたいだし、言っちゃってもいいよね」
新しい遊びを思い付いた子供のように朗らかに、鳴海は両手を一回叩いて周囲を見渡した。
〝え? ええ?〟
ついていけずに目を白黒させながら犬神が、何の話だと目線で圭吾に問い掛ける。
「圭吾、俺ね。ずっと、あのワンちゃんが視えてたよ」
〝……〟
「……」
「……」
〝……あっ、ワンちゃんって、お、俺か……?〟
呼ばれ慣れないファンシーな代名詞がまさか自分を指しているとは思いもよらなかった犬神が、自身を指差しながら声をあげた。
「だろうな」
「なぁんだ。やっぱり気づいてたんじゃん」
〝視えてたって……え!? どういうことだよ圭吾!?〟
状況を把握できていない犬神のためにと、解説役にはいくらか不向きなふわふわとした言葉が、幼子のようなあどけない声でのんびりと詳細を付け足す。
「だからー、そのまんまだよ。視えてたの。恭ちゃんはワンちゃんのこと隠しておきたいみたいだったから、今まで触れなかっただけで……圭吾は多分、自殺しちゃった霊しか視えてないよね。そして恭ちゃんは、ワンちゃんとか……動物じゃないと視えないのかな?」
それぞれの能力について寸分たがわぬ精巧さで言い当てられて、犬神は小さく息を飲んだ。
「……つまり、君は自殺した霊と動物霊の、どちらも視えてるということかな」
鳴海の言葉から伺える事実を確認のために口にした烏丸に、まるで雰囲気も見た目も綿菓子のような少年が、視線だけをちらりと向ける。
「多分だけど」
感情のない声で鳴海が、退屈そうにその事実を口にした。
「俺、この世にいる幽霊全部視えるよ」