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恭介・圭吾シリーズ  作者: 芹澤柚衣
アンアームド・エンジェルの失言
20/73

 和紙をも貫くような初夏の明るい日差しが、部屋全体を照らしている。直射日光を避けた場所に正座しながら、拓真は瞬きひとつせずただその時を静かに待っていた。

「しの、少し後ろに下がってろ」

 そう命を下し、恭介は神楽殿へと足を踏み入れた。開けっぱなしだった襖をひとつひとつ閉じながら、部屋の中を確認する。勿論依頼者以外は招き入れていないが、この場合呼ばれていないものの存在を認識するための行為だった。

 当然、動物霊しか視ることのできない恭介には、犬神以外の霊は確認出来ない。

「何か視えるか?」

「いえ、特には」

「……そうか」

 部下との簡単な応答の後、恭介は白装束の袖からひとつの経文を取り出した。広げる前に小さく、ひとり言のようにその名前を口にする。

「犬神、始めるぞ」

 それを合図にしているかのようなタイミングで、犬神の姿が空気に溶けた。いなくなったのではない。存在をバリアに変えたのだ。

 部屋全体を包み込むように、その濃度を薄めて膜を張る。簡易的な結界だが、依頼主と主人とそのバイトを守れるくらいには強固なのを知っている。

 古びた表紙に指を滑らせて、経文を開く。蛇腹折りに畳まれたそれを広げ過ぎないよう注意を払いながら、書かれた言葉を読みあげた。一瞬走った緊張に僅かな違和感を覚えたが、片目を細めて先を続ける。きしきしと、古びた家屋が鳴っていた。

 文字をひたすら辿りながら、恭介は静かに焦っていた。家鳴りの規模が徐々に大きくなる。こんな筈では、という思いが頭を擡げ始めていたが、始めてしまったこの読経は、守護霊の契約破棄に関わる儀式のひとつだった。録り溜めたドラマの鑑賞でもあるまいし、途中で一時停止する訳にはいかない。

 綺麗な姿勢を保っていた拓真の体が、ぐらりと揺れた。そこには、無能の守護霊が鎮座ましましている筈だった。最後まで経を読みあげた恭介を見守りながら、犬神は目を疑う。まさか。どうして。

 浮かんだ疑問詞はどれも言葉にならなかった。経を閉じ、昏倒した拓真に駆け寄る恭介の後ろに姿を現したのは――。

〝こんなご立派な武家の霊がついてて、どうして()()が必要になるんだ……?〟

 本来なら溢れんばかりの霊力で、依頼者を守ることは容易かった筈だ。しかし、無数の鍵盤のように細かな棒が張り巡らされ、その霊力のひとつひとつを閉じ込めている。正体はわからない。けれど、予想できないことではなかった。

〝ああ……この時を待っていたよ〟

 響いた声が、背中を這うように恭介の耳に届いた。

「しの」

 拓真の肩を抱きながら一歩下がり、恭介は後ろで待機している後輩に声を掛けた。その可能性は、あった。だからこそ危険を承知で、相応しい能力を持っている筈の後輩に同席を願ったのだ。

「お前、()()()って言ったよな?」

 ぐらりと畳が揺れる。光が注がれていた筈の部屋は薄暗く、いつの間にか空気が濁っていた。恭介は手を翳し、依頼人の盾になるよう前へ出る。結界を解いた犬神が、恭介の近くで待機した。

 その、全てがほんの僅か遅かった。

〝待っていたんだよ……俺の可愛い拓真〟

「兄さん……」

 恍惚と、拓真が目を細めた。伸ばされる腕の先が、縋るべきお祓い屋ではなく悪霊の方だという異常さに本人が気付いていない。

〝どういうことだよ!?〟

 犬神が、声を荒げて恭介に詰め寄った。恭介こそが信頼していた圭吾にそれをしたかったが、歯を食いしばり、ぐっと堪える。なるべく動揺を悟られないよう、平坦な声を努めて事情を説明した。

「おそらく、守護霊は正常だったんだ」

〝な……〟

 んだって、と犬神が吠える前に、恭介がその先を口にした。

「最初から、ちゃんと水無月を守ってた。それを悪霊が抑えてたから、力が半減してたんだよ。守護霊が弱体化したと思わせて守護霊交代の儀式へと誘導させ、いざ剥がされた瞬間を狙って、自分が守護霊に成り変わるつもりだったんだ」

〝一体どこの霊が、そんな手の込んだ取り憑き方すんだよ!?〟

「一人しかいないだろ」

 靄の掛かった黒い影が、ゆるゆると人の形を作り出す。どこか夢見心地のような表情でその様を見守る拓真が、ついさっき正解を口にしたばかりだ。

「守護霊になって弟を守るために自ら命を落とした、兄の霊だよ」

()()()()()()()()……?〟

 復唱しながら合点のいかない顔で、犬神がちらりと後ろを振り返る。ならば、どうして。浮かんだ疑問は、おそらく直前に恭介が抱え飲み込んだもの。動物霊しか視界に捉えられない恭介に視えないのは当然としても、確実に視認できる人間がいた筈だ。圭吾の警戒網をすり抜けて、存在など出来よう筈もなかった。

 考えられる原因は、二つ。白虎との盟約直後に能力の変化が表れ、徐々に動物霊以外認識できなくなっていたか、或いは――。

「九尾を呼ぶしか、なさそうですね」

 ぼそりと一人言のように、圭吾が呟いた。言い分は、概ね正しかった。守護霊交代の儀式を継続しながら、悪霊を倒すのは難しい。拓真の護衛を犬神に任せ、九尾を呼び出し、悪霊退治を先に済ますのがベターだろう。

 けれど何か、嫌な予感がしていた。まるで圭吾に促されるかのように、九尾を呼び出すことへの胸騒ぎがあった。

 そうは言っても、ことは緊急を要する事態だった。最早予感がするなどと言って、躊躇っている時間はない。親指を食む。犬歯で皮膚を食いちぎるように傷付けた。すぐに、味気ない血が口に広がる。

 唾と共に血の一部を吐き捨てて、親指を翳しながら恭介はその名を口にした。

「――九尾」

 畳が撓む。船の上に立っているような不安定さで、恭介の体は大きく揺れた。甘い香りに包まれたたくさんの白狐が、真っ白な光に包まれながら一つの塊になる。空気に重みが増した。息苦しいほどの重圧感に飲まれながら、動物霊の総帥が姿を現すのを静かに待つ。九つに分かれた尻尾を後ろに流しながら、現れたのは大きな狐――心臓を差し出す盟約を交わした、唯一無二の動物霊。

「恭ちゃん、ここにいるの?」

 ぎくりと背中に、嫌な汗が伝う。鈴を鳴らした時に似た明るい声。少女のように笑う癖に、媚びるようなわざとらしさはない。きんぴらを迷いなくご飯の上でひっくり返す豪快さはあるのに、傷ついた恭介を慰め、困ったように笑う男。

「な……る、み?」

「あ、やっぱりいた! ねえねえ、今日はお祓いのお仕事、見学してもいいって本当!?」

 その瞬間、一気に恭介の頭の中で、パズルのピースが嵌った。遅れてきた圭吾。乱雑に放られた書類から、伺い見えた記事。携帯のメッセージを気にする圭吾に急ぎかと問い掛けた瞬間の、口元だけの笑み。答えたその一言。


――準備、できました。


 それらは全て、圭吾の裏切りを示すものだった。


「丁度良いタイミングで来たな、城脇。今ちょうど、土屋先輩が九尾を使って悪霊を退治するところだよ」

 まるで見世物か何かのように気軽に答えて、圭吾は他人みたいな声で笑った。

「え、すごい。恭ちゃんって、九尾を使い魔にしてるの?」

「使い魔というと、ちょっとニュアンスが違うかな……先輩は、盟約を交わしてるんだよ」

「盟約?」

 心臓が焼ける思いだった。まるで世間話か何かのように、圭吾は淡々と説明をしている。あの日、寿命の決まったまま死へと急ぐ自分をその命をもって引き止め、生きているという奇跡をないがしろにするなと怒ったその口で、いとも簡単にその覚悟を話す。

 まるで、それら全てに、何の重みもないみたいに。

「九尾を好きに動かす代わりに、土屋先輩は契約をしてるんだよ。丁度二十歳を迎える誕生日に、先輩の心臓をあげなきゃならないんだ」

「心、臓……?」

 鳴海の顔が強張る。まるでお伽噺を口にしているかのような穏やかさで、圭吾は単語を繰り返した。

「そう、心臓」

〝圭吾! 何考えてんだてめェ!〟

 犬神が苛立ちを隠さずに怒鳴った。くすくすと笑いながら圭吾は、ただ鳴海だけを見つめて楽し気に事実を告げる。

「そんな先輩を助けたくって、僕も動物霊と一匹だけ契約したんだ。自分の命が掛かってるってだけじゃ、あの人盟約解除の方法さえ探そうともしてなかったんだよ。信じられるか? 試しに僕の命も同じようにしてみせたら、漸く焦ってくれたけど」

「同じように……って……?」

 恐る恐る問い掛ける鳴海に、まるで動揺の見られない平坦な声で圭吾は答えた。

「僕の心臓も、二十歳になったら、盟約を交わした虎霊に捧げることになってるんだよ」

 柔らかいテノールが、残酷なグリム童話のようなことを言う。そんな印象を抱きながら鳴海は、小さく震える唇を噛んだ。

 様子がおかしい。まるで、いつもの圭吾じゃないみたいだった。

「一般人でも、九尾の仲介があるなら盟約は可能なんだ。知らなかっただろ? 僕もその時初めて知ったんだけど。一匹ぐらい契約をしておけば、今後お祓いの役にも立ちそうだし、即戦力になるからね……でも今予定と違うことがあって、ちょっと困ってたとこだよ」

「予定と、違う……?」

 圭吾は、神楽殿の奥へ目を遣った。そこにははっきりと、男性の姿が浮かび上がっていた。依頼者の首に巻きつくように伸ばされた腕は、徐々に紫色へと変わっている。守護霊が外されて無防備になった彼への浸食は、今すぐ止めなければならない程危険領域にまで達していた。

「このままじゃ、先輩の手に余るかもしれないな……」

 しかつめらしい顔で圭吾が嘯いた。濁った空気は、徐々に重みを増している。情報過多だった頭を緩く振りながら、鳴海は一人言のように呟いた。

「あ……じゃあ俺も」

 まるで今気がついたかのような白々しさで、圭吾は鳴海の顔を覗き見た。促されるまま開く唇が、最早誰の意志で動いているのかわからない。

「俺も、盟約を、交……」

「九尾ィッ!!」

 恭介が吠えた。袖の下に隠していた小瓶の栓を引き、一気に煽る。一粒だけを舌の上に転がせて、残りは畳に放り投げた。奥歯でしっかり噛みつぶしながら、唾液と一緒に咀嚼する。飲み込んですぐに口を開き、マスターは九尾に命を下した。

「俺に取り憑け!!」

 言い終わる前に、恭介の体が畳へ倒れた。無理矢理剥がされた恭介自身の霊体を、覆うように九尾が溶ける。眩い光が放たれて数秒後、神楽殿は一瞬静寂に包まれた。

「恭ちゃん!? どうしたの!? しっかりしてよ恭ちゃんっ……!」

〝き、貴様……!〟

 悲痛な声で恭介に駆け寄る鳴海の傍で、行き場を失った和真の霊が怒号をあげた。靄がかった灰色の空気が、天井に渦を作り部屋全体を揺らしている。矛先をこちらに変えた悪霊の苛立ちを目の前にしても、犬神の思考はピタリと止まっていた。

 主を失った今、犬神は自分の意志で動かなければならなかった。恭介が体を張って依頼主を守っている以上圭吾を、鳴海を、そして脱け殻となった恭介の体を守ることができるのは自分しかいない。わかっていても、爪先をほんの少し動かすことさえ叶わなかった。

 目的を果たすために今、どうしたら良いのかがわからない。司令塔を失った犬神は、灯台を見失った水夫のように深い絶望へと呑まれていた。

「犬神! 鬼道を作れ!」

 部屋に響いた一言が、犬神の意識を大きく揺らす。盟約主以外で自分の姿を認知し、呼び捨てる人物に心当たりなんか一人しかいない。

 犬神は二、三度体を揺らしてから、体を気体へと変化させた。縄状の霊気をイメージしながらその姿を作り変え、和真の両腕を壁へ押し付ける。手首に手錠のように巻き付いて、残る霊気で足首を縛り上げた。

〝今だ、烏丸……!〟

 絞り上げた声が、柱をしならせる。寸刻とあけず烏丸の投げた札が、和真の額に的中した。指示された通りに鬼道を作らずとも自身のコントロールと抜群な力加減で狙いを定めた札をぴたりと貼り付けた彼は、その腕を天井に翳して仕上げに取り掛かった。人差し指と中指で縦に五、横に四。升目を描くように切るだけで、拘束された霊がどれ程押さえつけられるのか、過去にその様を見たことのある犬神だけは知っていた。

 おとなしくなった和真を一瞬ゾッとするような視線でねめつけた後、烏丸本人にしか聞き取れないような声で、最後の呪詛を唱える。

 それきり、霊はピクリとも動かなくなった。

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