幸田露伴「さんなきぐるま」現代語勝手訳(6)
其 六
坂本屋の主人、喜蔵というのは、歳の頃四十を五つ六つ超えた、がっしりとした体格の大痘痕の醜い男で、打ち殺しても死なないような恰幅。真っ黒な顔に錐を列べたような太い毛の眉つきも恐ろしく、獅子鼻、への字口、どこをどう見ても褒めどころの無い風采ではあるけれど、その代わり、心意気は烈しく、物言いは明晰とし、かりそめにも懐手をして遊ぶなどということも無く、商売にかけては押しつ戻しつ、競り合う場面に臨んでは満身に慾が充ちて、針一本刺し込む隙も無いくらいの有り様。と言って、道理も人情も構わず、自己のためばかりという訳でもなく、女房には大層優しく、子にも甘く、店の者にも人情厚いので、町内での評判も更に悪くない、と言うか、好いも好いも、この上なく好くて、喜蔵のことを知った人は若い者の手本だと、その一代記を町の古顔から語り伝え継ぐ程である。好いとなれば人は付加までして褒めるものなので、少しは割り引いた方が好いかも知れないが、それでも一応、聞く価値はある。
今の坂本屋から二町ほど離れた所に、二十年程前は、やはり同じ屋号の坂本屋と言って、同じ雑穀乾物を商う老舗があった。喜蔵はそこの奉公人で、生まれは房州の濱波太。波打際の砂に腹ばい、磯の藻塩木(*海藻から塩を取るため、煮詰めるための薪)やら吹き寄せ貝を玩具にして育ったが、それ相応の家でも冷飯食いと言われる二、三男に生まれて、両親の世話も届かず、少しの伝手を頼って、幸いに坂本屋の丁稚となったのが、そもそも江戸へ出て他人の中に出た発端。そらから段々と勤め上げれば、主人に大層気に入られ、これなら家を譲っても惜しくない、自分が亡くなっても我が家は大丈夫だと日頃から思われてか、男の子が居なくて、ただ一人の秘蔵子、おこのという娘が居たが、喜蔵と配せよと、親類一同に遺言して老衰のため主人は亡くなった。
一旦坂本屋は喜蔵のものと決まったが、忌中のため、祝言は一周忌の済むまでお預けとなったのはやむを得ないことであった。娘のおこのというのは容貌美しく、諸芸にも通じてはいたが、心は褒められたものではなく、早くから喜蔵の次席で、手代の榮吉という生白けた男と、父の病中から乳繰り合っていて、お染久松の芝居事(*浄瑠璃・歌舞伎で豪商油屋の娘お染とその奉公人久松の心中を描いたもの)そのままに、いい気になって戯れていた。それを知っていても諫めることもしない母は娘を犬可愛がりし、喜蔵のような醜男に娘を一生添わすことは可哀想だと、産みの親だけに、娘贔屓の得手勝手。夫の遺言が明瞭なのも顧みず、親類の誰某からの話だということにして、喜蔵に幾らかの手切れ金を遣って追い出そうと話を持ち出した。これにはいくら善人であっても承服できないところで、『いや、是が非でもおこのをもらう』と言うか、『坂本屋の身代を二つに分けてもらおう』と言うか、というところだが、涙ばかりを溢して小さくなっている喜蔵が何と言うかと思えば、不承知の不の字も言わず、金のかの字も言わず、ただ、
「亡くなられた旦那様のご恩は、たとえ私がこのお店を離れることになりましても中々忘れられることはできません。せめてこれから私がどんな商売をいたしましても、当家のお暖簾を分けていただいた心で『新坂本屋』となり、又、お許し下さいますならば、『坂本屋』とそのまま名乗って商売をいたしたく存じます。ご不縁なのはどうしようもないことでございます。親里を考えてみれば、元から釣り合わないことでございますので、当然のことと思われ、いささかの不思議もございません。ただ、別段落ち度があってという廉ではなく、お店を出ますというそれだけの御證に、御屋号を頂戴することが出来ましたら、これ程有り難いことはございません」と、柔和しく言って出たのだった。理非善悪にも疎い人達、屋号さえ遣れば済むとのことに、何の否を言うことも無く、
「それならば好し、おこのについて、この後少しも異存は無いな。屋号のことはどうなりとそなたの勝手にするが好い」と、親類一同、何の気もつかず、列座の中できっぱりと返答してしまったが、その中で坂本屋の遠縁に当たる美濃屋の隠居で作阿という僧侶姿の老人ただ一人、座の人々に向かって、
「作阿一人はこの座に居て、このことについては可否ともにただ一言も言わなんだということだけは、皆様、覚えておいてくだされ」と、何だか底意のあり気なことを言ったけれども、誰一人耳を傾けて取り合う者もいなかった。
つづく




