幸田露伴「さんなきぐるま」現代語勝手訳(4)
其 四
新三が初めて永代橋近くに着いた時の驚き様は、又もや比えることも出来ないほどだった。平坦な道路、果てなく立ち続く人家、威勢のいい人力車の掛け声、美しい着物を着た男女の往来、どれもこれも見るもの聞くものすべてに驚かされ、ただうろうろと気を呑まれていた。
「新三、ぼんやりとすな。我とはぐれたらどうする」と、清兵衛に言われて我に返るまでボーッとしていたが、清兵衛の定宿である上総屋という所に入って、ようやく上気した気分も落ち着いた。
「アア、幸い昨夜の船は揺れもしなかったのでよく寝られたから、そんなに疲れも感じないわ。どれどれ、用事を済ませにかかろう。夕方には間違いなく戻って来るので、それまでお前は一人で待っておれ。退屈ならよくよく路を聞いて近所を見物でもしてくればいい。ただし、ここを忘れるなよ。迷ったなら、霊岸島上総屋と巡査様なり、他人様になり尋ねて帰って来るがいい」と言い残し、清兵衛は朝食を済ますと直ぐに出て行ってしまった。
取り残されて一人になった新三郎、心淋しく退屈でしようがなく、寝たり起きたりして帰りを待っていたが、小櫃川の景色、お小夜の家の門の柳、子犬、昨日見た高蔵の観音堂、お静の優しさ、髪の白い木工助老夫、頬の紅い下女、憎らしいお力、これらの者が代わる代わる頭に巡り、あどけない心は奪われていた。
その翌日も、清兵衛は昨日と同様、朝早くから出て行ってしまった。余りに退屈なので、それなら築地の御堂から明石町あたりの居留地を見て廻れば丁度いい退屈凌ぎになるだろうと宿の男に教えてもらった。行きは首尾よく行けて、本願寺も居留地も見て、その壮大なこと、清潔なことに驚いて帰ったが、帰りは路を間違って、行けども行けども方角違いか、霊岸島には帰り着けない。まごまごしているところを疾風のように駈け来る車夫に背後から一喝されて冷や汗を流したが、恐る恐る巡査に路を何度か尋ねて、辛うじて暮れ方宿に戻れば、清兵衛は既に帰っていた。清兵衛は築地へ行ったこと、路を見失ったことなどを聞いて、打ち笑い、
「よしよし、それでも帰って来たのは感心じゃ。明日はお前を連れて、浅草の観音様も拝ましてやろう。高倉の観音などとは訳が違うぞ、吃驚するなよ。楽しみにしていな」と笑って、その夜は終わった。
つづく