幸田露伴「さんなきぐるま」現代語勝手訳(3)
其 三
木更津に着いた時はまだ日も高かったが、雨雲が天を蔽って、今にも降り出しそうな景色に、何となく市中も夕暮れじみて、それぞれの用事を早く終えてしまおうと、急ぎ歩く人の足も忙しげである。降らない間にと、船着き場へ送り込む荷物、又、船着き場から揚げられてくる荷物の車の往来も激しい。
船着き場の直ぐ傍らにある勝浦屋の店頭に、今しがた連れられて来て腰を掛けていた新三郎は、寂しい村から初めてこんな所へ出て来たので、物珍しさから眼も放さず、戸外ばかりじっと眺め、人を呼ぶ声、馬を叱る声、車の響き、下駄の響きに耳を騒がせられて茫然としていたが、
「そこに居ては店の者の邪魔になる。こっちに入って遊んでいな。良人は今、船が出る前で何やかやと忙しいので、ここには居たり居なかったりしているし、あっちこっちに用もあるので、少しの間はバタバタしているから、お前には構っていられない。心配ない、知らない人だといって遠慮することはない。サア、こっちに来て、と言うに、エエ、何をうろうろしている。ソレ、そこを退きやれ。人様がお出でになっても、そこにぽんとお前に居られてはお掛けなさることもできないわ。サア、早速としな。こっちに来て居なというのに、頓馬な子だねぇ。オオ、これは千葉屋の旦那様、何かご用でございますか。霊岸島の上州屋様へこの御状とこのお送り物、ハイ、畏まりました。そう申しておきましょう。イエ、お礼を仰るまでもございません。上州屋様へはどうせ良人も参るその次手でもございますし、お互い様でございます。ア、お帰りでございますか。お茶も差し上げませんで。確かにお預かり申しました。失礼いたします」と言うところへ、入れ違いに五十余りの難しい顔の老夫が入ってくれば、
「これは作左衛門様、ようおいでなさいました。まあこちらへお上がりなさいませ。ハイ、そう仰るのはごもっともで、ハイ、ハイ、……でございますので、良人もただ今一応お断り申しに上がると言っておりました。ご心配なされませんよう。お約束通り二十九日には帰って参るはずで、綺麗に片をつけさせていただきます。ホホ、御念の入ったこと。まだ帰りません帰りませんだけで追い払う? ホホ、そんな手の悪いことはいたしません。どうしたしまして。あなた様をないがしろにしては大事でございます。ハイ、ハイ、東京へ参りますと早く申し上げておかなかったのがこちらの手抜かりでございました。きっと、必ず、間違いなしに、よろしゅうございます。帰り次第に。お分かりいただけましたか。ハイ、イエ、御念の入ったことで。もうお帰りになられますか、ご苦労様でございました」と、仔細は何か新三には分からないけれど、言葉巧みに言いくるめて帰してしまう清兵衛の女房の口のまめまめしさ。新三は一人呆気に取られて、まじまじと座り込んでいたが、その前をずっと通って、主人の清兵衛、
「お松、ちょっと東金屋から印南屋へ行って来る。新三、待ってな、好いと言う時分に俺が連れて行くからの」と言い置いて、忙しげに出て行った。
放心したようにポカンとして、口も開かずに坐っている新三を気遣って、
「お前は何か考え込んでいるのか。家にでも帰りたくなったか。ムム、頭を振るのはそうでもないのか。ちょっと聞いたが、お前の家には悪い母さんがいて、お前も随分悲しい目に遭っていたとのこと。東京へ出て辛抱して立派な人になるがいい。ナニ、奉公も恐がるほど辛いものでもない。正直によく働きさえすればそれでいいのさ。うかうかしてはいけないよ。東京の商人の店はどこも、こんな私等の店のように手ぬるいことはない。十倍も百倍もする事が多くて、繁昌して忙しいから、よほど気をつけてしっかりとしていないと勤まらないからね」と、女房が親切に言い聞かしてくれるが、今この店の忙しさを見たばかりで驚いている新三は、これよりも十倍、百倍する事が多くて忙しいと聞いて、ますます恐れを抱き、こんな忙しい中にこれから入って、自分は果たしてやっていけるのだろうか、ちゃんと勤まるだろうか、叱られるのだろうか、優しい人もその店に一人や二人は居てくれるのだろうかと、小さな胸を痛めていた。
その夜、すべての用事を済ませて、
「さあ、好い時刻だ、船に乗ろう」と、主人が身支度をして出るのに伴われ、勝浦屋の女房、店の若者二、三人に送られたが、桟橋から端舟、端舟から本船に乗り込む時、何となく足の中心も縮むように、胸の正中も冷えるような感じがして、何かしらじんわりと悲しくなった。
つづく