心のスペース
足音配りがやって来た夜、僕は自分の心に関する疑問をぶつけることにした。自分の心なのに、不思議な猫人間にお伺いを立てるなんて可笑しな話だ。
「君には、僕の心がどれくらいの割合で足音売りのためにスペースを残しているのか分かるのかい?」
足音配りはギロリと僕を睨んでから言った。
「アキラ、言っておくけど自分の思い出を作ろうなんて考えは止めた方がいいダネ。今まで足音を売った彼らの思い出で、上手く満たされない心のスペースと折り合いを付けてきたダネ。これからだって、他人の思い出を見ている方が楽に違いないダネ」
足音配りの言うことは正しかった。僕はこれまでそうやって、刺激のない自分の人生にスパイスをかけてきたのだ。今更他人を羨んで自分の思い出が欲しいなんて、虫が良すぎる話だ。
それに、他人の思い出を見ていた方が楽なこともよく分かっていた。これまで足音を売ってきた相手を見ていれば一目瞭然だ。自分のために自分の心のスペースを使うということは、それだけ心は乱され、傷つくことも失うことも増えるのだから。
「そんなつもりで言ったんじゃないよ。ただ気まぐれに疑問に思っただけだから、忘れて」
足音配りの静かな迫力に負けて、僕は怖気づいてしまった。
それにしても、ひとつだけ解せないことがある。
「どうして君が、僕に拘るのかが分からないよ。僕が辞めても、新しく足音売りをする人間を探せば済む話だろう」
その言葉で、足音売りは珍しく語気を荒げた。
「アキラは、適任者を探すのがどんなに大変なことか分かってないダネ! それに、また一から説明したり教えたりするこっちの身にもなってほしいダネ!」
これについても、まったく足音配りの言う通りだった。僕だって最初から足音売りが上手くいったなんてことはないし、そもそも足音配りの存在を受け入れ、話を信じる人間自体が珍しいのかもしれない。
「何も考えないで無責任なことを言って、ごめん」
僕の謝罪の言葉が届いていない様子の足音配りは、寂しそうに、そして消えてしまいそうな声で言った。
「それに本当は、オイラはずっとアキラと足音を売っていきたいダネ」
急にしおらしくなった足音配りに驚いて、口を開けたまま固まってしまった。言うべき言葉を見つけられない僕を見て、足音配りはいつもの調子を取り戻し、いたずらっぽく言葉を付け加えた。
「アキラは足音を売るのが上手ダネ。アキラが足音売りをやっているうちは、オイラは空腹の心配をしなくていいダネ」
僕らは小突きあいながら笑い合ったけれど、心の中は複雑だった。
足音配りは奇妙な格好をした不思議な奴だったけれど、僕はこの普通では出会うことのない猫人間に愛着が湧いていたし、感謝もしていた。彼に出会ってからの僕は、仕事を見つけ、多くの人と出会い、瑞穂さんに恋をすることができた。そのどれもが、足音配りのおかげであることは間違いない。
口を衝いて出る言葉の七割は捻くれた言葉しか言えないような奴だけれど、僕にとっては彼もまた大切な存在なのだ。足音配りが僕を必要としてくれるのなら、その気持ちに応えたいという思いも確かにあった。
けれど感情はそう簡単に制御できない。足音配りが最初に言っていた「やりたいことがたくさんある人間は足音売りには向かない」という言葉が頭の中で反芻していた。「やりたいこと」の程度がどれほどのことを指すのかは分からないけれど、僕には今、小さな「やりたいこと」がたくさん出てくるのだ。
瑞穂さんに会いたい。渉にメールを送りたい。柏木さんとコーヒーを飲みながら他愛もないことを話したい。会社の同僚と飲みに行きたい。映画を見たい。新作のゲームをしたい。西野陽平の個展に行きたい。
夢や目標なんていう大きなことではないけれど、日常に小さな楽しみがたくさん転がっていた。もしかしたらそんな小さな楽しさや幸せは、ずっと僕の目の前にあったのかもしれない。楽しいことを探していた、あの退屈な日々にもきっと。僕はそれらに気付こうとしていなかっただけなのだろう。
「なにも楽しみにしていることの全部をやめろ、なんて言ってないダネ」
自分の思考に夢中になっていた僕は、突然その中に入って来た足音配りの言葉で我に返った。やはりこいつは人の心が読めるに違いない。
「楽しんで、その場で終わるようなことなら構わないダネ。ずっと心を占めるようなことに出会ってしまうと、足音を売るのが難しくなるダネ。ただでさえ今のアキラは、渡辺瑞穂のことで空っぽだった心の部屋をひとつ埋めてしまっているダネ」
上司に怒られているような気分になった。
「楽しみにしている予定をキャンセルしなくて済むことが分かって良かったよ」
瑞穂さんのことには触れずに、僕はそう言い返した。




