足りないもの
「長谷川さん、久しぶりに飲みに行きませんか?」
清水からそう誘われたのは、あのギャラリーの前で見かけてから一週間後のことだった。
渉と別れてからの清水は、僕の予想とは正反対に明るく過ごしていた。最初は空元気なのかと思っていたけれど、どうやらそうではないようだ。渉がスウェーデンに旅立つ前の不安定な清水は、どこにもいなかった。
落ち着いたバーにでも行こうかと思ったけれど、清水はそれをやんわりと拒んだ。「長谷川さんが渉と最後に飲んだところに行きたい」という清水の希望で、僕は渉とよく飲んでいた騒がしい居酒屋へ清水を案内した。
暖簾をくぐって店の中へ入ると、一瞬びくっとしてしまいそうな大きな声で、男性従業員が「いらっしゃいませ」と声をかけてきた。二人であることを告げると、カウンター席であれば待たずに座れると伝えられた。清水も僕も異論はなかった。
ビールが苦手な僕らはカルピスサワーで静かに乾杯をした。ジョッキの半分を飲み終わるまで、二人とも無言でゆっくりとジョッキを傾け、おつまみの料理を口に運んだ。そして清水は、落ち着いた様子で渉の話題を出した。
「長谷川さんは、渉と連絡を取っているんですか?」
「たまにメールをするよ。本当にたまにだし、短いメールだけどね」
「渉がスウェーデンに行く前は、荒れてしまって本当にすみませんでした。そんな私にずっと付き合ってくれて、本当に感謝しています」
清水は恥ずかしそうに、そしてそれを誤魔化すように、ジョッキを触りながら言った。
清水はお礼を言ってくれるけれど、僕は二人に何もしてあげられなかった。二人の話を聞いて、当たり障りのないことを言うことしかできなかったのだ。二人は、二人で決めた道をそれぞれ進んでいる。
「そういえば先週、渉が好きな西野陽平っていう写真家の個展を見に行っていなかった?」
渉に関連する話題に触れてもいいのか迷っていたけれど、今日の清水の様子を見て聞くことに決めた。
「何で知っているんですか?」
驚いて尋ねる清水に、自分も見に行こうと思いギャラリーに行ったこと、そこで清水を見かけたこと、タッチの差で入館できなかったことを説明した。「見られていたんですね」と、また恥ずかしそうな清水は、やはりあの時僕の存在には気付いていなかった。
「無神経なことを聞くかもしれないけど、どうして見に行こうと思ったのか気になっていたんだ。渉とは全然連絡を取っていないんだろう? 別れたことを思い出して、つらくなるんじゃないかと思って」
「長谷川さん、渉から私たちが別れた時のこと聞きました?」
僕の質問に、清水は質問を返してきた。
「清水から別れ話をした、というのは聞いたよ。渉は最初納得できなかったみたいで落ち込んでいたんだけど、清水は渉のことを大切に思っているはずだ、清水の話を聞いていて僕はそう思っている。そう話したら急に納得したみたいだった」
「そう。それなら、渉も私の気持ちを汲んでくれたのかな。良かった」
清水は涙ぐんでいた。悲しい涙なのか、嬉しい涙なのか、僕には判断がつかなかった。
「僕には分からないよ。清水が渉のことをずっと特別に思っていたのを側で見てきたし、渉だって清水をとても大切にしていたんだ。それなのに、どうして二人が納得して別れを選んだのか。空港まで見送りに行った日の渉も、この前ギャラリーの前で見かけた清水と同じ、晴れ晴れとした決意を込めた表情だった。投げやりさなんて微塵もなくて、すごく前向きだって思ったよ」
僕はこれまで納得ができていなかったことを、直球で清水へとぶつけた。
「私も自分がこんな選択をするとは思いませんでした。本当は、どうしたら渉と離れなくて済むのか、ずっと考えていたんです。それまでの二人の思い出とか渉の性格とか渉の言葉とか、そういうのをたくさん思い出しているうちに、渉がどうしてスウェーデンに行こうと思ったのか理解できてきて。それでも、やっぱりまだ納得はできませんでした。頭では分かっていても、気持ちがついていかない状態ですね。だからそれからも、渉を引き留める方法を色々と考えていたんですよ。長谷川さんは知っていると思うけど、その方法が見つからないうちは渉からの電話にも怖くて出られなかった」
話し続ける清水は、ちっとも悲しそうな表情ではなかった。
「考えて考えて、私も一緒にスウェーデンに行ってしまおうかとも思いました。もし二人で日本を離れたらどうなるんだろう、って想像もしました。向こうでの生活を思い描いていたら、私はどうしても渉の足手まといになっていました。だって、私には何もないじゃないですか。向こうに行ってやりたいことも、見たいものも、知りたいことも、何もないんです。ただ渉と一緒にいたいだけ。でも渉には確かな目的があって、あの人のことだから全力でそこに向かっていきますよね。私が立ち止まっている間に、渉はどんどん進んでしまう。そんなの、私が望んでいることじゃなかった。私は渉に側にいて欲しかったけど、それは私が支えてもらうだけじゃなくて、もしも渉がつまずいた時には手を差し伸べたいから。それが私の本心なんだって気付いたんです。今の寄りかかってばかりの私では、渉と同じ場所には立てない。だから、いつか必ず渉に追い付きたい。そして追い付いた時には、渉がどこにいても会いに行く。そう決めたんです」
清水からは、覚悟と決意が感じられた。
なんてことだろう。僕の考えがいかにちっぽけで、いかに目先のことしか考えていなかったのか、よく分かってしまったじゃないか。
「渉も空港で、必ず強くなるって言っていた。清水と渉は、今も繋がっているんだね」
「格好良いこと言っちゃいましたけど、その時には渉が心変わりしているかもしれないし、私だって途中でもういいや、ってなってしまうかもしれないんですけどね」
清水は笑いながらそう言ったけれど、僕は二人が今も同じ方向を向いていることに胸を打たれていた。
「知っているだろうけど、渉は諦めの悪いやつだからね。そう簡単に心変わりなんてしないと、僕は思うよ。そして清水も、その性格は同じだよね」
僕は二人の未来を願った。
「はい。諦めの悪さは、渉に負けない自信がありますよ」
僕は渉が空港での別れの挨拶の中、そしてメールの最後に、清水のことを僕に頼んだ話を伝えなかったし、渉にも清水と話したことは伝えないつもりだ。僕が余計な手を差し伸べなくても、二人はきっといつかまた出会うだろうから。
「清水のおかげで、僕に足りないものが何なのか、その正体に少しだけ近付いたような気がする。ありがとう」
僕はまだまだ甘かったのだ。瑞穂さんと同じ目線に立ちたいと思いながらも、彼女と同じ場所まで行こうとはしていなかった。彼女の笑顔の裏にある、他人には見せない努力の日々に胸を打たれつつも、どこかで僕には関係のないことだと思っていた。
僕も何かを始めるべきなのだろうか。けれどそれは、足音配りとの約束を破ることになる。僕の今空いている心の部屋は、他人の思い出を受け入れるためのスペースに割かなければならないのだから。
ただでさえ、近頃の足音配りは落ち着きを失くしていた。僕の中で瑞穂さんの存在がどんどん大きくなるからだ。それに伴って僕の思い出も増えていたから、足音売りを始めた頃よりは心の空き部屋が減っていることは、僕も認めざるを得ない。
「誰かを好きになるのは構わないダネ。でもそれに付随して、アキラの思い出が増えていっては困るダネ」
そう言って心配している足音配りに僕が何かを始めたいなんて伝えたら、具体的なことは何も決まっていなくても、更に焦り出すのは目に見えている。
僕の中で、足音を売るためのスペースは今どれくらい埋まってしまったのだろうか。何かを始めたいと思うだけでも、空っぽの領域は減っていくのだろうか。




