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足音の行方  作者: 咲良尚
第七章
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壁の写真

 柏木さんに負けず劣らず、僕がジャーマンアイリスにいる時間は長くなる一方だった。別に柏木さんと張り合いたい訳ではないけれど、仕事と足音売り以外の時間はその多くを瑞穂さんと過ごしている。仕事が休みになる週末には、開店前の準備時間にも店に入れもらっているし、閉店まで居残っている日には店を閉めた後に片付けの手伝いをすることもあった。

 僕の希望的観測でいけば、友達以上恋人未満といったところだろうか。足音配りに彼女の話をすると、「それはアキラの勝手な思い込みで、渡辺瑞穂の方は常連客の一人としか思ってないに決まってるダネ」と可愛くないことを言うから、もしかしたら真実はそうなのかもしれない。言われてみれば、彼女の態度はいつでも他の常連客と平等だった。誰に対しても誠実で、どんな時でも相手のことを第一に考える。僕に対しても、僕以外の常連客に対しても、一見さんに対してさえ、誠心誠意向き合う姿勢を崩すことはなかった。彼女はその時目の前にいる人間に自分の時間を割くことを惜しまないのだ。

 ただ唯一、瑞穂さんの雰囲気が変わる相手を、僕は知っている。それは彼女の弟、謙介くんだ。


 初めて店で謙介くんに会った時、瑞穂さんはすぐに彼を紹介してくれたけれど、そうでなくても二人が姉弟だということがすぐ分かるほど似ていた。

「姉がいつもお世話になっています」

 礼儀正しく僕に挨拶をする姿を見て、さすが瑞穂さんの弟だな、と感心した。紆余曲折あった瑞穂さん一家だけれど、二人が他人に対して謙虚に向かい合える人間に育ったことが、愛情に包まれていた何よりの証拠だと思う。

 まだコーヒーが苦手だという謙介くんは、いつもレモンスカッシュを飲む。その日もシュワシュワと弾ける微かな音がする中で、謙介くんが瑞穂さんに学校であったことや母親の失敗談など、彼の身の周りで起きた話を笑いながら話していた。

 横にいる僕に気を遣って、時々会話に混ぜてくれる二人に感謝しながら微笑ましく二人を見ていると、何かがいつもと違っていることに気付いた。僕はその違和感の正体を知りたくて、相槌もそこそこに周りの空気に五感を集中させた。いつもと同じコーヒー豆の香り、いつもと同じ控えめなBGM、いつもと同じ壁に飾られた写真たち。何も変わっていない店の中で、ひとつだけいつもと違っているものを見つけた。瑞穂さんだ。

 誰に対しても真摯な態度の彼女が、謙介くんの前でだけはどこか子どもっぽいのだ。いつもは自分より年下だなんて信じられない気分になることの多い彼女が、この時ばかりは二十七歳という年齢相応の雰囲気を纏っていた。こんな瑞穂さんもいるんだな、と知らなかった彼女の一面に少なからずショックを受けたことは、認めたくないけれど事実だった。実の弟に張り合っても仕方ないと頭で分かってはいても、謙介くんにしか引き出せない瑞穂さんがいるのに対して、僕の前でしか見せない瑞穂さんはいない。僕は彼女にとって、弱い部分を見せることのできる存在ではないのだろう。

 それでも僕は構わなかった。彼女の特別な存在になれなくても、彼女と過ごすことができればそれだけでいい。今はそれ以上のことを望んではいない。

 なぜなら、今の僕では彼女と釣り合いが取れないことが分かっているからだ。それはイケメンじゃないとかお金持ちじゃないとか目に見えて分かることではなくて、僕にはまだ何かが足りないのだ。足りないものが一体全体どんなもので、どうしたら手に入るのか、皆目見当もつかないけれど、彼女と僕が同じ目線に立つために必要な何かが確実に存在している気がしていた。そしてそこへ辿り着かなければ、彼女の特別にはなれないことも、はっきりと僕には分かっていた。


 とても稀なことだけれど、瑞穂さんと僕は二人で外出することもある。どれくらい珍しいことかと言うと、基本的に彼女は空いている時間のほとんどをジャーマンアイリスのために費やしている、と言えば伝わるだろうか。コーヒーの淹れ方を研究したり、新作のメニューを考えたり、次の感謝デーの準備をしたり、そういうことだ。研究熱心な瑞穂さんはより良いものを求めていつも奮闘していた。僕は試作品のコーヒーや料理に感想を求められることがあったけれど、僕の意見が役に立っているのかどうかはあまり自信がない。大抵の場合、彼女が作り出すものは僕の舌に合うものだったから。

 それ以外にも、先代マスターの常連客に宛てたハガキを書くことや、公園や店周辺の掃除をすることも、マスターの後を継いでからずっと継続しているのだから、彼女の自由な時間はどれくらい残っているのだろうかと、こちらが心配してしまうほどだった。

 だから彼女と外出する時には、有頂天になると同時に貴重な自由時間を僕と過ごさせてしまうことへの申し訳なさも感じた。一度だけ、それとなくその申し訳ない気持ちを彼女に伝えたことがある。

「一人でいても何をすればいいのか分からなくて、結局お店に行ってしまうから。むしろ私の方が感謝しています」

 僕を気遣った嘘かも知れないけれど、彼女がそう言ってあの向日葵のような笑顔を僕に向けたから、僕は彼女の言葉を鵜呑みにすることにした。そして彼女との時間をいかに楽しくするかだけに集中する。悩んで過ごしても、笑って過ごしても同じ一日なら、瑞穂さんといる愛おしい時間を笑って過ごす方がいいに決まっている。


 今日は久々に瑞穂さんと二人で外出する予定だ。目的地はとあるギャラリー。芸術関係にはかなり疎い僕だったけれど、唯一僕が知っている、そしてとても気に入っている写真家の個展が開催されているのだ。

 西野陽平、三十八歳。美大を卒業後、フリーのカメラマンとして雑誌などに載せる写真を撮っていたけれど、三十五歳の時にトルコのカッパドキアへ撮影に行ったのをきっかけに、世界中を飛び回るようになった。

 世界を股にかけて活躍する彼は、よくある綺麗なものだけを撮るだけのカメラマンではなかった。朽ちていくものや忘れ去られつつある風景を、空気ごと切り取ったような彼の写真が僕は好きだった。

 僕にこの写真家を教えてくれたのは渉だ。彼の作品はどれも、真っ直ぐな渉に良く似合う写真だと思う。

 そしてまったくの偶然なのだろうけれど、ジャーマンアイリスに飾られている写真はすべてこの写真家のものだった。初めてお店に行った日、壁に飾られている写真から目を離せなかったのはそのせいだ。もしかしたらその瞬間から、僕は瑞穂さんに恋をすることが決まっていたのではないか、とさえ思ってしまうほど、彼の写真から溢れ出る強さが好きだった。だから瑞穂さんから「西野陽平さんの個展に行きませんか?」と誘われた時は、瑞穂さんが僕と同じ写真家が好きなことが嬉しかったし、僕が西野陽平の写真が好きだということを知らないはずの彼女に誘われた偶然に胸が高鳴りもした。片思いの相手と、意図せず同じ趣味を持っていたことがこんなにも嬉しいなんて、僕は何年も忘れていた。

 これまでに出版されている西野陽平の写真集は二冊あって、それらのページを僕は何度も何度も捲ってきた。けれど彼の個展に行くのは初めてで、そもそも個展がどういうものなのかもよく分かっていなかった僕だったけれど、瑞穂さんと二人で彼の写真を見るために外出する、というシュチュエーションを想像するだけで心は踊った。

 僕らはいつもより少し早めにジャーマンアイリスの閉店準備を始めた。ギャラリーが夜九時まで開館していることは事前に調べてあったから、時間的には充分だった。

 あとは照明を消して鍵をかけるだけ、というところでカランコロンといつものドアベルの音が鳴り響いた。なんでこのタイミングで来るんだ、と自分勝手なことを思ってしまったけれど、瑞穂さんは絶対にそんなことを考えたりしないだろうと慌てて冷静さを装う。今の気持ちが表情に出ていなかったことを祈りつつ、瑞穂さんにちらりと視線を送ってからドアを見た。

 ドアを大きく開けてこちらに入ってくる人物の姿が見えるとすぐに、瑞穂さんのいつもの「いらっしゃいませ」という声が店内に広がった。その声だけで、仕事を終えたようにひっそりとしていた店内に色と温かさが戻ってくる。

 入って来たのは初めて見る顔の男性二人組だった。スーツを着ている二人は、どうやら商談帰りらしい。二人の会話から、その商談が上手くいかなかったことが分かる。後輩だと思われる男性が事あるごとに謝っているのが聞こえ、先輩らしきもう一人の男性が「お前だけのせいじゃないよ」「俺も上手く説明できなかったし」と慰めていた。どちらの表情も青白く完全に凍りついていた。よほど重要な商談だったのだろう。僕も長年営業をしてきただけに彼らのことは可哀そうに思ったけれど、長居しなければいいな、と思わずにはいられなかった僕を許してほしい。

 しばらく出掛けられそうにないと諦めた僕は、仕方なくカウンター席に腰かけ、ポケットからスマートフォンを取り出した。

 瑞穂さんが奥のテーブル席に座った二人に注文を取りに行くと、先輩男性の「ブレンド二つ」という乱暴な声が聞こえてきた。そんな態度だから商談を失敗するんだろ、と心の中で悪態をついてから視界の端で瑞穂さんを見ると、いつもと変わらない笑顔で「かしこまりました」と言って丁寧なお辞儀をしているところだった。やっぱり瑞穂さんだな、と感心と尊敬のまなざしで彼女に見惚れる。

 瑞穂さんがカウンターの方へくるりと向きを変え、僕は慌てて視線を手元のスマートフォンに戻した。男性客二人の出口の見えない慰め合いが続いていたけれど、僕の意識は横を通る瑞穂さんへと向けられていた。

 そのまま通り過ぎていくかと思っていた彼女が立ち止まったから、気にしていない素振りで視線を落としたまま意識だけをますます彼女へ集中させた。

「もう少しだけ、待っていてもらっていいですか?」

 僕にしか聞こえない小さな声で、彼女が耳元で囁いた。奥にいる男性客に気を遣って、小さな声で話したのだろう。

 僕は無言で何度か力強く頷いた。彼女のたったそれだけの言葉で、心の中に重く漂っていた暗い雲が一気に消え去って、太陽の光が降り注いだように晴れやかに気分になった。予定外の来客だった二人組に対して抱いていた薄暗い感情も消え去った。自分でも何て現金で滑稽なのだと可笑しくなるけれど、そんなふうに彼女に影響を受ける自分が可愛く思えた。

 彼女はまず僕の目の前にアメリカンコーヒーを置き、それから男性客の元へ向かった。僕への気遣いも忘れないあたりがやっぱり瑞穂さんだな、と再び感心と尊敬、それに感動がプラスされた感情が込み上げた。奥のテーブル席に向かう彼女の手に乗っているトレーには、コーヒーカップと小さなお皿が二つずつ置かれていた。

「お待たせしました。ブレンドコーヒーです。よろしければこちらもお召し上がりください」

 小さなお皿に入っていたのは、アーモンドだった。

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