マスターとの出会い
マスターのおかげで仕事と住む家は見つかったけれど、他人と接することが苦手な彼女は、喫茶店での仕事も上手くいっているとは言えなかった。愛想がないとクレームが来ることもあったし、彼女がいると雰囲気が悪いからと言って彼女のいない時間を見計らってくる客もいた。それでもマスターは彼女を放り出したりせず、ゆっくりと仕事を教えながら、彼女の見えないところでお客さんに頭を下げることもあった。
敏感な彼女が薄々勘付いていたマスターの苦労と、店の奥からいつも見えるマスターの笑顔が、彼女の堅く鍵をかけられていた心を少しずつ解していった。マスターが彼女に特別何かを言ったことはないし、特別な何かをしていたのでもない。ただ全てを受け入れてくれる安心感と信頼が、本当に少しずつ、まるで石で壁を削るくらいのペースだったけれど、確実に彼女を変えていった。
二十二歳の時、彼女は約五年ぶりに実家に連絡しようと心を決めた。電話番号は忘れていなかったけれど、番号を押す手が震えた。緊張すると本当に手が震えるんだな、と俯瞰している自分がどこかにいたけれど、吐き気がするほどドキドキと心臓が脈打っているのも自覚していた。呼び出し音が五コール鳴ったところで、誰かが電話に出た。母親が出るものだと身構えていた彼女の耳に聞こえてきたのは、男性の声だった。
「もしかして、謙介?」
電話に出たのは弟だった。彼女の発したその言葉で、弟の謙介はすぐに受話器の向こうにいるのが彼女だと気付いた。
「姉さん? 姉さんだよね! ずっと心配していたんだよ」
高校生になっているはずの弟の声が、小さく震えているのが分かった。声変わりもしていて、きっとすごく大きくなっているだろう。でも、優しくて泣き虫なのは変わっていないようだった。そのことが彼女の目頭も熱くさせた。
「元気にしてた?」
「元気だよ。姉さんも元気そうで良かった」
「みんなも変わらない?」
彼女がそう質問した途端、受話器の向こうにいる謙介の雰囲気が変わったのを感じた。数秒の沈黙の後、謙介は会話を再開させた。
「じいちゃんとばあちゃんは、姉さんが出て行ってすぐに亡くなった。二年前に母さんが病気になったけど、今は元気だよ。父さんは……」
謙介が口ごもる様子で、良くないことが起きたとのだという予感した。
「お父さんがどうかしたの?」
答えを急かすように尋ねると、嫌な予感はさらに大きくなった。電話の向こうで、大きく息を吸う音が聞こえた。
「父さんは去年、亡くなった。たぶん母さんが病気になってから、家のこともやらなきゃいけなかったし、ちょうど仕事も忙しい時期で、その疲れが出たんじゃないかと思う。出勤してすぐに会社で倒れたんだ。そのまま脳梗塞で亡くなったよ」
数秒の沈黙の後、何も言えなかった彼女に、謙介は明るい口調に戻って言った。
「近いうちに一度帰っておいでよ。母さんも待っているから」
弟と電話した夜、瑞穂さんは閉店後の片付けをしながらマスターと話をした。実家に連絡を取ったこと、祖父母と父親が亡くなっていたこと、母親が病気になったこと、そして恐らく両親の病気は自分のせいであること。マスターは電話をかけたことを心底喜び、褒めてくれた。そして家族が亡くなっていたことに、とても驚き悲しんでくれた。
「明日から休みを取って、実家に行っておいで。有休、全然使っていないんだから」
マスターの言葉に後押しされ、彼女は新幹線に乗って実家へ向かった。五年前はお金もなくて高速バスで来た道を、今度は新幹線で戻っていく。こんな日は二度と来ないと思っていたのに、人の心は同じ場所に留まっていられないものなのだと思うと、マスターの優しい笑顔が脳裏によぎった。
新幹線が一駅一駅実家へと近付いて行くと、彼女の緊張も自然と高まっていった。弟とは電話で話したけれど、母親と会うのは正直まだ怖かった。ましてや父親が亡くなっているなんて考えてもみなかったことが起きていたのだ。そのことで恨まれているかもしれない。怒鳴りつけられて終わりかもしれない。そう思うと逃げ出したくなった。それでも必死にそんな自分を抑え込み、新幹線に乗り続けた。
新幹線から在来線に乗り換えて三十分で、実家の最寄り駅に到着する。改札をくぐったところで、連絡をしてから実家に向かうべきかと、彼女は携帯電話を鞄から取り出した。ダイヤル画面を開き、そこでもう一度考える。もしこの電話に母親が出て、来るなと言われたら……。母親の一言で気持ちがくじけてしまうかもしれない。同じようにきつい一言を浴びせられるなら、家まで行って、そして直接対面して言われた方がいい。彼女はそう考え直して携帯電話をしまい、実家を目指して歩き出した。きちんと会わなければ、送り出してくれたマスターに申し訳が立たないと思ったのだ。
駅から実家までの道のりは、商店街のアーケードがなくなっていたり、遠足前に必ず買いに行った駄菓子屋さんがなくなっていたり、お洒落な雑貨屋ができていたりと、五年前とまったく同じとはいかなかったけれど、変わらない雰囲気に懐かしさが込み上げてきた。もう二度と歩くことはないと思っていた道。もう一度歩くことができて良かったと、彼女は涙を堪えながら歩いた。道幅の割に車通りの多い駅前通りも、歩道のない神社の前の道も、信号のない交差点も、その時の彼女にとっては失くしてはいけないもののように感じた。
駅から四十分ほど歩き、実家近くへ辿り着いた。それぞれの家の敷地は広く、敷地と敷地の間を通る道路は狭い。昔ながらの農家ばかりのその地域は、彼女が家を出る前と変わっていなかった。実家の敷地に足を踏み入れ、二十メートルほど先にある玄関を目指して一歩一歩ゆっくりと歩く。郷愁の思いと緊張が入り混じり、長い長い二十メートルに感じた。
玄関に立ったところで大きく深呼吸をして、それから力いっぱいインターホンを押した。
家の奥から足音が近付いてくる。「はい、今出ます」という余所行きの声は、間違いなく母親のものだった。
ガチャリ、とドアが開き、母親と目が合う。母親の目が見開かれるのを、彼女はじっと見つめ返した。玄関先で怒鳴られるのを覚悟し、全身に力が入る。母親が一歩彼女に向かって歩み寄り、次の瞬間、彼女にとって予想外のことが起こった。母親が彼女を抱き締めたのだ。そして「おかえり」という震える母親の声が耳に届いた。
この日初めて、瑞穂さんは両親の本心を知った。厳しく育てたのは、いつか嫁に出た時に苦労しないようにとの親心だったこと。父親も最後まで彼女を心配していたこと。彼女が出て行った後の両親がもっと話を聞いてあげれば良かったとずっと後悔してきたこと。
涙を流しながら話す母親を見て、彼女は両親の愛情を初めて心の底から感じることができた。そして何より驚いたことは、瑞穂さんの知らないところでマスターが実家と連絡を取っていたことだった。
「あなたが出て行ってすぐに、橘さんから連絡が来たのよ。詳しい事情は分からないけれど、あなたが自立しようと必死な様子が伝わってきたから橘さんのところで雇うことにしたって。あなたが自分から私に連絡をするまで、そっと見守ってほしいって。それから橘さんは定期的に手紙をくれていたの」
そう言って、母親は引き出しから三十通はあろうかという手紙の束を出してきた。
「でもね、お父さんが亡くなったことは橘さんも知らなかったはずよ。それを知ったら、橘さんはあなたにそれを伝えなければいけないだろうし、伝えられたあなたも、自分の意志とは無関係にこっちに帰って来なければいけなくなるだろうから。謙介には連絡するべきだって怒られたんだけど、お父さんは生前言っていたの。瑞穂は絶対に帰ってくる、それまで親は見守るしかないんだって。何があっても無理に連れ戻すようなことはしないでおこうって。だからお父さんだって、自分の死を連絡してほしくはないと思っているに違いないって、お母さんは思ったのよ」
瑞穂さんは母親にも、仏壇の祖父母と父親にも、そして学校から帰って来た謙介にも、涙を流しながら謝った。
「父親の死に目に会えなかったことは、今でも後悔しています。私は家族から逃げ、結局一番大事な時に隣にいれなかったのだから。もっと親孝行したかったし、今なら一緒にお酒飲んだり野球中継を見たり、やりたいことはたくさんあります。それを思うと、泣きたくなります。でも後悔が強い分、父親のことは絶対に忘れない」
瑞穂さんは目に涙を浮かべながら家族のことを話した。
「今は母親とも謙介とも頻繁に連絡を取っているし、この店に遊びに来ることもあるんですよ。私が両親の愛情を信じられなかったのは、ただの幼いやきもちだったんだって、今なら分かります。弟のように両親に甘えたいっていう気持ちで、反発していただけなんだって」
瑞穂さんは夏の明け方の風のように、爽やかな微笑みを浮かべて話した。僕は黙って聞くことしかできなかった。何も言えない自分がもどかしかったし、彼女のことを思うと胸が締め付けられた。けれど彼女の消し去りたいほどつらい過去は、これで終わりではなかった。




