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足音の行方  作者: 咲良尚
第四章
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会いたい人

 足音配りが僕の家にやって来た夜、彼が思い出をシャッフルし始めたところを見計らって渡辺瑞穂の話を切り出した。足音売りの仕事に慣れてきた僕は、渡辺瑞穂以外にもターゲットを与えられていたし、それらの人に足音を売ることには成功していた。だから最初に足音を売った川崎恵一の時のように、渡辺瑞穂に足音を売れないからと言ってお腹が減ったと文句を言われることはないはずだ。

「喫茶店を経営している渡辺瑞穂のことなんだけど」

 僕は努めて何でもないことのように話し始めた。けれどいつものことながら、僕の考えを読んでいたかのように足音配りは間髪をいれずにこう言った。

「渡辺瑞穂は、本当につらい思い出を持っているダネ。間違いないダネ」

 僕は言葉に詰まった。そして少しムッとした。こういう時に反発したくなるのが、僕の悪い癖だ。

「でも、彼女にはそんな素振りも雰囲気も全然見えないし、過去の話にも全く乗ってこないんだよ。今回ばかりは君の情報が間違っていたとしか思えない」

「それでも、つらい思い出はあるダネ。それだけは確かなことダネ」

 足音配りは僕の目を力強く見つめ、確信を持った声で言った。反論は一切受け付けないという鋭い口調は、僕を大人しくさせるのに充分だった。

 足音配りがシャッフルを終え、僕は思い出を覗けるようになった。けれどどうしても他人の過去を見る気分にはなれなかった。

 そんな僕を見た足音配りは帰り際、「渡辺瑞穂に拘る必要はないダネ」と言い残して部屋から出ていった。確かにそうだ。彼女でなくても、足音を買う機会を必要としている人はいる。そう頭で理解していても、なぜか僕は渡辺瑞穂への拘りを捨て切れなかった。自分でもよく分からないけれど、それは彼女を助けたいなんて高尚な考えからではなさそうだった。ただ彼女に会いに行く口実が欲しいだけなのかもしれないし、足音を売ることに失敗するのが許せないだけなのかもしれない。

 僕は自分の本心を見極めることを放棄した。面倒なことは考えたくなかった。僕はただ足音を売ればいいし、足音を売った人とずっと繋がっていけばいいのだ。

 だから僕は、何も考えずにジャーマンアイリスへ通った。あれほど何か楽しいことを探していたのに、いざ僕の気持ちを揺さぶるかもしれないものを目の前にすると、今の日常を壊さないでほしいと逃げ出す。僕は、ただのワガママな臆病者だった。

 ジャーマンアイリスに顔を出す回数に比例して、他の常連客ともどんどん親しくなったし、彼らと同じように渡辺瑞穂に仕事の愚痴や小さな悩みを相談するのが当たり前になった。こんなことを言うと足音配りに怒られるだろうけれど、時々過去の恥ずかしい記憶や悲しい記憶が甦った時に渡辺瑞穂に思い出話をするのは、彼女の過去への足掛かりになればいいという理由はあくまで建前であって、ただ彼女に聞いてもらいたいのが本音だった。

 常連客はみんな、コーヒーよりもホットサンドよりも、渡辺瑞穂の人間性に惹かれてやって来る。僕も例外ではないということだ。渡辺瑞穂は僕の話をいつでも受け止めてくれる。そして店を出る時には、木漏れ日を心の中に飼い始めたようにほんの少しだけ温かい気持ちになれた。

 それは僕だけが特別なのではなく、誰の話だって彼女は大切そうに耳を傾け、朝陽がすっぽりと暗闇を飲み込んでいくように、みんなの心を軽くしてくれるのだ。だから僕らは彼女に会いに行った。

 

 真夜中にスマートフォンの着信音で目が覚めた。ベッドから離れた場所にスマートフォンを置いているのは、以前知り合いから「枕元に携帯電話を置くと眠りが浅くなって体に悪い」と言われたからだ。本当かどうかも分からないのに、聞いたその日から素直に遠ざけて寝るあたりはなんとも小心者の僕らしいけれど、今みたいな真っ暗闇の中、しかも寝ぼけ眼の状態でスマートフォンを取りに行くと、その距離を恨めしく思わずにはいられなかった。

 途中テーブルに右足の薬指と小指をぶつけ、痛みで思わずしゃがみ込む。痛みに耐えながら、そのまま四つん這いの体勢で窓際のサイドボードへ辿り着いた。目に痛いほど眩しく光るスマートフォンの画面に表示された名前は、渉だった。

「もしもし」

「せんぱーい。寝てました?」

 妙に明るい。いや、もはや変なテンションだ。渉がこんな時間に電話をかけてくること自体珍しいけれど、酔っ払っていることにはもっと驚いた。渉は他人に迷惑をかけることを嫌って、酒を飲んでもほろ酔い程度にしかなったことがないからだ。

 思わず僕の口から飛び出す「何かあった?」の問いかけ。しばらく沈黙が続き、耐えかねた僕が言葉を発しようとしたその時、やっと聞き取れるくらい小さな声で渉が言った。

「沙織と別れることになったんだ」

 一瞬、自分の耳を疑った。次に、何を言えばいいか分からなくなった。これまで清水の話を聞いていても、渉への気持ちが変わっていないことは手に取るように感じていた。それがどうして別れることになるのか。渉は電話で多くを語ろうとはしなかった。僕に理解できたのは、二人が久しぶりに直接会って話をしたこと、そしてそれが別れ話に発展したこと、それだけだった。渉が日本を発つまで、あと一カ月だ。

「とにかく、これからそっちに向かうから。今どこ?」

 僕らは二十四時間営業のファミリーレストランで落ち合う約束をし、電話を切った。時計を確認すると、既に終電は終わっている時間だった。それに、待ち合わせ場所から考えても車で向かう方が都合がいい。僕は普段ほとんど乗ることのない車の鍵を握りしめて、駐車場へ向かい、紺色の小さな車をめがけて駆け足で近寄る。動けばそれでいい、と思って購入を決めた軽自動車だったけれど、今は頼もしく見えた。

 人通りも車通りもほとんどない道を、音楽もラジオもつけずに走った。街灯の灯りだけが一定のリズムを刻んで通り過ぎていく。出発前の計算通り、十五分ほど車を走らせると、暗い街の中でファミリーレストランの明るさがぼんやりと浮かび上がってきた。店員のものしか停まっていないであろうガラガラの駐車場に入り、僕は入口から数えて三番目の駐車スペースに車を停めた。焦る気持ちを抑えながら車を降り、小走りで入口へ向かう。電話をかけてきた場所から考えて、渉は先に着いているはずだ。

 中に入ると、控えめなトーンで「いらっしゃいませ」と声をかけられる。ふと、渡辺瑞穂のことを思い出す。彼女だったらこんな夜中でも、いつもの向日葵のような笑顔で迎えてくれるのだろうか。

 店内を見渡すと、うつむいている渉を見つけた。「待ち合わせなので」と目の前の店員に伝え、勝手に店内へ歩みを進めた。深夜のファミリーレストランには独特の雰囲気がある。どこか気だるく、靄がかかっているような、湿った空気だ。けれど渉の周りは、そんな空気を寄せ付けず、ピリピリと張り裂けそうだった。

「渉」

 僕はできるだけ優しく名前を呼んだ。

「こんな時間にごめん。明日、仕事だよね」

 どうやら、もう酒は抜けているようだ。電話での渉とは別人だった。深海に感情を沈めたかのように、低い声でゆっくりと言葉を選んでいた。

「今朝遅くまで寝ていたから、睡眠時間は充分なんだ。何があったか、話せる?」

 渉は僕と目を合わせることなく、小さく頷いた。

「日本で残された一カ月を、沙織と過ごしたかったんだ」

 渉は二人が別れることになった経緯を、ゆっくりと静かに、そして淡々と話した。

 これまで清水は頑なに渉と会うことを避けていた。一切の連絡を取らなかった訳ではない。メールや電話はするけれど会うことは拒否して過ごしていた。それはもちろん、渉の海外留学問題について触れることを避けるためだったから、メールでその話をすれば返事はなかったし、電話で話題に出せば切られた(感情に左右されやすい清水らしいけれど、渉もよく耐えたと感心する)。けれど今日は、清水の方から会いたいと連絡がきた。渉は清水に、スウェーデンに行く理由、離れても気持ちは変わらない自信、相談せずに海外行きを決めたことの謝罪を、やっと伝えられると安堵した。そして残された一カ月で、心の支えになる思い出をひとつでも多く作ろうと、これからの一ヶ月を思い描いた。清水に伝えたいことは、言葉で言えないほどたくさんあった。

 久しぶりに会う清水は、とても落ち着いているように見えた。最初に「今まで、きちんと話し合うことを避けてごめん」と謝り、そして渉が言葉を発する前に言ったのだ。「私たち、終わりにしよう」と。

「その後は、僕が何を言っても沙織の気持ちを覆すことはできなかったし、それ以外何も教えてくれなかった。僕への気持ちがなくなったのかもしれないし、僕にはついていけないと呆れ返ったのかもしれないし、とにかく別れる理由も言ってくれないんだ。ただ、沙織はとても冷静だった。感情的になっていたのは僕の方で、沙織はずっと穏やかに落ち着いていたよ」

 渉を見ていると、僕まで胸が痛んだ。

「渉と清水が会っていない間に、僕も何度か清水と話をしたけど、あいつはずっと渉のことを大切に思っていたよ。それに、清水は渉がスウェーデンに行くことに理解を示し始めていたと思う。それを伝えるタイミングがつかめないだけだと思っていたんだ。それなのに、あいつから別れを切り出すなんて。僕は納得できない」

 僕は二人でいる二人が好きだった。こんな望まない急展開は、納得しろという方が無理だ。

「理解を示し始めていた? それなら、どうして別れを切り出したんだろう」

 渉は頭を両手で抱えながら、独り言を言うように自分に問いかけていた。僕は答えになるかどうか分からないけれど、清水の言葉を思い出しながら言った。

「清水は二人のこれから先を考えていたよ。どんな言葉を選んで渉に伝えることが二人のためなのか、真剣に考えていた。渉との将来をとても大切に思っていたんだ。そんな清水の気持ちが、突然変わるなんて思えないよ。もう一度話し合ってみた方がいいんじゃないかな」

 僕の言葉を聞いていたのかいないのか微妙な様子の渉だったけれど、数秒経ってからはっとした表情で顔を上げた。

「先輩。電話をかけた時は取り乱していたから、先輩の迷惑も考えずに呼び出してごめん。でも今先輩の話を聞いて、これは沙織なりのけじめなんだと受け入れることができそうだよ。話を聞いてくれて、ありがとう。これで僕はスウェーデンに行く準備が完全に整った」

 うつむいていた渉とは別人のように、吹っ切れた表情をしていた。訳が分からない僕だけが取り残された。

 でも、そうだよな。渉と清水の間には、二人にしか分からない時間の流れがあるのだろう。言葉以外の、二人だけに通じる共通言語のようなものが存在しているのだろう。

 二人は別れを選んだというのに、僕は二人がこれまで築いてきた時間の濃さを羨ましく感じた。

 この心の中に黒い霧が立ち込めるような気持ちを話せる相手は一人しかいない。

 渡辺瑞穂に会いたかった。

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