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足音の行方  作者: 咲良尚
第四章
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魔法の言葉

 体育大会が終わってから、僕は同級生が自分の話題を出さないかひどく怯えていた。だから帰りのバスの中でも、ずっと下を向いて誰とも話さないでいた。ひっそりと息を潜め、誰にも僕のことが見えなければいいとさえ思った。

 そんな僕にバスの中で話しかけてきた一人の男子児童がいた。それは田辺一臣という、僕と同じようにどちらかと言えば目立たないタイプで、昼休みにはいつも一人で本を読んでいるような児童だった。彼とそれまでに会話らしい会話をしたことはなかった。特に人をからかって楽しむようなタイプには見えなかったけれど、それでも僕は話しかけられた瞬間に少し体を強張らせた。

「長谷川くん、優勝おめでとう」

 そう、僕は恥ずかしい思いをしながらも、その大会で誰よりも遠くへ砲丸を飛ばしたのだ。

「長谷川くんは僕と同じように大人しいタイプだと思っていたけれど、陸上で優勝するなんてすごいよ。驚いちゃった」

 田辺一臣は僕の大失敗には触れず、ただその記録と順位を祝福してくれた。体中に入っていた力が抜けていった。

「ありがとう。僕も優勝するなんて夢にも思っていなかったよ。体育系は苦手なのに、力だけはあったみたい」

 体育大会の話をしていることに気付かれると、誰かが僕のあの話題に触れそうな気がして、僕は彼にだけ聞こえるくらいのボリュームで言った。やけに小さな声で話す僕を見て何かを感じ取ってくれたのかは分からないけれど、彼はそれ以降、本の話や宿題の話なんかをして、体育大会の話題を持ち出すことはなかった。

 田辺一臣がずっと僕と話をしていてくれたからなのか、それとも誰も僕には興味がなかったからなのか、とにかくその日僕はからかわれることなく一日を終えた。僕は田辺一臣に感謝したし、彼に言われて初めて優勝したことを喜んでもいいような気がしたのだ。

 その日から、僕と田辺一臣は昼休みを一緒に過ごすことが多くなった。彼は僕に面白い本を教えてくれたし、僕は彼を家に誘って一緒にゲームをした。僕らは二人とも大人しい児童だったけれど、本好きな田辺一臣とゲーム好きな(小学生の頃からゲームばかりしていた)僕はやはり趣味は違っていて、それでもお互いの好きなことを不思議と抵抗なく受け入れていった。

 それまで特に仲の良い友達もいなかった僕が、田辺一臣と仲良くなったことで、登校するのを楽しみに思うようになった。他の同級生からは相変わらず相手にされていなかったけれど、それでも彼が同じクラスにいるという事実だけで気分が軽くなった。

 別に全員から好かれていなくてもいい。一人だけ僕を理解して受け入れてくれる友達がいれば、それだけでいいのだ。田辺一臣が与えてくれた安心感は、子どもながらにかけがえのないものだと理解していた。


 僕はつぶっていた目を開けた。田辺一臣のことを思う。彼と親しくしていたのは小学校卒業までだった。田辺一臣は父親の仕事の都合で、遠く離れた中学校へ行くことになったからだ。手紙を書けば大丈夫、電車に乗って会いに行けば大丈夫、そう言って別れたけれど、結局僕らは中学校という新しい生活に馴染むのに精一杯で、そのまま会うことはなかった。

 彼とのエピソードは悪くない思い出だ。甘酸っぱく、少し切なくなるけれど、嫌な痛みではない。

 当時を思って一人微笑を浮かべると、なぜか突然、全く別の思い出が僕の頭の中に降って来た。


 あれは大学に入った最初の年だった。経済学部に入学したものの、一年生のうちはほとんどが教養課程といって他学部の学生と一緒の講義だった。その中のひとつで、試験の代わりに毎週課題を提出する、という講義があった。中世ヨーロッパの歴史について学ぶ講義だ。その学期に取っていた他の授業は、中学高校と同じように授業を受けて学期末に試験を受ける形式のものばかりだったから、試験勉強をしなくてもいい講義は魅力的だった。

「課題を出せば単位がもらえるなんて、楽勝だね」

 同じ経済学部の友人と試験よりも簡単だと喜んでいた僕は、何も分かっていなかった。

 毎週出される課題は、一風変わったものが多かった。とある週の課題は、講義で学んだ内容を絵で描いてくる、というものだった。ところが、僕には絵心がない。図工だって美術だって、人より良い評価をもらったことなんてなかったし、評価だけではなく、何をどう描くべきかも分からなかった。どうしたものかと頭を抱えたけれど、それでもまだ僕は楽観していた。きっと友人も同じはずだと、この日は課題を進めることを諦めた。

 次の日、友人にそれとなく課題の進み具合を確認すると、彼の返事はあっけないものだった。

「適当に終わらせたよ」

 適当って何だ、と思いつつも「そっか、早いね」と返事をし、僕はいよいよ焦り出した。この時、書き方を誰かに教わっていれば、この後に起こる悲劇を回避できたかもしれない。けれど人一倍他人の目を気にする性格が裏目に出た。自分だけが書けないと思い込み、誰かにそれを知られたくないという思いで頭の中がいっぱいになってしまったのだ。とにかく課題を終わらせることだけを考え、そもそも何を求められているのか考えてもみなかった。形だけを取り繕った課題は、なんとか提出期限にぎりぎり間に合い、ほっとして翌週の講義に出席した。

「今日は提出された課題の講評から始めることにする」

 教授が課題の束を教卓に置いた時も、間に合わなかった人はいなかったのだろうか、なんて他人の心配をしていた。

「比較的よく描けている課題が多かった。けれどいくつか箸にも棒にもかからないものがあったので、まずはそれについて指摘したい」

 そう言って教室の前方にあるスクリーンに映し出されたのは、なんと僕の絵だった。

「誰の課題とは言わないが、なぜ私がこの課題を出したのか、出席している学生全員に再度考えてほしい」

 確かにその時の僕の課題は、お世辞にも良く描けているとは言えなかった。講義で言われたままの人物画をただ描いただけだ。教授が人物画を見たかったのではなく、その人物が何をしたのか、何を残したのか、そこまでを見たかったのだと、今なら分かる。

 だからと言って、不出来な課題の代表として授業で他の学生に晒されるなんてあんまりではないか。課題を返却する時に指摘したっていいし、僕だけ呼びだして注意したっていい。他に方法はいくらでもあったはずだ。ショックを受けた僕は、その後の大学生活でこの教授の授業を取ることは一度もなかった。しばらくは他の授業でも課題を提出するたびに(それが絵でなくても)怯えることになる。

 

 翌日、新しく手に入れた思い出を持って、僕は渡辺瑞穂の元を訪ねた。日曜日のお昼前。柏木さんをはじめとする常連客が何名か揃い始めていた。店の扉をくぐり、渡辺瑞穂の「いらっしゃいませ」を聞いた僕がカウンターの席に座ろうとすると、柏木さんが僕の名前を呼んだ。

「長谷川さん、こっちにおいでよ」

 少し迷ったけれど、断って雰囲気を悪くするのも良くないと思い、素直に柏木さんたち常連客の元へ向かった。

「新しい常連仲間の長谷川晃さん。この前仲良くなったんだ」

 僕が席につくと、柏木さんが他の常連客に僕を紹介した。常連客が口々に「よろしく」という言葉とともに自己紹介をした。

 定年退職後に常連になったという五十嵐さん、自宅がこの近くだけれど職場が遠いために週末しか来られないという二瓶さん、大学生の鳴海さん。

「今は男しかいないけど、平日だと専業主婦の石川さんや、長谷川さんと同じようにこの近くで働いている塚田さんもいるし、女性が混ざることもあるんだよ。他にも何人か知り合いがいるから、一緒になった時に紹介するね」

 柏木さんは最後にそう付け加えた。ジャーマンアイリスの雰囲気と同じように、とても居心地のよい常連客たちの雰囲気だった。初対面の人には壁を作ってしまう僕だけれど、その壁がいつもより薄いものになっていることを自覚していた。

 穏やかな春の陽射しのような空気の中で、僕らは和やかに話をしながら昼食を取った。途中、常連客の一人だという木村さんが五歳の息子さんを連れてやって来たけれど、柏木さんを通して軽く自己紹介をし合っただけで「子どもがいるからまた今度ゆっくりと」と言って食べ終わるとすぐに帰って行った。

 食後のコーヒーを飲み終わると、一人二人と店を後にしていく。僕は最後の一人、鳴海さんを見送るとカウンター席へ移動した。

「このお店と同じように、とても居心地のいい場所をくれる人たちですね」

 僕が渡辺瑞穂にそう言うと、彼女は弾んだ声で言った。

「長谷川さんがみなさんと仲良くなって、私も嬉しいです」

 彼女は心から嬉しそうだった。

「このお店に来るようになってからまだ何日も経っていないけど、なぜか今まで忘れていたことを思い出すんです。その理由を考えていたんですけど、このお店と柏木さんたち常連客のみなさんが、僕の心を溶かしてくれるのかもしれません」

 僕の過去への扉が開いたって仕方ないのに、それでも思いがけない記憶が戻ったことは、ジャーマンアイリスに集う人々と無関係ではないような気がしていた。

「どんなことを思い出したんですか?」

 僕は昨日取り戻したばかりの失敗談を彼女に話した。昨晩、一人部屋でこの記憶を思い出した時よりも、こうして他人に話すことでより自分が情けなく思え、悲しい気持ちになった。

「僕にしてみれば、すごく酷いことをされた記憶なんですけど、相手にしてみれば普通のことだったのかな。色々な人間がいるってことですかね。それ以降しばらくは課題恐怖症に悩まされて、レポートひとつ取ってもじっくりと取り組むようになりました。おかげで卒論はスムーズに書けたんですけどね」

 自虐的に笑う僕に、渡辺瑞穂は穏やかな口調で言った。

「色々な考えの人がいるって思えることも、たくさん努力して苦手を得意にしちゃうところも、私はすごいと思います。酷い経験でもきちんとプラスにできるって、難しいことですよね」

 僕は俯いていた顔を上げた。

「そう、かな……」

 小さくつぶやく僕を見て、渡辺瑞穂は「そうですよ」と頷いている。

 この短いやり取りだけで、彼女の言葉はまた僕に魔法をかけた。彼女には敵わないな。そんなことを思いながら、僕もつられて笑顔になった。

 結局、僕の新たな思い出話は、渡辺瑞穂の過去へは結びつかなかった。それどころか僕の方が元気をもらっている始末だ。自分の過去を話すだけでは彼女に太刀打ちできなのかもしれない。それなら他の方法を考えなければ。そう思い頭をフル回転させてみたけれど、僕にはできることが何も浮かばなかった。

 そしてひとつの結論に至る。渡辺瑞穂には消したい思い出なんて、初めからなかったのではないか。足音配りが間違ってしまったのではないか。

 誰にだって間違いはある。不思議な猫人間だって、きっと間違うことはあるはずだ。

 僕は足音配りに、消し去りたい思い出を持つ人物が本当に渡辺瑞穂なのかを確認しようと決めた。もし彼女が間違ったターゲットなら、早く指摘してあげるのがあの猫人間のためだ。

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