喫茶店
僕の大事な友人である渉と清水の関係が海外留学問題でギクシャクしていても、夜は足音を売り、昼間は会社員として働く僕の日々は何も変わらずに続いていた。
「足音売りも、だいぶ板についてきたな」
半分冗談、半分本気で言った僕の言葉を軽くスルーした足音配りは、いつものノートを差し出してきた。
「すごくつらい思い出を抱えている人がいるから、足音を売ってきてほしいダネ」
足音配りが無視した僕の言葉が、行き場を失くして空中をさまよっているようで、僕は急に恥ずかしくなった。
「分かったよ」
照れ隠しでぶっきらぼうに答えた僕を気にすることもなく、足音配りは「よろしくダネ」と言いながらスルリと玄関を出て行った。相変わらず、僕の部屋を出て行く時には本物の猫のように身軽に帰っていくのだ。
玄関のドアが閉まる音を聞いてから、渡されたばかりのノートを開いた。書かれている情報を隈なく頭へ入れていく。
今回のターゲットは喫茶店を経営している女性で、これまで足音を売ってきた相手の中で最も若い二十七歳だった。少しだけ明るくしたボブヘアが柔らかな印象を与え、細めだけれど鋭くはない瞳が人の良さそうな雰囲気を与える。名前は渡辺瑞穂。
足音配りはこのターゲットを「すごくつらい思い出を抱えている」人物だと言った。いつものことだけれど、そのつらい思い出については、何年前のものなのか、どんなことなのか、ひとつもヒントが与えられていない。いつもと同じように、僕はノートに書かれた情報だけを頼りに彼女に会いに行き、その後のことは会ってから考える。
ノートを受け取った翌日、早速お昼休みに彼女の喫茶店を訪ねた。足音売りの活動は原則夜だったけれど、仕事終わりの時間まで喫茶店が営業しているか分からなかったから、今回はまず昼間に行動してみることにしたのだ。
足音配りのノートに書かれた住所をスマートフォンに入力し、目的の喫茶店へ向かった。会社周辺の見慣れた道を通り抜け、地図アプリが示す建物の前で足を止める。
住所から予想はしていたけれど、渡辺瑞穂の喫茶店は会社から歩いて十分程度のとても訪ねやすい距離にあった。閑静な住宅街が広がる、落ち着いた雰囲気の街並みが広がっている地域。今までこちらの方角に足を向けたことがなかったから、近くにこんな住宅街があったことも、その中に喫茶店があったことも、まったく知らなかった。それは僕の営業という仕事柄、企業がない所へ行くことがほとんどないせいもある。
お昼休みに行くことができるほどの距離だったのはたまたまなのか、それとも足音配りが気を利かせてくれたのか。どちらにしても有り難いことだった。僕はその距離を喜びつつ、店の外観を眺めた。
木造のこぢんまりとした店だった。深い茶色で統一された店はそれなりに年季が入っているように見えるけれど、入り口の両脇にはプランターに咲いた花が綺麗に並んでいたし、ドアも窓もガラスはピカピカと光っていて、古さは感じさせなかった。手入れの行き届いた店の雰囲気は、とても清潔な印象を与えてくる。
カランコロン。
扉に付けられたドアベルが優しい音色で鳴り、ここが喫茶店だということをやんわりと僕に主張した。その音を合図にしたように、店内にいる人たちがこちらに視線を向けたのを感じる。僕は中の様子を確認しようと、視線をぐるりと一周させた。
店内も外観と同じように手入れが行き届いており、本棚に入っている本や雑誌も高さを揃えて並べられていたし、無駄なものがないすっきりとした空間になっていた。けれど決して無機質ではない。観葉植物や花瓶の花などの植物が所々に置かれていることで、親しみやすさを覚える。
小さな喫茶店の中にいるのは八人の客と、カウンターの中に立つ一人の女性だった。見たところ、八人の客の多くが顔見知りのようで、恐らく常連なのだろう。彼らは見慣れない顔の僕が誰なのか探るように、ひそひそと一言、二言、短い会話を交わした。
僕が店内へ一歩踏み込んだその瞬間、明るい女性の声が響き渡った。
「いらっしゃいませ」
声の主は、カウンターの中に立つ女性だ。向日葵のような笑顔を僕に向けるその女性こそが、この店に来た目的である渡辺瑞穂だった。
「お一人ですか? 宜しければこちらにお座り下さい」
渡辺瑞穂がカウンターの席を勧めたので、僕は素直にそれに従い、彼女の目の前に腰を下ろした。ふと彼女の奥に見える壁に視線を動かすと、そこには雑誌ほどの大きさの額に入れられた写真が飾られていた。無意識のうちに僕の目はそれを食い入るように見つめていた。
「初めていらっしゃいますよね」
数秒だけれど写真に意識を集中していた僕は渡辺瑞穂の声で我に返り、視線と意識を彼女に戻した。僕は心を落ち着かせるように、ゆっくりと話した。
「はい。会社の近くだったので、お昼休みに寄らせてもらいました。何か昼食になるようなものを出してもらうことはできますか?」
渡辺瑞穂はメニュー表を手渡しながら言った。
「簡単なものしかできませんけど、良かったら」
僕がそのシンプルなメニュー表を覗き込んでいる間、渡辺瑞穂は常連客へコーヒーを届け、そのまま彼らの会話に参加していた。彼らは野良猫が家の前にいつも寝転んでいる話や、隣の家の庭から木の葉が入ってくる話や、飼っている犬の毛が抜ける話など、どこにでもありそうな話を夢中で話していた。渡辺瑞穂は基本的に、常連客が話しているのを楽しそうに笑顔を浮かべながら聞き、誰かが彼女に同意や意見を求めた時にだけ口を挟んでいた。
彼らの会話が一段落したのを見計らって、渡辺瑞穂はカウンターへ戻ってきた。僕が「すみません」と声をかけると、彼女は僕の前までやって来て、丁寧な口調で「お決まりですか?」と尋ねた。常連客たちは彼女が会話から抜けたことを特に気にすることなく、変わらず話し続けている。彼らの会話のおかげで店内が程良い騒々しさであることに感謝しながら、僕はアメリカンコーヒーとホットサンドを注文した。
手際よくスクランブルエッグを作り、そこにマヨネーズを加えてからパンで挟む渡辺瑞穂は、鼻歌でも歌いそうなほど上機嫌だった。彼女はいつもこんなに機嫌よくカウンターに立つのだろうか。ぼんやりとそんなことを考えていると、サンドウィッチの焼ける香ばしい匂いが漂ってきて食欲を刺激する。ちらりと腕時計に目をやると、渡辺瑞穂が声を掛けてきた。
「お昼休み、何時までですか?」
僕が時間を気にしていると思い、気遣ってくれたのだろう。慌てて返事をした。
「一時までなので、まだ時間はあります。それに今日は帰社せずそのまま午後から外回りの予定で、多少は時間に余裕があるんです」
午後の予定は二時半に取引先と約束がある以外は特に決まっていなかった。何件か回ろうと決めている所はあったけれど、アポイントメントを取っている訳ではなかったから焦る必要はない。
「それなら良かった。どうぞ、召し上がって下さい」
出来立てのホットサンドが、レタスメインのサラダと一緒にワンプレートに乗り、僕の目の前に運ばれてきた。食欲はますます刺激され、僕は両手を合わせた。
「いただきます」
一口頬張ると、口の中いっぱいにバターの風味がひろがった。次に感じるのは、表面はカリッとしているのに中がふんわりと柔らかいトーストの甘さ、そして絶妙な味付けのスクランブルエッグだ。
一口目を飲み込み「おいしい」と言葉にしようと口を開いた僕の隣に、常連客の一人が腰を下ろし話しかけてきた。僕はホットサンドではなく、今度はそこまで出かけた言葉を飲み込む。
「おいしいでしょ。最初にホットサンドを頼むなんて、お兄さん、お目が高いよ」
話しかけてきたのは僕と同じサラリーマン風の男性で、年齢は五十代といったところだろうか。陽気な雰囲気は常連客の中でも目立っていた。
「柏木さん、ホットサンドばかり注文していますからね」
ホットサンドのプレートの脇に、音を立てないようにコーヒーカップを置きながら、渡辺瑞穂はからかうように言った。
「ついつい、そればかりになってしまうんだよな」
柏木さん、と呼ばれた男性は嬉しそうに答えた。
「でも本当においしいです。コーヒーにも良く合う」
熱々のコーヒーを飲んでから僕がそう言うと、彼女は「ありがとうございます」と無邪気な笑顔を見せた。その時ふいに、本当にこの人につらい過去があるのだろうか、という疑問が僕の中に芽生えた。消したいほどの思い出と渡辺瑞穂の笑顔は、僕の頭の中でどうしても結びつかなかったのだ。
渡辺瑞穂の心の中を見抜こうと彼女と常連客のやり取りを聞きながら、僕はゆっくりとホットサンドとサラダ、そしてコーヒーを味わった。
「ごちそうさまでした」
お皿とコーヒーカップを綺麗に空にして、席を離れレジへと向った。会計が終わったタイミングで、僕は彼女に尋ねた。
「このお店は夜も開いているんですか?」
「すごく遅くまではやっていないですけど、夕食を食べるくらいの時間までなら。ぜひまた、いらして下さいね」
僕は「また来ます」と答えて喫茶店を後にした。なんとなく、常連客の気持ちが分かるような気がした。つまり彼女の店はとても居心地が良かったのだ。




