溝
「話したいことっていうのは、実は海外に行こうと思っているんだ。何年になるか分からないけれど、保育の先進国で子育てについて学びたいと前から考えていたから」
突然の渉の告白に、混乱した僕はひどくつまらない、ありきたりな質問をしてしまった。
「保育の先進国って、具体的にはどこの国?」
「スウェーデンに行こうと思ってる」
海外とは縁遠い僕は、「遠くて寒そう」くらいしかイメージが湧かなかったけれど、それは口にしないでおいた。周りの騒音だけが、やけに大きく僕の頭の中で響いている。
渉の海外渡航の話は、清水にどんな感情を抱かせるのだろう。日本とスウェーデンの距離に隔たれても、清水は渉への思いに支えられ、強くいられるのだろうか。渉もそれを懸念して清水に言い出せないでいたようだ。
「先輩、沙織にどう切り出せばいいと思う?」
渉が僕に清水のことで相談を持ちかけるなんて珍しいことだった。
「渉が消極的なんて、らしくないね。やっぱり心配?」
僕はわざと何も気付いていないように振る舞って、明るい声で尋ね返した。
「離れ離れになることが寂しいとか、それで沙織が心変わりすることが心配とか、そんなことじゃないよ。ただ不安定な沙織を残していくことに心が痛んで。沙織はああ見えて、実は弱いところがあるから。もし離れてしまうことで沙織の糸が切れてしまったら、と思うと怖いんだ」
清水も忘れているはずの過去の出来事が、僕の頭の中でリプレイした。もちろん渉はそのことを知らないはずなのに、清水のことをよく理解しているのはさすがだな、と呑気にそんなことを思ってしまっていた。そして及び腰な僕は、ありきたりな言葉しか返せない。
「二人の問題は二人にしか分からないから無責任なことは言えないけど、渉の夢が叶えばいいなと思うよ」
清水は大丈夫、分かってくれる、とはとても言えなかった。
「決めたことだから、必ず実現したいとは思う。できない理由を沙織のせいにしたくないしね。後悔はしたくないから」
渉は迷っている訳ではない。清水のことを僕に支えてほしいと、それを伝えたかっただけだ。
「話を聞いてくれてありがとう。近いうちに沙織に話をするよ。沙織が落ち込んだ時には、話を聞いてやってあげて」
清水のことは任せておけ、なんて背中を押せるような言葉も言えない卑怯な僕は、曖昧に返事をした。そんな僕に感謝している渉を見て、本当に素直でいい奴だな、とまた呑気ことを考えている自分が情けなくなった。
そして僕の不安は的中する。渉から海外留学の話を打ち明けられた清水は、すんなりと渉の夢を受け入れることはできなかった。けれど僕が心配した展開と違ったのは、清水は落ち込んで塞ぎ込んだのではなく、意外にも怒りでいっぱいになったことだった。湯気が出るんじゃないかというほど渉に対して怒りを抱いた清水は、幸いにも以前のように仕事に身が入らないということはなく職場では平然を装っていた。だから同僚たちは清水の変化に気付いてはいないようだったけれど、仕事を離れると波飛沫をあげる冬の日本海のように荒れていて、事態を把握している僕は少し怯えてしまうほどだった。
「この年になって海外なんて信じられない。仕事まで辞めて、大人のすることじゃないよ!」
週末の定食屋で箸を片手に怒りをぶちまける清水は、これまで見たことのない迫力があった。清水が渉と付き合うようになってから、週末の映画は自然となくなっていた。今夜も映画を見るかご飯を食べに行くか迷ったけれど、ゆっくりと話ができる方がいいと思い、会社近くの定食屋へ来たのだ。
「でも、渉はそれを目標にお金も貯めていたんだろ。長年の夢を実現できるなんて、すごいじゃないか」
渉を擁護する言葉を発した僕を切れそうな視線で睨んだあと、観念した犬のような表情になり清水は言う。
「それは私もよく分かっているんです。でも受け入れられない自分がいて……。今になって海外で勉強したいなんて、そんなことに意味はないよって私が反対したら、渉、なんて言ったと思います?」
僕は清水から視線を外さず、けれど黙って続きの言葉を待った。
「意味はないかもしれない。行ってみたら結局は何の役にも立たない、ってこともあるかもしれない。それでもやろうと決めた以上、全力でぶつかりたいんだ」
それが渉の返事だった。渉らしいな、と思う。清水だって、僕と同じように思っているのではないだろうか。渉を理解しているのは、僕より清水のはずだから。
「渉がスウェーデンに行くことで、清水が一番嫌なのはどんなこと?」
「それが分からないんです。何が面白くないんだろう。離れ離れになること? 夢見がちなこと? 仕事をやめたこと? 色々考えたけど、どれもしっくりこなくて。でも、今は賛成する気分にはなれないし、応援できない自分にも腹が立つし、自分がどうしたいのか分からない」
そう言って清水は唇をかみしめた。
渉と清水の間に生まれた、初めての大きな溝だった。




