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足音の行方  作者: 咲良尚
第一章
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僕の望むもの

 男の子が何歳になっても棒を持って歩きたがるのはなぜか。そんな母親の疑問に「ロマンでしょ」と答えたのは二十歳の頃だったと思う。三十二歳になった今、まだそのロマンを持ち続けているなんて格好良いことは言わないけれど、僕は楽しいことを探していた。


 少し前まで勤めていたのは、食品サンプルや幟旗などの販促商品を扱っている会社だった。営業マンだった僕は毎日企業を渡り歩き、自社製品の宣伝をして回った。見込みがなくてもカタログを置いてくることができればいい方で、商品のサンプルを鞄から取り出す前に必要ないと断られること数知れず。この忙しい時に、と文句を言われたり舌打ちされたりすることなんて日常茶飯事だった。最初でこそ、そんな相手の反応に落ち込んだり憤ったりしたけれど、次第に何も感じなくなるのだから人間の適応能力は素晴らしいと感じずにはいられない。

 他人から嫌味を言われたり冷たく追い払われたりすることが仕事のような毎日で、僕のささやかな息抜きは週末のテレビゲームだけだった。小さなアパート暮らしでも、僕にとっては自分だけの城。誰の目も気にせず、缶酎ハイを片手に何時間もテレビと向かい合った。仕事以外で他人に気を遣うなんて面倒なことは嫌だったから、流行りのオンラインゲームに手は出さないと決めていた。僕は誰とも関わり合うことなく、むしろ人との関わりを避けるように家の中で過ごした。

 けれどそんな生活は、僕の心を満たしてはくれなかった。道端に落ちている棒切れに心躍らせる年齢ではないし、かと言って重い腰を上げて何かを始める意欲も持てないくせに、この世界のどこかには僕の興味をかき立て、心の空洞を埋めてくれる何かがあるはずだと、勝手な希望だけは捨てられずにいた。

 僕が人と関わりたくないこと、楽しいことを見つけられないことの原因はどこにあるのだろう。仕事以外の時間を持て余す僕は、暇に任せてそんなことを真剣に考えた。答えは簡単に見つかった。全部仕事が悪いのだ。人の温かみよりも冷酷さを知ることが多いこの仕事のせいで、僕の心は荒んでいき、やる気や楽しさを奪われていくに違いない。悪いのは僕ではなく環境だと結論付けてから、会社を辞める決意をするまではあっという間だった。


 こうして僕は十年に満たない社会人生活にピリオドを打った。晴れて自由の身になって半年近くが経ち、もうすぐ失業手当も受け取れなくなるというのに、結局探していたものを見つけられないでいる。今更気兼ねなく遊べる友達もいないし、これといった趣味もない。考えてみれば、子どもの頃から打ち込めるほど興味をもったことなんてなかったことに思い当たったくらいだ。仕事を辞めても、家に閉じこもってばかりの日々では「面白いこと」「楽しいこと」「やりたいこと」の欠片も見えてこなかった。行き詰った現状に風穴を開けるべく新しく仕事を見つけることも考えたけれど、それではまた不満だけが募って楽しむどころの話ではないと言い訳しつつ、毎日が週末のように家でダラダラと過ごした。

 出勤する必要のない毎日は、次第に僕の活動時間を少しずつ夜型へ変えていった。僕にやるべきことなんてほとんどないし、むしろ何をして時間を潰そうかと悩むほどだったから、何時に起きようが別に困ることはない。ただ、半年でこれほど生活が変わることに、まるで他人事のように呆れているだけだ。

 お昼近くに起きて朝方近くに寝るのが、ここ最近の生活リズムだった。食事を作るのさえ面倒だったから、一日に一回は近くのコンビニへと足を運んだ。それは大抵の場合お昼近くなのだけれど、今日はたまたま夜食の分を買い忘れていた。午後十時、空腹を感じて冷蔵庫を開けた時に初めて食べるものがないことに気付いた僕は、軽く舌打ちしながらこの日二回目のコンビニへ向かうことにした。


 アパートの玄関扉から表に出ると、外廊下の照明が切れかかっているのかチカチカと点滅していた。心なしか嫌な気分になりつつも鍵を閉めようとしたその時、突然背後からかけられた言葉に、僕は驚きのあまりビクリと体を震わせた。

「こんな時間に外出なのダネ」

 玄関を開けた時には人の気配などなかったはずだ。足音も立てずに、僕の背後へ誰かがやって来たというのだろうか。

 独特な言葉遣いに怪しみつつ、そして警戒を怠らずに、声が聞こえた方向を振り返ると、そこには現実とは思えない姿が立っていた。

 体は細身で、まるでダンスパーティーから帰ってきたばかりのように白を基調とした華やかなタキシードを着ている。そんな格好で他人の玄関先に立っているだけでも充分怪しいけれど、百歩譲ってそこまでは良しとしよう。問題は服から伸びる顔と手だ。どこからどう見ても、綺麗な毛並みの白猫だった。被り物かと考え目を凝らしても、本物の猫の頭と手にしか見えない。けれど絶対に猫ではない。なぜなら、身長百七十五センチの僕より五十センチほどしか変わらないのだから。百二十センチの巨大な、しかも二足歩行の猫が存在しているなんて、あり得るはずがない。見つかっていたら、間違いなく大ニュースになっているはずだ。

 僕は驚きを通り越して恐怖を感じていた。あまりに他人と関わらずに過ごしていたせいで、幻覚でも見ているのだろうか。それともこれは夢の中なのだろうか。

 頭の中でいくつもの疑問が浮かんでは消えていき、目が泳いでいることが自分でも分かった。人型をした猫は戸惑う僕を気にするどころか、「そんな反応には飽き飽きしている」というように少し肩をすくめてから話を続けた。

「少し話がしたいダネ。出かけるところだったみたいで申し訳ないけど、中に入れてもらいたいダネ」

 奇妙な話し方は、僕の警戒心を強くしていく。こんな得体の知れない生き物を家に入れるなんて冗談じゃない。

「すみませんが用事があるのでお引取り願えますか」

 怒らせて揉めるのも怖かったし面倒だった。何をされるか分からない緊張感の中、僕は低姿勢で断った。対する猫人間は、気抜けした声で続けた。

「用事と言っても、コンビニくらいしか行く所はないダネ。アキラ、君にとってはこっちの用事の方が大事ダネ」

 毛むくじゃらの顔から自分の名前が出てきたことに、一瞬息が止まった。驚きのあまり「名前……、なんで……」と片言の日本語を口走る僕の様子は想定内なのか、わざと間を置いてから、もったいぶるように、そしてどこか愉快そうに、目の前の猫人間は言った。

「長谷川晃くん、ずっと君を探していたダネ。君がこれまでに経験したことのない刺激的で興味深い日々を、オイラは君に与えることができるダネ」

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