物語は終わり、悪役令嬢は
たどり着いた裏庭で、震える自分の体を抱きしめる。
ぽたり。
涙がスカートにおちて、丸くシミをつくる。
それはいくつも広がって、水玉模様を作っていく。
大丈夫、大丈夫だよ、エルリア。
──大丈夫って、なにが?
泣くなよ、エルリア。
泣いた自分より、笑った自分の方が好きだって、言っていたじゃないか。
──笑うの?こんなときまで?
「はは、」
と、声に出して笑う。
けれど。
その声は震えていて、耳に届くときには悲鳴のように変わっていた。
「はは、は、ぅ、ぅぅ、っ……」
……笑えるわけがないじゃないか。
もういやだ、もう嫌だ。
「……っくぅ、ぅぅぅ」
歯を食いしばっても、嗚咽が漏れる。
どうして、いつの間にこんなことになったんだろう。
だって少し前まで、皆で仲良く笑っていたのに。
あんなに楽しかったのに。
あんなに幸せだったのに。
ギース義兄様が物憂げに笑む顔が。
エドの張りつけたようだけど優しい笑顔が。
ローゼのまっすぐに明るく笑う顔が。
カタールの大きく笑って八重歯を見せる顔が。
クリスの少しだけ意地悪に微笑んだ顔が。
全部、全部。
零れ落ちていく……!
「……っく、えっ、……っ、ぅぅぅ。」
──じゃり
音がして、顔を上げる。
「ルーク……」
そこには、ルークが佇んでいた。
「……なに」
涙が流れたまま、そう尋ねる。
彼はなにも言わなかった。
ハンカチを差し出して、私に手に持っていた彼のコートをかける。そうして、そっと横に座ったきりなにも。
ずっと私の記憶に纏わりつくローゼの、優しくて甘いミュゲの香りから、コートに残った彼のフレグランスの香りが私を守ってくれる。
私は、何も言わずにそばにいてくれる彼から伝わる温かさに安心して、しばらくそのまま泣き続けた。
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どれだけ泣いていただろう。
頭がぼうっとする。
「……ごめんね」
小声で、背中にいるルークにそう言う。
冷たい風が、涙で濡れた頬を更に冷やしていく。
「……ねぇ、エルリア様。」
そう声をかけられて、彼の方に視線を向ける。
ルークはいつになく真剣な顔をして私を見つめていた。
「もう、よろしいではありませんか?」
彼の目が、優しく弧を描く。
彼に縋りついて、泣きたくなるほどに優しく。
「この物語は、王子様とお姫様が幸せになって、終わりなのです。」
──クリスとローゼが結ばれて、ハッピーエンド。めでたしめでたし。
泣きすぎてぼうっとした頭に、その言葉が響く。
そうか、そうだったね。
最初から、物語は決まってたんだ。
「エルリア様。」
彼がとても優しい目をして私を見つめ、そうして本当に、本当に優しく柔らかく囁く。
「もう、この物語に悪役令嬢は要らないのですよ。」
──悪役令嬢は、要らない。
その言葉は泣きつかれて無防備に晒された悪役令嬢の心にいとも簡単に突き刺さる。
心が、まるで出血したように赤黒く染まっていく。
──悪役令嬢は、要らない。
「……もう、悪役令嬢、要らない、の?」
震える声で、そう小さく呟く。
その声は私ではない誰かが、どこか遠くで発したように耳に響いた。
「そうです、エルリア様。」
──もう悪役令嬢の出番は終わってしまったのですよ。
ルークが、聞き分けのない子どもを諭すように、少しだけ困ったように、優しく言う。
その表情を見て。
そう言われて。
そうか、と息を吐く。
そうか。
悪役令嬢はもういなくていいのか。
「ねぇ、エルリア様。」
ルークが優しく微笑んで、大切なものを呼ぶように私の名を呼んでくれる。
「貴方の幸せは、別のところで探しましょう?私がそこに連れて行って差し上げますよ。」
私は凍えすぎていて。
彼の温かな声が、私には嬉しくて。
「私の手を取ってください、エルリア様。」
立ち上がり手を差し出すルークは、ただただひたすらに、優しい瞳をして、私のことをその細い目に映してくれる。
先ほど見た、私のことを映しているはずなのに、私のことを全く見ていなかったクリスのアイスブルーの瞳が思い浮かぶ。
「ともに、皇国に行きましょう?」
この手を取って。
別の場所で悪役令嬢の幸せを探す。
そうだよ。
優しく笑う彼の手を取ればいい。
だって、今の私の手にはなにもなくなったじゃない。
学友たちは傾国の馬鹿なんて言って私を蔑み。
……友達も。
……兄も。
……仕えてくれていた人も。
……幼馴染も。
……婚約者も。
皆みんな、
私から離れていった。
誰もが、悪役令嬢なんか要らないよと言う。
でも。
ルークは優しく微笑んでくれる。
守ってくれる。
私を見てくれる。
おいで、と言ってくれる。
『ねぇ、エルリア。
もう、物語は終わったんだ。
……悪役令嬢は、この物語から退場すべきだよ。』
自分の声が、そう優しく心に許しを与える。
逃げて、楽になってもいいんだよ、と。
先ほどまで軋んで、悲鳴を上げていた心が妙に静かになっていく。
世界から色が、消えていく。
世界から音が、消えていく。
この手を取れば、もうつらくない。
なら、もういい。
もう、いいんだよ、ね。
ぼうっとした頭で、目の前に差し出された手を眺める。
優しく温かな、ルークの手をとろう────
荒川弘さんの漫画「銀の匙 Silver Spoon」で、主人公が通う学校の校長先生が『生きるための逃げは有りです。有り有りです。』というセリフがあります。
作者も、そう思います。本当につらくて無理なら、逃げていい。ただ、その先で、逃げたことに苦しんだり後悔するだけじゃなくて、心から幸せになってほしい。
物語は、貴方が選んだ先に続いていく。




