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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

白きドレスに紅き狂乱の舞

作者: きょな

ただその舞台は赤かった。

血の色のように残酷な色だ。しかしだからこそ、その舞台は輝いていた。

耳を傾けると人々の歓声も遠くで聞こえた。こういう場所に立っていると、アイドルにでもなったような気分になるのは俺だけだろうか。

周囲を見渡すとスポットライトによって目を閉じたくなるような光に包まれており、俺は眩しさにぱちぱちと瞬きをした。赤い紅い視界に、のけ反ってしまいそうな声量の歓声。

馬鹿な話だが、本当に有名人になったような気分だった。

有名人だってこれほどの歓声を浴びることはないだろうが、それでも俺はそう思ってしまった。

目を細めながら遠くを見つめると、光り輝く視界の中で俺はより光を放つ物体を見つけた。なんだろう、これは。

まるで写真のように繊細で、しかし筆でなぞったように斬新なシルエット。

俺が手をそれに伸ばそうとすると,


「近づくな」


俺の心が俺に忠告した。俺は歯を食いしばりながら首を横に振る。


「二度と、帰れなくなるぞ」


俺の心が必死に訴えてくる。

だが俺は意識を曖昧としながら彼女に近づいて行こうとした。

本当に近づいてはいけないのかもしれない。

近づいたら、俺自身が言うように帰れなくなってしまうかもしれない。

しかしそれでも構わなかった。

この幻を見ることが出来るなら。

この幻に触れることが出来るなら。

この幻の手をもう一度握りしめることができるなら。

俺は思いのまま一歩、二歩と近づいて行く。すると輝く物体もゆっくりと俺の方に近づいてきた。

目が光に慣れてくる。彼女の姿の輪郭が何となく曖昧ながら映ってくる。

俺はその懐かしい輪郭に声をかけた。


「アリス、なのか?」


彼女は頷かない。だが俺にはどういうわけか彼女が微笑んだように見えた。

彼女の口から返事が出ないと分かった所で、彼女の輪郭が明らかになった。まだ目の慣れきらない光の中で、彼女は確かに微笑んでいた。


目に悪いほど純白なウェディングドレス。

全てを飲み込むような遠くを見つめた両眼。

そして一本一本なめらかに空間を滑る漆黒の短髪。

それは二日前に轢き殺されたアリスそのものだった。


「…アリス、生きていたのか」


俺はアリスの腕を掴んだ。アリスは俺の腕を振り払う様子もなくそして俺自身を歓迎することもなく俺に笑いかけていた。

しかしアリスは言葉を話さなかった。

「…アリス、話せないのか」

アリスは首を横に振る。しかし言葉を発するどころか口を開こうとする様子も見えなかった。

ただただ、俺を見つめるのみ。

俺はそれを不思議に思い、アリスの腕を引いた。アリスは少し体勢を崩しながら俺の方へ歩いてくる。そこで俺は不安気に言った。

「アリス、帰ろう。早く帰ろう」


「帰れないわ」


アリスはようやく言葉を口にした。俺は顔を吊りながらアリスの肩を掴んで揺らす。

そこでアリスは微笑みを崩さないまま言った。


「私はもうすでにここの住人だもの」


俺はアリスから手を離した。アリスは一歩下がりまた告げる。


「だから、私は貴方の元へ帰ることは出来ないの」


アリスが何を言っているのか分からない。そういう思いを込めて叫んだ。


「アリス、何を言っているんだ?」


アリスはようやく俺から目を離して呟いた。

その瞳は何を思っているのか笑っていた。


「忘れてはないでしょ。二日前の事」


俺の心臓の鼓動が高まる。そして自然的に胸に手を置いた。

言ってほしくない言葉が俺の心の抗いを無視して彼女の口元から溢れてきた。


「私は二日前に殺されたじゃない」


吐き気がした。思い出せないように記憶の隅に追いやった過去が自己主張を始める。そこで俺は必死に過去を無視して彼女に話しかけた。

「馬鹿な事は言うなよ。お前はここにいるじゃねえか!お前は死んでなんかいない!」

アリスは俯いたまま「違うよ」と呟いた。俺が黙っていると彼女が言葉を続ける。


「私はここにはいない。これはただの幻想なの。思い出して、あの過去を。逃げないで、その過去から」


俺の喉が動かなくなった。罵声を浴びせてやりたい。文句を言ってやりたい。だけど意思のとおり体は動かなかった。

目の前に彼女を前にして、俺は何も出来ないのだろうか。伝えたいことなんて腐るほどあるのに、どうして体は動かないのだろう。

動かない俺を動けないと理解した彼女は俺に手を差し出した。俺が何をすれば良いのか迷っていると、彼女は今日一番の笑みを浮かべてこう言った。


「踊りましょう。この夢から覚めるまで、ずっとずっと」


彼女の言うままに、僕は彼女の手を取った。

『踊れ』

彼女は僕の手をしっかりと握り、一瞬微笑むとステップを踏みはじめた。先程まで歓声を出すのを止めていた観客も、今日一番の歓声を出しはじめる。どこかで口笛を吹く音もした。

『踊れ』

俺は彼女をエスコートしながら彼女を見つめつづけた。ただ今は踊りに専念しよう。観客を魅了させてやろう。

『踊れ!』

そう思っていたかったのだが、視線は彼女を観察してしまっていた。

彼女のドレスと同化しそうな程白い肩。

踊りを楽しんでいるように見えながらもどこか淋しげな漆黒の瞳。

高校生にしては発達していない過去のままの彼女の胸。

そして彼女が自分と繋いでいる手まで。

その手は小さく、柔らかく。

そして何より懐かしいあの時のままの感触だった。

夢の舞台で僕ら二人は感傷に浸る僕を置いて踊る。

踊り狂う。その舞台の上で。


歓声の響き渡る夢の会場で、幻の舞台の真上にある真っ赤な時計は7月24日を示して、踊り狂う少年少女を見下ろしていた。




木曜日は早朝にテストがあり、その上授業が長い日だったので、教室は重い空気を纏っていた。勿論俺だって眠くて仕方がない。

しかしそんな中、教室のとある一点だけひどくポジティブな空気に満ちていた。そのポジティブの空気の根源となっている少女は俺が教室に入るなり、嬉しそうに手を振ってくる。

そう、その少女こそ俺の彼女、内川有栖だ。

俺が軽く彼女に手を振ると、彼女は迷いなく俺の席に腰を下ろして歯を見せて笑った。クラス全員の視線がこちらに向くが、全員は俺とアリスの会話だと分かると興味なさ気に各々のやりたいことを始めた。

俺とアリスが付き合っているのはクラス全員知っている。俺的にはあまり他人に知られたくはないのだが、アリスが俺を彼氏と言いふらすためほぼ学年全員に知られていた。俺も成績が良いので学年全員が知っているほどの有名人なのだが、アリスはもっと社交関係かなんかで学年に知られている。俺は心の中でそんなアリスの彼氏でいることを誇りに思っていた。

アリスは今日も元気そうに俺に挨拶をする。

俺の友人は俺に「お前は有栖ちゃんから元気をもらっているんだな」と言われたこともあったが、そんなのは失うまで分かるはずがなかった。人間が病気になって初めて健康の大切さを知ると同じ様に。

俺は小さくアリスに笑いかけた。

「アリス、おはよう」

「うん、おはよう昨斗。今日の宿題はちゃんとやって来たかにゃー?」

「アリスの想像通りほとんどやって来てないよ」

俺がアリスの頭を撫でるとアリスは恍惚そうな表情を俺に向けて浮かべた。可愛い。ただそう思った。

「でも宿題はちゃんとやって来なきゃダメだよー。授業だって宿題に沿って進んでいるんだから」

「宿題なんかやらなくても成績はとれるっつーの。まあアリスがやれって言うならやるけどよ…」

「じゃあやれ!」

アリスは人差し指を俺に向けて俺に可愛らしく言うと、一人できゃっきゃと笑った。そんな彼女もやはり彼女らしいなと俺は思う。

そして俺はそんな彼女に惚れたのである。

「アリス、お前は幸せそうだな」

「うん、幸せだよ。だって、私の側に昨斗がいるもの。私の大好きな昨斗が、ね」

俺は対面して愛をぶつけてくるアリスに少し照れながら、アリスを席から立たして俺はため息をつきながら座った。本当の気持ちを言ったら、俺は学校に行きたくない。この進学校ならではの休み時間の緊迫感も嫌だし、何より成績が一位だからみんなからの視線も嫌だった。

俺は勉強もしないし、努力もしないのに成績は良いのだ。この学校のメンツはそんな奴を嫌っている。だから俺はクラスメイトからの視線が嫌だったのだ。

睨んでくるクラスメイトを視線で威嚇していると、突如前の扉が開いた。勉強していた生徒は一斉に立ち上がる。そんな自分の生徒を見て担任の女性教諭はオロオロしながら顔の前で手を振った。

「そんな畏まらなくていいんですよーっと。私だって名簿を取りに来ただけなんですからー!」

顔に似合うようなおっとりとした声が緊迫した教室に響き渡った。そしてすぐに生徒たちは朝のテストのためにもう一度勉強を始める。その空気から浮いているのは俺とアリスとその教諭だけだった。

顔、身長ともに完全に女子中学生。喋り方はもはや女子小学生。それが俺達のクラスの担任だった。正直セーラー服を着てもおかしくないし俺達と授業を並んで受けても違和感のないような女性教諭で、俺はそんな女性教諭を本当に可哀相に思っていた。

教諭は教壇の上に立って少し震えた後クラスに語りかけた。

「あのね、先生先週東京に行ってきたの。ディズニーランドに行ってきたんだけどね、それがまた綺麗でね、夢みたいだったんだよ。写真で取ればよかったなって今になったら思っているんだけど、その時は見とれちゃっててね…」

「先生、今度の化学の出題範囲はこれ以上増えませんか」

「あ、うん。増えないよ…うん」

不憫だな、と思った。いくらなんでも酷い。俺がそいつに文句を言ってやろうと口を開くと、隣の男子が叫んだ。

「千夏先生ー!お土産ってあるんですかー?」

金髪ピアスで進学校の生徒とは思えないような身なりだが、成績は平均以上という俺と同じ天才型。その名も星野司であった。俺の親友で、このクラスでは真面目を装いながら筆箱にスマホを隠しながらゲームをするとんだ馬鹿野郎である。しかし、いつもクラスメイトに無視される千夏先生のお話は大切に拾ってあげていた。いろんな意味を加えて、とにかく俺はそいつと仲が良かったのだ。

千夏先生は嬉しそうに言った。

「買ってきたんですよ。今から回りますので好きなモノを取ってくださーい!」

そう言って千夏先生は嬉しそうに箱を持ちながら周囲を歩きはじめた。勉強していた生徒はみな欝陶しそうにそれをとって自分の鞄に投げ込む。すぐに食べて感想を言うなど、有り得ないといったような行動だった。

千夏先生がまた気を落とすと、俺達の元へようやく歩いてきた。俺が覗き込むと、最も手に取りやすい一番端の蜜柑味だけひどく人気である。もはやこいつら人間の本能を持ってないな、と俺は悟った。

俺と司は千夏先生の持つケーキのどれを選ぶかを必死に考え、葡萄味に決めた。千夏先生は嬉しそうに俺達を眺めていたが、俺達が手を取ると全て余っている桃味とブルーベリー味を一つずつ追加で俺達の机に置いた。俺達が千夏先生を見ると、「余ってしまったら先生のカロリー摂取量が増えてしまいますもん」と可愛らしく呟いた。要するに日頃のお返しなのだろう。俺達は無言でそれを口にすることにした。

「美味しいですか?」

千夏先生が首を傾げて聞いてくるので俺達は首を縦に振った。

「美味しいですね。甘い甘い香りがします」

「ですかー?私のお気に入りなのでそう言ってもらえると先生は嬉しいですー!」

千夏先生はまたクラスを回りはじめた。この先生は一体俺と司がいなければどうなってしまうのだろうか。それを考えたら頭が痛くなった。

「というより、みんなは今何をしているんですー?」

誰も返事をしない。クラスメイトは暗記に必死だった。そこで司が言う。

「朝のテストじゃないですか?知らないっすけど」

「二人はしなくてもいいの?先生だって邪魔になるなら黙っとくよ?」

クラスからの出ていけオーラ。本当にこのクラスは嫌だ。

千夏先生もさすがにその空気に気づいたのかとぼとぼと下を向いて廊下に出て行った。クラスメートのため息が聞こえる。

千夏先生を庇うわけじゃないけど、とりあえず同じ人間としてこういう奴は嫌だった。

俺は我慢の限界が来て立ち上がってそいつの首根っこを掴む。その青年はびっくりしたような表情を作った。

辺りにどよめきが起きる。俺はそれでもそいつ一人を睨み続けた。

「てめえ…先生をなんだと思ってんだよ」

「ひぃッ!」

想像以上に情けない。ぶん殴ってやるつもりだったが、首根っこを掴んでいるこっちが馬鹿らしくなってきた。俺はそいつを前に払って周囲を軽蔑した。そんな時、後ろから声が聞こえてくる。

「まあ、朝からあんな思い出話する千夏先生が悪いじゃないか。こんなお土産、誰も欲しいなんて言ってないのにさ」

俺は「あ?」

後ろを向いた。そこには余裕そうに笑みを浮かべる学級委員長が足を組んで座っていた。俺はそいつを睨み付ける。

「生徒と仲を深めるのは、教師として当然のことなんじゃねえのかよ」

しかし学級委員長は顔を引き攣らせて言った。

「そんな事、俺達は望んでいねーんだよ。そんな事をするくらいなら、授業してくれた方が好都合だ」

「俊哉ァァッ!ぶっ飛ばすぞコラァァ!」

俺が学級委員長の襟首を掴んで上げると、そこで前のドアが勢いよく開いた。朝に比べて、勢いが増している。しかしそこから顔を出した人物はなにも変わらなかった。

「…昨斗君」

「先生」

俺は学級委員長から手を離して先生と向き合った。先生の息は荒い。このクラスから人は出ていないから騒ぎを聞いた他クラスの人が連れて来たのだろう。

俺は沈黙の中、ただただうなだれる事しか出来なかった。

「昨斗君、どうして…」

こんな事をしたの。

先生の言葉の先は分かっていたが先生の口からは言葉が出てこなかった。代わりに、目元から涙が零れた。

先生の初めての泣き声にクラスの空気が固まった。学級委員長でさえも、言葉を失っている。

俺には動くことさえ許されていない気がした。

沈黙が、生まれる。俺にとって最も辛い沈黙だった。

そこで先生の口から一言小さな言葉が、ぽろりと確かに溢れ出てきた。

「…昨斗君、生徒指導室に来てください」

俺は頷いて先生に付いて行った。俺の通り道にいる生徒が道を開いて行く。俺はただただ気にする様子もなく先生にしては小さな背中を見つめて歩いた。俺の目の前を歩く小さな背中は、定期的に小刻みに震えていた。

俺は歯を食いしばりながらデジタル表示の腕時計を見る。

そこには7月22日と大きく光って表示されていた。



窓の外には美しい夕焼けが広がっていた。約8時間、千夏先生と生徒指導の先生とつきっきりだった。生徒指導の先生は怖い怖い面で「あ、死んだわ俺」と思ったが、案外理屈は通る相手で殴られる事もあったがなんか最終的には生徒と教師の友情のようなモノも芽生えた。空腹で飢えて死にそうになった時にカツ丼の大盛りを奢ってくれたのもその人であった。

有名な進学校ともあり、俺は一ヶ月程度の停学を待ち構えていたのだが、案外甘く明日から来ても良いということだった。ヒーロー気分で叫んだのは後悔してはいないが、最終的に司やアリスに迷惑をかけたと思えばいたたまれなかった。

そこで俺は横を無言で歩く若教授に申し訳なさそうに声をかけた。

「すみません、先生」

先生は返事をしない。だけど俺の隣で握っていた左手の握る力が強くなったように感じた。

先生は俺を向いて、小さな声で言った。

「本当に、君の悪口を言われた自己防衛でクラスメイトを殴ったの?」

俺は頷いて故意的に馬鹿にするように言った。

「何度もそう言ったじゃないですか。俺は自分の事以外を考えれるほど器用な人間じゃあないっすから」

「器用とか、器用じゃないとかじゃなくて、私は貴方が誰かを庇っているようにしか見えないの。さっきのお話の結果ね」

「俺が庇うなら、きっと自分かアリスだけですよ。アリスだけは…必ず庇うつもりなので」

俺は自分の手を開いたり閉じたりした。すると、俺達の前に手を大きく振る女の子が映る。それはアリスだった。

俺達はアリスの元に歩く。アリスは笑って俺を見た後、心配そうに千夏先生に聞いた。

「昨斗の扱いは、これからどうなるんですか」

千夏先生は心配しないでと言う風に笑って手を振った。

「大丈夫、なんの処分もなされなかったよ。明日から学校に来れるね、昨斗君」

千夏先生の目は何故か淋しげだった。俺は気づかないように視線をアリスに向け、思っている事を口にする。

「待っていてくれたのか。今日の下校時刻はもう過ぎてるっていうのに」

「うん、昨斗と帰らないと、一日が終わる気がしないしね」

意味の分からないことを言うアリスに自然に頬が緩む。ずっと狭い部屋にいたからなんだか久しぶりに脱獄した犯人の気分だった。

「じゃあ、先生はこれから今日中にしなければいけない課題が沢山あるから戻るけど良いかな?」

俺は頭を下げて言った。

「今日は申し訳ございませんでした。これからは、行動に気をつけようと思います」

「もう絶対にしないって約束して。もう私のお友達がそんな事をするなんて、私には、堪えられないもん…」

千夏先生の目からまた涙が溢れる。それを見てると、なんて自分が馬鹿な事をしたんだろうと本当に思ってしまった。心から反省した時などいつぶりだろうか。いや、そもそもあっただろうか?

「先生、だけど、これからはもう教室に来なくていい」

「…え?」

千夏先生が悲痛そうな表情を浮かべる横で、俺は首を横に振った。

そして俺は下を向いて呟いた。

「忘れてくれ、先生」

俺の声がやけに夜の学校に響き渡った。千夏先生も下を向く。そして下を向きながら小さく頷いて見せた。

俺は後ろを向いて笑った。

「やり直せるなら、やり直したいよ。今日をね」

俺はそう言うと返事も待たず校舎の出口へ歩いて行った。

校舎の門の側に、烏が一匹車に跳ねられたらしく横たわって死んでいた。それはまるで血という泉に浮かんでいる黒い白鳥の様だった。




「今日は大変だったねー昨斗。全く千夏先生を馬鹿にしちゃって私俊哉嫌い」

「俺も嫌いだよ、こんな学校ごとな。早く卒業してーよ」

「昨斗なら、今受験してもきっと東大受かるでしょ?ならもう学校来なくて良いんじゃない」

俺はため息をついてアリスを見た。

「俺が来なくちゃ、誰があのロリ先生を庇護するんだよ。そりゃあ司はするだろうけどよ。司への負担がでかくなるのは間違いねえ。だったら最初から半分負担を背負ってやるっていう優しさよ」

「まあそう考えるとそうだね。千夏先生、これからもこんな扱いを皆から受けるのかな…」

アリスがあまりにも淋しそうに言うので俺は顔をしかめながら言った。

「それはクラスの奴らに直接聞くしかねーな。よければアリス、お前聞いといてくれよ」

「え、なんで私?」

「だって俺が頼れるのはお前以外に司しかいないしよ。その上、司は騒ぎをよく起こしてるから信頼が薄いからな」

アリスは俺がそう言うと納得したように言った。

「わかった、明日にでも最低限聞いてみる。だからまた明日ね」

ようやく俺とアリスが別れる交差点が見えてきた。今日も相変わらず車の通りは多い。それでこそ、俺達の普段の街だった。

そこで、俺は無意識に突然思い出した質問を口にした。

「アリス、変な事一つ聞いて良いか?」

俺がそう言うとアリスは首を傾げて俺に言った。俺は自分でもどうしてこのような事を聞こうと思ったのか分からなかったが、それでも俺は冷静に聞いた。


「もし明日世界が終わるって分かったら、お前は一体今夜何がしたい?」


「ど、どういうこと?」

アリスは全く問いの意味を分かっていない様だった。まあ仕方ないだろう。俺自身、なんでこんな質問をしたかなんて分かっていないのだから。

俺は一体、世界が滅亡する日の前夜、何をするのだろうか。

全く、全く分からない。

俺が自問自答していると、アリスは当然というふうに自分のしたいことを指で数えながら並べはじめた。

「家族と一夜を過ごしたいし、美味しい食べ物が食べたい。色々なお願いはあるけど、私が一番望むのはやっぱり…」

アリスが言葉を止める。俺がなんだろうと思ってアリスを見つめると、アリスは俺を指差しながら嬉しそうに言った。


「真っ白なドレスを着て、赤色のスーツを着た昨斗と、舞台の上で踊りたいな」


いきなり意味の分からない返事をされ、俺は自分とは思えない変な声を上げた。

「踊るぅ?」

アリスは俺が馬鹿にしたように感じたのか、頬を膨らまして手足をバタバタと動かしながら言った。

「踊りたいのは、私の夢なの。素敵な踊りで、観客を魅了してみたいなって思う」

「俺とアリスでか?」

俺がもう一度聞き直すと、アリスは頷いてこう言った。

「そうだよ。きっと素敵な舞台になると思うんだ。昨斗はどう思う?」

「知らねえよ」

そっけなく言うと、アリスは俺の腕をつっついてくる。痛みを感じない様にしてくれているのか、実際に力が弱いだけなのか突かれているという感覚さえも感じないような柔らかい突きだった。

「観客にとって下らない舞台でも、俺らからすれば過去最高の時間になるだろうからな。何とも言えねえだろ」

「昨斗のそう言うクールな所、好きだよ」

アリスの斬新な告白に頭を掻いていると、突如そんなほのぼのとした空間に悲鳴が響き渡った。

女の人の甲高い悲鳴である。

俺達が現実に返りばっとそちらを向くと、ベビーカーがスクラーム状態で車道に走り出てしまっていた。

不注意か、事故か。

このままなら確実に轢かれる。

俺はそう感じると、何の躊躇いもなく手摺りを踏みそちらに駆け出していた。

そこで自分の馬鹿さに気づく。だけどもう止まれない。止まらない。

アリスが必死に制止の音を叫んでいる。しかし俺には何を言っているのか分からなかった。

車のスリップ音。そして止まるはずもないのに無駄なブレーキでタイヤが地面を擦る匂い。トラックはベビーカーにようやく手をつけた俺に向けて、速度を落とさずに進んで来ていた。

ダメだ。死んだ。

確実に神経全てが俺の最期を実感させようとしてきた。

このまま、死ぬのか?

俺は右手を強く強く握りしめる。

このまま、俺は何も出来ないのか?

俺は歯を食いしばった。

世界がゆっくりと回る。

が、俺の脳は理想以上に回転していた。

何か出来ないだろうか?悩む。悩む。

いまだ速度を落とさないトラックはもう俺の目と鼻の先にあった。

間に合わない。

俺の命は、もう。

轢かれて内蔵をスクランブルエッグにして死ぬのだろう。

ああ、もっと綺麗に死にたかった。

だったら、最期まで抗おう。

最低限の命を救うため。

助けようとした子供を救うため。

俺は自分の横にあるベビーカーを必死に後方へ蹴り飛ばした。

ベビーカーはタイヤを回転させながら、転倒。

それでもどうやら命は救われた様だった。

あとは、この人生だ。

ああ、本当に最悪だぜ。

サヨナラ、アリス。

ありがとう、アリス。

こんな馬鹿でマヌケな人間を、愛してくれて。

心から、思ってくれて。

俺は死の直前意味の分からない感傷に浸っていると、突如間に影が入り込んだ。

それが何か気づく前に鈍く激しい衝突音。

俺の体が宙に投げ飛ばされる。

空、飛んでるよ俺。

そして地面を何度も跳ね、骨が折れたような痛みが全身を回ったにも関わらず、俺は有り得ないという表情を崩さなかった。

周囲から俺が轢かれた事への悲鳴が響いた。俺は大丈夫だ。血だって出てやいない。

それより、それより…ッ!

俺は意識を手放す寸前、遠くで倒れるシルエットに必死に手を伸ばした。

勿論届くはずもない。

俺の手はそれに触れることも出来ず力尽きる。

俺は遠くなる意識の中で、必死に叫んだ。


「…アリス」


俺は小さな歎きとともに、気を失った。

最後に見えたのは、頭から泡のような血を浮かべて倒れる、地面に横たわったアリスの姿だった。

その手首につけられた血で画面を真っ赤に染めた腕時計は、ご主人の状態など何も関係がないとでも言うように平然と7月22日という日付を表していた。




『踊れ!』

俺は狂ったように踊っていた。視界の背景だけがかわる。目の前の優雅に空間を滑るように踊るアリスはなにも変わらない。

彼女の手を離す。すると彼女は慣れているように一回転し俺の手首を掴んで顔を近づけた。

『踊れ』

彼女をさらに回転させる。すると美しい短髪が軌道を描きながら回転する。シャンプーの匂いが舞った。

懐かしい、今になっては二度と感じることが出来ないようなシャンプー。

気づけば俺は笑っていた。

アリスと踊っているというこの不可思議に。

アリスはそんな俺を見て一歩も足元を遅らす様子もなく言った。

「昨斗、案外上手だったのね」

俺はアリスを自分の胸元に持って行きながら言う。まだ踊りは続いていた。

「それはお前にも言えることだ」

また無言になり二人はどこからか流れてくる曲に合わせて踊った。彼女の指先が、俺の頬に触れる。

それだけで涙が出そうだったが、必死に俺は堪えた。だって、今は舞台なのだから。泣きたければ後で泣けばいい。

アリスを抱きながら、思う存分泣けば良いのだ。

だが、今俺達は舞台にいる。観客は俺達を眺めている。

なら、その観客達に見せてやろう。この残酷な足取りを。

そう、この世界がいかに美麗で、残酷かということを。

『踊れ』

アリスが舞う。俺はそのアリスの手を離さないように掴み、もう一方の手も掴んだ。アリスから可愛い声が出る。

だが、アリスは表情とは関係なく体が動いているようだった。

「踊らなくちゃ、私、踊らなくちゃ」

「…アリス」

「過去に、戻らなくちゃ」

アリスはそう言ってまた音楽に耳を傾け泳ぐ様にして空間を自分の物として踊り直した。俺はただヒロインの手を取り足を取り、ヒロインのこの美しく切ない花を咲かし続けた。

音楽は続く。何時までも。

これは7月24日の出来事だった。




目を覚ますと、視界いっぱいに真っ白な景色が映っていた。染みなんて一つもない、どこかの壁の様だ。

俺は我に返り一気に起き上がった。そして辺りを見渡すと、そこは病院だった。

生き延びたんだ。俺、生き延びれたんだ。

俺はほっと頬を緩ませ、隣で眠る少女のような女性に声をかけた。

「…先生」

千夏先生はようやく起きた様で起き上がって笑う俺を見ると涙を零した。俺に抱き着いてくる。柔らかい小さな手で。

「お母さんや、お父さんは仕事に行ったみたいなの。私、本当にしんどかったんだから…!」

「千夏先生、ごめんなさい」

俺が頭を下げると、千夏先生は泣きながら有り得ないことを呟いた。

俺はそれを聞いて、一瞬フリーズした。

「有栖ちゃんと昨斗君が轢かれたって聞いて私もう本当に…」

「せ、先生。今、なんて言いました?」

俺が顔を引き攣らせながら聞き返すと、千夏先生はまだ涙を拭きながら言った。

「有栖ちゃんと、昨斗君が…」

「アリスは、今どこに!?」

俺は千夏先生に叫んだ。唾が飛ぶが、そんなのを気にしている時間はなかった。

俺がそう言うと、千夏先生は上を指差した。上の階だろうか。

この病院はきっと近くの大きな大嬢病院だろう。大嬢病院は、下の階になるほど重傷者が集まる仕組みなのだ。ここから外を見ると多分俺がいるのは三階なので俺はかなり重病者扱いをされているらしい。

つまりアリスは俺より軽傷であるということだった。良かった。本当に安心した。あの時垣間見えたアリスの倒れる姿は、やはり心配性の俺の夢に過ぎなかったんだと俺は肩の力を抜いて呟いた。

「安心しました、アリスが俺より軽傷で」

俺がそう言うと、千夏先生は下を向きながら小さく首を横に振った。俺はそんな千夏先生を恐怖の瞳で見つめる。

今まで生きてきた中で、最も千夏先生が怖かった。千夏先生を可愛いと思ったことはあっても怖いと思ったことはなかった。

それに今だって千夏先生が怖いんじゃない。千夏先生の口から告げられる真実が怖いのだ。

俺の恐怖に答えるように、千夏先生は涙声で言った。


「有栖ちゃんは…有栖ちゃんはッ!ずっとずっとお空に、行ってしまい、ました」


俺の顔から笑顔が消える。そんな、馬鹿な。

俺の身勝手のせいで、アリスが死んだ?

俺の勝手な判断で、アリスが死んだ?

「それはない、それはないぜ先生。止めてくれよ、そんなの、嘘だろ?分かってんだよ嘘って、ハハハ、なあ?」

千夏先生は頷かない。その答えとして千夏先生は言い放った。

「今ちょうど、有栖ちゃんの葬式がやってるの。司君は、うちのクラスで唯一行ってる。あ、先程俊哉君も行ったみたい」

俊哉。俺達の学級委員長。あいつが、どうして?

「ほ、本当なのか先生」

「うん、本当よ。私も、行かなきゃ。昨斗君も、準備をして。車椅子で向かいましょう」

「や、止めてくれ先生。どっきりなら、どっきりって言ってくれよ。なあ、そうだろ先生。教え子をさ、こんなに不安にさせて何か楽しいのかよ」

俺が頼むように千夏先生に言うと、千夏先生は叫ぶように言った。

「いい加減にして、昨斗君!…もう、現実を受け入れて。私だって信じられない。でも、現実を見なきゃ」

俺は今度は自虐的な笑みを浮かべる。アリスは、もう死んだんだ。そう思うと人の前では泣いた事のない俺でも涙が溢れてきた。

いつも俺を見てくれた優しい垂れ目。

俺の手とよく握りあった柔らかくて小さな手。

彼女の見れば触りたくなってしまうようなサラサラの髪の毛。

それら全ては今となってはまるで幻のように感じてしまった。

アリス、君がもういない。

未来を誓い合った君がもういないのか。

なら、この世界になんの意味がある?

なんの、意味が?

俺は重いっきり自分の脚を叩いた。どんと音がして鈍い痛みが手と脚から流れ出てくる。それと同時に涙も溢れてきた。

「アリス、どうして、どうして…!」

俺の歎きを聞いて、千夏先生は苦しそうに目を閉じた。

轢かれた直後のアリスが俺達が門を出るときに見た烏と相似していた事が、ただただ見苦しかった。




終幕の鐘が鳴った。7月24日の特別の舞台が終わる。観客の人々は歓喜の声を上げながら観客席から出ていき、舞台には俺とアリスだけが残った。

俺が平然とアリスを見つめる前で、アリスは息を荒げながら言った。

「お疲れ様。そしてお久しぶり」

「おかえり、アリス」

アリスは首を横に振った。

「私は帰っていないわ。まだ、まだなの。まだ、過去まで戻れない」

「過去に、戻る?」

「そう、踊れば、私たちが踊れば、きっとまたやり直せる。あの時を、始めから」

アリスはそう言って付け加えた。


「だって、私達の踊りは時空を越えるもの」


俺は頷いて言う。

「もっと踊れば過去に戻れるのか」

「ええ、必ずやり残したことを出来るわ。それなら、私は大満足」

「やり残したこと?」

「ただ今は、踊りましょう。何も考えずに、相方を思いながら」

俺はアリスの手を掴む。その反対でアリスは体を俺に預ける。


「ただ今は、踊って踊って踊って踊って踊って踊って踊って踊って踊って踊って踊って踊って踊って踊って踊って踊って踊って踊って踊って踊って踊って踊って踊って踊って踊って踊って踊って踊って踊って踊って踊って踊って踊って踊って踊って踊って踊って踊って踊って踊って踊って踊って踊って踊って踊って踊って踊って踊って踊って踊って踊って踊って踊って踊って踊って踊って踊って踊って踊って踊って踊って踊って踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊踊り狂いましょ」


小さな舞台の中で、一組の少年少女は誰にも見られていないにも関わらず踊りつづけた。その踊りは、美麗で、素敵で、神秘的で。そして見ている人の頭が狂いそうな不可解な舞だった。

踊る。踊る。

馬鹿な話だが、踊りつづける。

過去に戻れると信じて。

巻き戻れ、あの過去へ。あの時へ。


狂った二人と共に舞台の上にある真紅の時計は通常より早く回り出す。

違う、時計が進んでいるんじゃない。


その時計は、その時空は、戻っているのだ。


一時間、二時間、そして半日と。

時が戻って行く、時計が巻き戻されて行く。

その事に気づいているのは、最も踊り狂う少女ではなく。

真っ赤な血の色のスーツを着た青年であった。


やがて二日分時計が逆戻りすると、時計は音を立てて粉砕した。

だがその音は二人には届かない。今日の舞台の主役には、届かない。


二人は、そんな事も知らず踊る踊る踊る。


気が狂いながら踊り続けた。


その時アリスの手首についている彼女お気に入りの腕時計は舞台の光の中で、7月22日と示されていた。




「どうしたの?昨斗君。こんなところでぼーっとして」

俺は我に返って辺りを見渡した。廊下が見える。俺はどうやら廊下に突っ立っていたようだった。

それに、俺を呼んでいるのは千夏先生である。

俺は重い首を何とか千夏先生に向けて言った。

「…先生…おはようございます」

「うむ?昨斗君今日はテンションが低いじゃない!どうしたって言うのよもう」

空元気だろうか。千夏先生はやけに元気である。それほどまで自分が気を使われる存在であったのかと思うと自分が情けなくなってきた。俺は千夏先生の頭を軽く突いて半笑いで言った。

「どうして俺は今日、学校に来たんでしょうかね…」

千夏先生は困ったように俺を見つめていた。その困った顔は心から困った顔であり、俺は少し焦りながら言葉を少し変えて言った。

「本当に、俺の代わりにアリスが来てたらどれほど良かったことでしょうか」

俺はそう言い放って下を向いた。こんな事言って何もならないなんて事は分かってる。でも俺は誰かにこういうことを言わないと我慢できなかった。

それほどまで俺は弱い生物だったのだ。何故今まで気づかなかったんだろう。

昔アリスに俺以上に度肝の座った人はいないと言われたことがあった。何故、何故俺はその言葉に満足してしまったんだろう。俺がもっとも度肝の座った人間だと確信してしまったんだろう。俺なんて、結局は誰かにしがみついていないと生きていけないような人間であることは解っていたはずなのに。

ベビーカーを守るために飛び出した時だって自分の正義のままに飛び出せたら良かったのに、アリスが飛び出る直前になんで誰も俺のように飛び出さないんだろうと周囲の人々に怒りを覚えていた。

そんな自分がどれほど今まで嫌いだっただろう。

学級委員長も好むような奴じゃなかったが、それでも俺は一番自分が嫌いだったはずだった。それなのに、アリスに…。


アリスに、微笑まれただけでどうして自分が誇り高い存在だと過信してしまったんだろう。


俺が俯いたままでいると、千夏先生はまるで俺が何を言っているのか分からないという風に首を傾げた後、俺の手を取ってすたすたと歩き始めた。決して俺が抗えないほど強い力ではないのだが、俺は別に何も抗う必要なんてなかったので千夏先生に連れられるままに教室に向かう。

千夏先生はしばらく無言で歩いていたが、ふと俺に言い放った。


「アリスちゃんは、風邪か何かになったの?」


俺は言葉を失った。この教師は何を言ってる?

「せ、先生。俺はもう、駄目なんですよ」

千夏先生はそれでも何も分かっていないように微笑んで俺に言った。


「疲れでも溜まってるの?なら早寝が一番良いらしいよぉ」


この教師は本当に何を言っているのだろうか。気でも狂ってしまったのか、それとも単なる現実逃避なのか。千夏先生なら前者だと思い、俺は千夏先生のデコに手を当てて熱が無いかを確かめてみた。あいにく千夏先生の熱は無いようであったが、千夏先生は自分が子供扱いされたと感じた様で、頬を膨らましながら俺の手を払った。

「教師の頭を撫でる生徒が一体どこにいるっていうのよ」

俺は顔を少し赤めながら前で手を振って否定した。

「いえ、てっきり熱があるかと思いまして」

千夏先生はご立腹の様子だったが、目を閉じて後ろを向くと背中越しに俺に小さく呟いた。


「そんな事してたら、アリスちゃんに怒られてしまうでしょう」


《やめてくれ》

俺は千夏先生に手を伸ばそうとした。

《千夏先生》

俺はしかしその手を引っ込めた。

《どうして…ッ!》

俺はその場に崩れ落ちた。

遠くで体育のホイッスルの音が聞こえた。それに吊られる様に、どこかで聞き覚えがあるような陽気な音楽も頭の中に流れてきた。

どこかで聞いたことがある。そう、どこかで…。

「昨斗君、昨斗君大丈夫!?」

千夏先生の声で俺は我に返った。何だったんだろう、あの音楽は。どこかで聞いたことのある名残惜しいような音楽だったのだが。

「…だ、大丈夫、です。それなら、千夏先生だって一度頭を休めた方が良いと思います」

「え、え?」

俺は今だズキズキと痛む頭を抱えながら教室のドアを開けた。千夏先生が入ってくる様子はない。ただただ俺の言葉に放心しているようであった。

俺が千夏先生の方を向きながら教室の中に入ると、俺は何物かの衝撃によって壁にたたき付けられた。どうやら誰かにぶつかられたらしい。

余程の衝撃であったから故意的な突撃であろう。

それにしても悪意のある衝突だなと思いながら顔を上げると、俺はそこで本日二度目の目眩を感じた気がした。


そこには衝突の反作用で転ぶ際にお尻をぶつけ、お尻を痛そうに摩るアリスがいたのだ。




「でね、私のレベルが46だとすると多分昨斗のレベルは90OVERだと思うんだけどね?」

「アリスさん、授業中によそ見は止めてください」

「ほほほーい」

俺は心霊は信じない。証明できる事しか信じないタイプなのだ。だからUFOも丸い空飛ぶ円盤も信じない。

だけどこれが心霊現象やオカルトのひとつだとするのなら、俺はこれからもオカルトを信じて生きて行きたいと思う。

アリスがいたのだ。

ごく平然と日常に溶け込むように、アリスは笑っていたのだ。

また会えた。

だけど、その喜びの思いに反面、これが本当にアリスなのかという疑心暗鬼はあった。たしかにこれがアリスであるとすれば、あの時の千夏先生の態度は合う。それに時計を何度確認しても、今日は7月22日だった。

どうやら信じ難いが俺は記憶を残したまま過去にタイムスリップして来たようだった。どうやってタイムスリップしたのかは覚えていない。タイムスリップの儀式のような事をしているその瞬間は、まるで靄で隠されたように思い出せないのだ。

ただアリスがここにいるという事実は変わらなかった。アリスはここにいる。これが夢であろうとなんであろうと、アリスはここにいるんだ。

頬っぺたを抓っても目は覚めない。アリスの頬っぺたを抓っても同じ事だった。

「ねえねえ昨斗。さっきからなんの考え事をしてるの、ねえ」

アリスが俺の机をぺしぺしと叩いてくる。それは本当に懐かしい情景だった。

俺は何時までも悩んでいては意味はないと思い、アリスに直接質問することにした。もし幻なら、答えることが出来ないような質問も加えて。

「おいアリス、お前の好きな食べ物はなんだ」

「どうしたの急に」

「いいから答えろ」

「アルフォート!」

俺の情報通りである。この際俺が知らないことまで聞いてやろうと思いながら俺は口を開いた。

「昔拾った犬につけた名前はなんだ」

「チビ介!」

「魔法少女といえば?」

「まどかマギカ」

「この世で一番好きな物は?」

「昨斗の作ってくれる卵焼き!」

俺より俺が生み出す卵焼きの方が位が上なのかよと思いながら俺は小さく頷いた。正真正銘こいつはアリスである。しかしこれは俺の夢かもしれない。夢だとすると確かめるのは困難だ。どうしようか…。

「ねえねえ昨斗、それなんの調査?」

「あー適当だ」

「ええーなんなのよもう」

アリスが拗ねたように俺から目を反らしたので、俺は弁解するようにアリスに話し掛けようとすると、とうとう教師の堪忍袋の緒が切れた様で俺の机に向けてチョークが二本ほど飛んできた。飛んできたチョークは一度きり俺の机で跳ねるとすぐに粉を飛散させ、俺のノート類を真っ白に染めた。

「アリスさん、昨斗君。廊下に立っていなさい」

俺は半笑いで授業中に俺の席を後にした。




「廊下に立たされたのなんて久しぶり。ねえ、昨斗はどう」

「まあ久しぶりっちゃ久しぶりだな。こうしてお前と廊下に立つのは初めてだろ」

「まあそうだろうね。私、昨斗と違って問題児じゃないし」

俺はため息をつく。そこでアリスは俺の顔を覗き込んで不思議そうに笑って見せた。

「ねえ、どうして昨斗笑っているの」

俺は自分の頬を触った。どうやら頬が勝手に緩んでいたようだった。馬鹿みたいだな、なんか。

「俺はずっとアリスに会いたかったんだ」

アリスは俺の台詞に恥ずかしそうに俯いた後、陽気に言った。

「全くもう、困った人だなあ。日曜日を挟んだだけで私が恋しくなるなんて」

「そう、経った一日だったよ。アリスと別れてから、たった一日だった」

俺は笑みを浮かべながらなるべく冷静に言い放った。


「だけどその一日はまるで永遠のように長かったんだ」


「どういうこと?」

アリスが首を傾げる。そこで俺はアリスには理解出来ないような言葉をわざと続けた。いや、誰にだって理解出来ないだろう。そんな簡単に俺の心を理解されてたまるものか。

「俺はアリスが大好きなんだ」

言葉を並べる。ずっとずっと伝えたかったことを。アリスの驚いた顔を内心で笑いながら、戸惑うアリスを前に俺は爽快な笑みを浮かべたまま言った。

「だから、ずっと俺の側にいてほしいんだ」

俺がそう言い終わるとアリスは嬉しそうに微笑み、俺の右手を両手で包み込んだ。俺が少し戸惑いながら前を見ると、彼女の顔は真っ赤になっていた。

「私だって昨斗が大好き。だから、ずっと私の側にいてね。私から、離れて行かないでね」

俺は満足そうに頷き、少し顔を背けながら小さな声で言った。


「なら、さ。キスしても良いか」


沈黙。俺の言葉にアリスが黙り込んだのだ。俺がアリスの方を向けないまま時間が経って行く。

そこでアリスはゆっくりと口を開いた。

「…昨斗」

俺はこれ以上アリスの言葉が続かない事を悟り横を向きながら言った。

「なんだよ」


「キス…する?」


俺は吹き出した。普段のアリスから出たとは思えないような大人びた声が聞こえたからだ。

「ど、どうして笑うの!」

「いや、お前らしくないなって思っただけだよ。なんか、大人びてるって言うか、なんていうか」

アリスは頬をふくらませながら俺の両頬に手を当てた。そのせいで俺の視線がアリスに釘付けになる。そこでアリスは今までには見せたことの無いような表情で俺に言った。

「タイミングは昨斗の好きにして」

そう言ってアリスは俺に背伸びをして顔を寄せた。アリスの調った顔が急に近づき俺は顔を引き攣らせる。その表情も目をぎゅっと閉じたアリスには見えない様だった。

俺はアリスに顔を近づけた。この際キスをしてしまおう。キスをすれば全てを忘れることが出来るだろう。だから、今は全てを忘れてこの柔らかそうな唇に全てを…。

そう思いながら彼女に顔を近づけると、俺の頭は急にフラッシュバックを起こした。


鈍い衝突音。


ベビーカーが転倒する音。


そして頭から泡のような血を浮かべて倒れる、地面に横たわったアリス。


…。


「駄目だ、アリス。俺には出来ない」

俺がそう言うと、アリスは悲痛そうに目を開けた。

「昨斗は、私とキスするのが嫌なの?」

「違うんだ、そういう訳じゃない」

「ならどうして?」

俺はアリスを押しのけた。そこでアリスは下を向いて小さな声で何かを呟こうとした。

「昨斗は…」

そんな時、前のドアが急に開いた。てっきり教師が出てきたのだろうかと思ったが、そこから出てきたのは誰が想像することが出来るであろう、学級委員長の俊哉だった。

俺はその出て来た本人に声をかけた。

「お手洗いか」

「いや、寝てたから立たされなきゃなんねーんだよ」

俊哉は不満そうに言うと俺の横に座った。所謂胡座座りというものである。俺はそんな俊哉に軽口を叩いた。

「お前が寝るなんて珍しいな。それに今日の授業は大切じゃあなかったのかよ」

「大切に決まってんだろ。大切じゃない授業なんてねーよ。もしあったとしても、その授業から大切な事を見つけるのが、俺達生徒の役目だからな」

「言ってくれるじゃねえか」

俺は半笑いで呟く。俊哉はその言葉になんの反応も見せずにただ地面に座っていた。アリスも何も話さないのでまた沈黙が生まれる。しかしその沈黙を破ったのは俺でもアリスでもなく俊哉だった。

俊哉は小さな声で言う。

「俺は、昨斗が羨ましかった」

「は?」

俊哉はようやく顔を上げた。俊哉の笑顔は初めて見た気がした。

「俺は、医者になりたい。だから今勉強してるんだ。なら、お前に夢はないのか?勉強をせずに、ふらふらしてばっかりで」

俺は窓の方向を向いて確認するように小さな声で言った。

「夢…か。ハハ」

笑ってしまった。夢なんて考えたこともなかった。ただただ今日のような平凡な日々が続いて、ただただ今日のような…。


「俺の夢は、明日も笑って過ごしている事だよ」


俊哉は俺のちっぽけな夢を聞いて薄い笑みを浮かべた。こいつはいつも何を考えているのかよく分からない存在ではあったが、今は特に何を考えて笑っているのかが分からなかった。

俺が座る俊哉を上から見下ろしていると、俊哉はふいに上を向いて呟くように言った。


「俺も、夢が見たいよ」


「なら、夢を見るしかないよ」

アリスが不意に話し出したので俺と俊哉はオロオロしながらアリスの方を向く。アリスは真剣な瞳で俺を見ていた。

「夢を見たいなら夢を見ようと努力するしかないの。諦めないで。俊哉君も必ず、夢を見ることは出来るはずだから」

「アリスさん、ありがとう。でももし俺に夢を見ることが許されるのなら、必ずそれは昨斗とは違うと思うんだ」

俊哉は一拍置いてから言葉を続けた。


「もし今日が続くなら、それは俺に取って拷問の様だから」


俺とアリスは黙り込む。残ったのは、俊哉の自虐的な笑いだけだった。一通り笑い終わると、俊哉は落ち着いてこう言った。

「良ければ、今日から俺もお前達と仲良くさせてくれないか」

「仲良く?」

「いや、語弊があったな。千夏先生を、守ってあげたいんだ」

俊哉は下を向いたまま呟いた。俺はこいつが何を言っているのか分からず黙っていると、俊哉はとぎれとぎれに言った。

「千夏先生、一昨日貧血で倒れたみたいなんだ。なんでかは確定では分からないんだけど、きっと俺達のクラスから生まれたストレスだろうな。校長もそう思っていたみたいで、千夏先生に転校を勧めているらしい。仕事も完璧にこなすし、先生交流もいい千夏先生に転校を進めるなんてよっぽどの事じゃないかな」

「千夏先生、貧血を起こしたのか」

「ああ。で、校長の勧めに千夏先生はなかなか首を縦に振らないみたいでさ。俺的に無理はしてほしくないんだけど千夏先生、なんかよく分からない薬も飲んで頑張っているみたいだしさ」

俺は落ち着いて言った。

「お前でも分からない薬もあるのか。まさか覚せい剤とかじゃないだろうな」

「千夏先生は覚せい剤なんかに手は染めないだろ。まあ、人間死まで追い詰められたら何にでも縋るっていうけどさ」

「千夏先生がそんなのに手を染めてない事を祈るよ。ところで、今日から千夏先生を守るって言ってるけどどうやって守るつもりだよ」

「そんなの知らねえよ。お前の無駄に発達した脳みそで考えやがれ」

俺は笑って地面を見つめた。


「今日の放課後,司も加えて相談会だな」


アリスと俊哉は俺の提案に満足そうに頷いた。




「それにしても千夏先生って可愛いよね!生徒で千夏先生の事好きな人だっているんじゃないの?」

時はそれから二日後。今日も千夏先生の為の会議を終えた後の帰宅時である。みんながだんだん俊哉と話す事に慣れてきたところでついにこの時を迎えてしまったなと心の中で深く思った。

「昨斗,何か考え事?」

「いや,そういう訳じゃないんだけどさ,ハハ。千夏先生,最近落ちついてきたなって思ってさ」

「まあそれは確かに言える事だな」

俺の言葉に俊哉が満足そうに頷く。俺がそんな俊哉に話しかけようとすると,俺の顔はそこで固まった。


一度見たことがあるかのような錯覚を感じる。しかしそれはデジャヴの様でありながら実際は確かな実体を持つものであった。なぜなら,それは本当に見たことのある風景であるからであった。

そこには,あの時見た時と何もかわらない烏がいた。真っ黒の血の海に浮かんだ烏が横たわっていたのである。

この烏を見た途端アリスは死んだのだ。そう思うと,途端にこの烏に対する意味のない怒りがぐつぐつと心の底で煮えたぎってきた。

そんな俺を見て,俊哉が心配そうに声を掛けてきた。

「おい昨斗。大丈夫かよ」

「あ,ああ。気にするな。最近眩暈が強くてな。ぼーっとしてる時間がよくあるんだ」

「眩暈?無理はするなよ。今日は真っ直ぐ帰って休む事だな」


「そうするよ。アリスもそうするか?」

アリスは急に話を振られて驚いた素振りを見せたが,すぐに小さく頷いて言った。


「昨斗が何処にもいかないなら私も行かないよ。今日は家ででもゆっくり休もうかな」

「そうか,なら直ぐにそうしてくれ」

「…え?」

アリスが俺の言葉を聞き直そうとした,そんな時。

過去の繰り返しは,過去のまま唐突に起きてしまった。


「誰かぁぁぁッ!止めてぇぇぇぇ!」


女性の叫び声と共に彼女の物と思われるベビーカーが車道に高速で走り出てきていた。あの時と何も変わらない。やっぱりそうなんだ。

決められた未来が変わるなんて

いうライトノベルのような展開は,この世にはやっぱり存在しなかったのだ。

しかしもう一度過ちを繰り返す事を促すか如く俺の中に潜む心は俺に声を掛けてきた。

『今ならまだ間に合うぜ。間に合えば,お前は英雄だ。英雄に成りたくねえのかよ』

確かに飛び出したら英雄である。救う事に成功したら俺は恩人にだってなれるんだ

それは確かに誇り高き事である。俺だって英雄に成りたい。


――でも,俺は未来を知っているのだ。


「赤ちゃんが!!」

ベビーカー向けて勢いのまま飛び出そうとするアリスの手くびを俺は力強く捕んだ。アリスがこちらを向く。その表情からは俺の行動への疑問が感じられた。しかし俺は一文字一文字大切にするようにアリスに言った。

「アリス,行ったら駄目だ」

アリスは涙を溜めたような瞳を俺に向けた。それだけで俺は辛くなり目を閉じ歯を食い縛る。

ゆっくりと流れる時空のなかでその流れよりもさらにゆっくりと彼女の口元から言葉が発された。

それはよく聞くと落ちついているようにも聞こえ,そしてよく聞くと深い思いが込められているようにも聞こえ,そしてなにより語りかけるような声であった。


「昨斗…どうして」


鈍い衝突音。ベビーカー車はそのままぶつかったのであろう。それはそれで目を背けたくなるような残酷な現実であったが,アリスが車に轢かれるよりはマシだと安心する自分が心の中にいた。

そんな自分は正義でも何でもないということを今迄俺は理解した。しかしそれが遅すぎるという現実から目を背ける自分も何処かにいるのである。そしてその事実から目を背けているのは他の誰でもない自分自身なのだということも悟らなければならなかった。

近くで赤ちゃんの鳴き声がして,俺はようやく我にかえった。赤ちゃんは無事だったのだ。あの状況から無事であったということは咄嗟に運転手が急ブレーキをかけたのだろう。運転手様様である。

そして今になってだが本当に飛び込まなくてよかったと思った。無駄死にをするところである。そうするとアリスを救ったという達成感が俺の心の中で広がって来た。

ひとまずは任務を達成したというところであろう。過去にもどってきて良かった。今なら心からそう思った。

そこで満足しながらアリス見ると,アリスは何かを見つめていた。一体何を見つめているのだろうか。

俺はそう疑問に思いながらアリスに声をかけた。

「アリス,どうかしたのか?」

アリスは無言で俺の後ろを指差した。もしかして,誰か俺のかわりに飛び出したのだろうか?

それなら気の毒だなと思いながらそちらがわを見ると,俺はそこで目視した信じ難い光景に言葉を失しなった。

その現実を前に立ち尽くしていたが,俺の口はごく自然的な動作で一つの疑問形を生み出した。


「…俊哉?」


そこには,頭から泡のような血を浮かべて倒れる,地面に横たわった俊哉の姿があった。




「昨斗くん,アリスちゃん。大丈夫?」

警察の事情聴取が終わってアリスと外に出ると,外で千夏先生が待ってくれていた。千夏先生は俺の肩を揺らした。

俺は頷いて呟くように言った。

「俺は大丈夫ですよ。それより…」

「じゃ,じゃあラーメンでも食べに行こう!私,心配しすぎてお腹すいちゃった」

「俊哉は死んじゃったんですか?」

アリスが明後日の方向を見ながら呟いた。俺はアリスを見る。

アリスの目は死んでいた。

「…アリスちゃん」

千夏先生はアリスを強く抱きしめた。俺は下を向きながら歯軋りをする。

その間もアリスの瞳は死んでいた。

「泣かないで」

そう言っている千夏先生自身が泣いていた。俺は悟って宙を向く。

俊哉…。

じわっという風にアリスの瞳から涙が溢れてきた。アリスは千夏先生の背中に手を回す。

そして二人は泣き合った。

ただ一人別の世界で黄昏る俺を置いて。

今日も天気は嫌みなくらい心地好い快晴だった。

遠くで蝉の鳴き声も聞こえた夏の出来事だった。




「じゃあ私は今から事情聴取を受けてくるから二人で待っててね。心配しないで。すぐに戻ってくるから」

それから暫くして千夏先生は可愛らしく手を振って警察庁の中に入っていった。その場にアリスと俺が二人残った。警察庁の敷地内だけあって静かで誰も通らないため俺たち二人の空間であった。

アリスは先程から黙ったままである。このままではいけないと思い,俺は擬古ちないながら話しかけた。

「…アリス,大丈夫か」

アリスはこっちを向いた。その顔さえも可愛いとこんな時に思ってしまう俺は馬鹿なのだろう。

「ねえ昨斗,一つ聞いていい?」

俺は頷く。するとアリスはゆっくりとしかし確かに言った。


「どうして昨斗,あの時私を止めたの?」


「どうしてってそんなのッ!」

「私が危険な道へ走りだそうとしていたから?」

俺は全力で頷いた。俺の首肯を見て,アリスは薄い笑みを浮かべて前を向いて言った。

「ありがと。でも,一つだけ聞きたいんだ」

アリスは俺を睨んで言った。その瞳は闇のような漆黒に染まっていた。

「私より俊哉の方が余程早く飛び出したのに,どうして昨斗は私を助けたの?俊哉が先に飛び出したという証拠はあるわ。なぜなら,私はベビーカーじゃなくて俊哉を助けようと思って飛び出したもの」

俺は驚きのあまり言葉を失った。アリスは言葉を吐き捨てるように続ける。

「私にとってベビーカーなんてどうでもよかった。友達が救われれば,本当にどうでもよかったの。どう?昨斗,私に絶望したでしょう」

アリスは笑っていた。その笑みはなんというか自虐的な笑みだった。

アリスは一度僕の方を向いた後,すぐにもう一度前を向いて寂しそうに呟いた。

「私のこと嫌いになっちゃったでしょう」


「そんな事あるものか」


俺は拳をアリスから見えない所で強く握りしめながら言った。言いながらアリスの両肩を捕む。

「言っただろう?俺はアリスが好きだって。アリスがなんであったって,俺はアリスの事を嫌いになったりしない」

「…昨斗」

「一緒に逃げよう,この決められた定めから。今から足掻いても遅くない」

俺はアリスの小さな右手を両手で捕んだ。アリスから可愛い声が出る。

「俺だって自分でも笑ってしまいそうなほど屑だ。俺は嬉しいよ。アリスが俺に対して本当の自分を打ち付けてくれて」

「私は…」

「僕は君が好きだ」

俺はアリスに爽快な笑みを浮かべる。アリスの頬が少し紅色に染まったのが目に見えて分かった。

「それだけでいいじゃないか。俺は何もいらないよ。アリス,君との愛が有れば」

俺はそう言い放ってアリスに顔を近付けた。今なら勇気を持てる気がした。

邪心なんていらない。ただ今はアリスへの愛が有れば十分だった。

目を閉じてアリスを待っていると目の前からアリスが微笑む気配がした。

そして俺の両頬に暖かく柔らかい感触を感じ,俺が目を開くとアリスが目の前で小さな涙を零しながら笑顔を見せてくれていた。

「私も昨斗が好き」

そう言ってアリスは無邪気に首を横にふった。

「好きなんて物じゃないわ。好きで好きで好きで大好き」

まるで二人だけの世界に移転したような気分になった。

「だからずっとずっと二人でいたい」

僕は立ち上がってアリスに背を向けながら顔だけアリスに向けて言った。

「なら行こう。逃げるんだ,このくだらない結末から」

「うん,そうしたい。私も,明日をみたいから」

俺は満足したようにアリスを見ると,そこで一つの曖昧な違和感を感じた。

何かが違う。何かがおかしい。

目を凝らしてよく見てみると,その曖昧な違和感が確実な違和感に変わっていった。

俺は信じられないというようにアリスに言った。

「…アリス」

「どうかしたの?」

アリスは言葉を失っている俺を不思議そうに見つめる。しかし俺は余りの非現実じみた現状に口を丸く開ける事しか出来なかった。

アリスは立ち上がって少し下から俺を覗きこんだ。そこで俺は何とか言葉を紡ぎ出した。


「アリス,足が……消えてる」


「え?」

アリスは自分の足を見て悲鳴を上げた。アリスの両足は血液もださずまるでアニメのように消滅していたのであった。現在進行形で太股へとその消滅は続いている。

「な,なによこれッッ!!」

アリスは足を触ろうとしたしかし反対に触ろうとした指先からまた消滅を始めた。俺とアリスが狼狽える隣で,アリスの消滅は続いていた。

そこで俺は叫び散らした。

「ふざけるな,ふざけるなぁぁぁぁッッ!!」

俺はアリスをがむしゃらに揺さぶった。アリスも俺にしがみついてなんとか消滅を防ごうとするが無駄であった。

「アリスぅぅッ!!」

「昨……斗」

アリス俺の顔に手を伸ばした。しかし肘まで消滅しており,その手は俺に届くことはなかった。


未来は変わらない。

かつてどこぞの有名な人が言った気がした。

もしそれになぞっているとするならば。

俺はそいつをぶんなぐってやりたい思う。

このような結末に導いた運命を。

心すむまで殴ってやりたかった。

結論未来は変わらなかったのだ。

たとえ踊って過去に戻ろうとも。

いくら足掻いたって。

意味のないことだろう。

この歪んだ世界には適わない。

そんなの分かってたはずなのに。

どうして俺は足掻こうとなんてしてしまったのだろうか。


「昨斗…諦めないで…!」

アリスの声がした。我に返るとアリスは俺に凭れかかっていた。

凭れかかりながら俺に必死に訴えてくれていた。

「逃げるんじゃなかったの…!この歪んだ世界から!」

「…アリス」

「私は信じてる…!さ,昨斗が必ず私の元にやってきてくれるって。私に会いに,来てくれるって…!」

アリスは涙目で必死に俺の方を向いて叫んだ。

「だから,だから…!」

アリスの消滅は胸まで来ていた。もうアリスはこの世界には上半身しか残っていなかった。

それでもアリスは足掻くように叫んだ。俺に思いを伝えるために。


「私に会いにきて…!そして私に…」


甲高い音とともにアリスは散った。血液など一滴も残さず完全に消滅した。

それは美しいといえば美しい,悲惨といえば悲惨な死にかただった。

まるで最期の言葉を隠すような消滅の仕方だった。

そして俺の足元にはアリスの死体が転がっていた。目を開いたまま,命つきていた。

俺はその場にアリスを置いてただただ走り続けた。

目的地などないまま。ただこの高まった鼓動を直すために。

そうして俺は歪んだ世界の中を一目散に走り続けた。こくこくと一人になる感覚を味わいながら。




駄目だ。一人になってしまう。

これは最悪の結末だ。そうに違いない。

戻らないと,過去に。アリスが生きていたあの美しい過去に。


『踊れ』


突如言葉が俺の脳内をよぎった。誰の声だ?


『女性と踊って。なら過去に戻れるから。でも条件がある』


俺はどこからか聞こえてくる女性の声に耳をすました。


『貴方は真っ赤なスーツを着て,相手の女性には真っ白なドレスを着させること。守らなければならないのはそれだけよ。後はただただ狂ったように踊りなさい』


俺は耳を塞ぐ。しかし声はまるで俺自身が話しているように明白に聞こえてきた。


『ただ,相方と踊りなさい。踊りくるえば,次の世界は見えるわ』


俺は目までつぶって聞かないように努力したが,そんな努力も馬鹿らしく女性の声はさらに明白に俺の中を響くように聞こえた。


『可愛いのね。でも大丈夫よ,私が必ず貴方を救ってみせる』


「止めろ!止めてくれ…!」


『もう遅いわ。貴方は一度この世界に手を伸ばしてる。それは取り返しのつかない判断だと知らずにね』


「お前は…!何をしたいんだよ!」


『何がしたい?そんな物はないわ。敢えていうなら,貴方たち人間のこの地獄に叩きつけたときの絶望した表情を見たいかしらね』


「…下衆が」


『貴方に抗う権利なんてないわ。これは私からの優しさだと受けとって。ただ今は私の言うことを聞いていた方がいい気がするなあ』


「…馬鹿か,そんな事をする位なら自殺してやる」


『踊ればやり直せるのよ。やり直せば,次こそ素敵な未来が待ってるかもしれないじゃない?』


「…」


『それとも,このまま永遠に一人で生きるの?』


「…あ」


『淋しくない?それくらいなら,何度だってやり直せばいいじゃない。私何か間違ったこといったかしら』


「何度もこの過去を?」


『そうよ。凄く素敵じゃない』


「でも俺にはもう踊る相手がいない」


『あ,いるじゃない。あの何て言ったけ?なんちゃら先生』


「…ッ!千夏先生でもいいのか」


『言ったじゃない。女性なら誰でもいいって』


「それで,またやり直せるのか?」


『勿論。君のダンスをじゃあ楽しく見させてもらおうかな』


「信じていいのか」


『結構疑い深いね。まあそれが君のいい所なんだけど』


「…じゃあ行ってくる」


『いってらっしゃい。心配しないで,私はいつでもここにいるから』


そう言う彼女は笑っていた。




「千夏先生!千夏先生!」

俺は息が切れそうになるのを必死に堪えながら何度も千夏先生が住む303号室のドアを叩いた。ドンドンと大きな鈍い音が鳴り,周囲に住むマンションの住人が不快そうに俺を見るがそんなのは気にならなかった。

今はただただ,千夏先生に会いたかった。

「千夏先生!千夏…」

勢いのあまりドアノブを掴むと,容易にドアノブは回転し,ドアはゆったりとした動作で奥へ進んでいった。どうやら鉤を閉めていなかったみたいだった。しかし中は真っ暗な闇。留守の可能性が頭の中に浮上してきたが,すぐに払拭して中に足を踏み入れた。人の気配だってしたのだ。

「千夏先生?」


キイ。キイ。


返事はない。ただ奥の部屋から甲高い音が定期的に響きわたるばかりである。俺は一瞬不安になるが失礼なことだと頭の片隅で知りながら靴を抜いで玄関の電気のスイッチを入れた。そして一歩二歩と奥の扉に足を運んでいく。

「…お,おい。千夏先生,い,いるんだったら返事くらいしてくれよ」

返事はない。俺が扉に手の平を当てると,俺の心臓の鼓動が急に大きな音で鳴りだした。訳のわからない不安が俺を襲ってくる。千夏先生に限ってそんな訳ねえだろ,何心配してんだよ俺。

空元気で扉に耳を近付けると,先程聞えた音がさらに繊細に聞こえた。


キイ。キイイ。


バッと扉を開けた。そしてすぐ近くの電気のスイッチの電源をつける。

そこで部屋の中央に吊り下げられたガスマントルが柔らかい光を生み出す。一瞬珍しい白熱灯の光に目を閉じるが,すぐに慣れてきて俺は周囲を見渡した。

「…千夏先生?」

千夏先生はいない。かわりに千夏先生が脱ぎ捨てたと思われる靴下やスカートが散らかっていた。右端には千夏先生の派手な色の下着も固めて置いてある。ひとまず安心すると,すぐに大きな羞恥心が芽生えてきた。自分は今20を過ぎた女性の一人ぐらしの家に入りこんでいるのだ。見た目がどうであろうとそうである以上,自分は今ここにいるべき存在ではないと急に感じてしまった。

それにしても,千夏先生こんな派手な下着を付けてたのか。またからかってやろうか…?

そうして帰ろうと後ろを向こうとした時。


キイ。キイイイ。


真後ろから先程の甲高い音がした。視線だって感じた。俺の動きが止まる。


キイ。キイ。


後ろで何かが揺れる気配がした。まるで何かに引っ張られているような音が先程から鳴っていたのだ。そういえば俺は先程後ろを向いていない。汗が止まることなく出てきた。

馬鹿な。

千夏先生がそんな。


キイ。キイ。


俺は固まって動かなくなった首をゆっくりと動かして後ろに向けた。そして俺は現実を目視した。


キイ。キイ。キイキイキイキイキイキイキイキイキイキイキイキイ。


「ひゃああああああああああッッ!!」


俺の後ろで千夏先生は首を吊って死んでいた。落ちついたように,長い睫を閉じながら息絶えている。しかし死後少し立っているにも関らず千夏先生の頬には確かな滴が残っていた。

千夏先生は死ぬ直前,この永遠のような深い闇の中で一人俺達と遊びにいった時の写真を握りしめ,


一人泣いていたのだった。


俺はそれからしばらく千夏先生を見つめた後,立ち上がってがむしゃらに走りだした。


一人になってしまったと心の中で実感しながら。




『あーら,残念。もうすでに時は遅し,か』


「…千夏先生,千夏先生が!」


『まあそうなってしまえばもう戻れないわね。このまま独りで生き続けるか,とっとと死ぬかは貴方自身で決めなさい』


「もう,その選択肢しかないのか?」


『ええ, そうね。助けてあげたくても私にはどうする事もできないわ』


「…なら,一つ願いがある」


『なーに?』


「俺と,踊ってくれないか」


『…』


「話している所から察すれば,お前はどうやら女性のようだ。俺と踊ってくれるなら,過去に戻れる」


『…私は傍観者なの』


「そ,そんなの関係ないッ!」


『そして,私は永遠に舞台の花になることは出来ない』


「…は?」


『私はそんな物体よ』


「な,何を言ってるんだよ」


『私は踊れないの』


「…」


『というより,この歪んだ世界に踊ることを許されていない存在よ』


「君は…」


『だから,貴方はもう戻れないわ。私と同じ歪んだ世界の住人になるしか手がない』


「そんなの…嫌だ」


『抗わないで。貴方が抗えば抗う程,歪んだ世界は貴方をさらに強く締付ける』


「嫌だ,嫌だ」


『大丈夫,私の元に来て。貴方は何も間違った事をしていないわ。私が必ず貴方を現状から救ってみせる』


「俺は,逃げるよ。独りで逃げる」


『だ,だから話を聞いて!』


「駄目なんだ。俺はもう嫌だ」


『昨斗くん,聞いて?』


「俺は…ッ!」


『待って!昨斗くん,話を聞いて!』


俺はただ走り続けた。

追ってくる何かを振り払いながら。

ただただ俺は目的地のないまま走り続けた。




「はぁはぁ…!」

俺は走り続けていた。息が切れてもただがむしゃらに手足を動かす。そこで交差点に辿り着くと俺はそこで腰をおろして息を整えた。

「なんでだよ…!なんでだよ…ッ!」

俺は地面を叩いた。手の甲に鈍い痛みが走る。そこで俺は涙を零した。

「どうしてみんな俺の側からいなくなってしまうんだよ…ッ!」

アリスの代わりに飛び出し事故死をした俊哉。

生徒二人の死により自殺死した千夏先生。

そして運命に抗うことが出来ずに消滅していったアリス。

誰もがこの歪んだ世界で死んでいった。

俺はそれに抵抗することもできなかった。

「アリス…アリス!」

周囲には烏の死体が散らばっていた。全部が全部あの時みた烏と酷似している。それがただただ腹立たしくて俺は何もない空に向かって叫んだ。

「俺が,何をしたっていうんだよ…ッ!何もしてないじゃねえか!千夏先生も,俊哉もアリスも何も犯しちゃいねえだろッ!それなのにどうして…どうして…ッ!」

俺は声の切れるまで叫び散らした。

「どうしてアリスはしななきゃならないんだよ!千夏先生だって,アリスだって何も悪いことはしてないじゃねえか…ッ!」

そう言い終わると俺はその場に崩れ落ちた。そして思いっきり地面を叩く。何度も何度も。

しかしこの現状が変わる様子など全く見られなかった。

ただただ,俺を嘲笑うような表情をした死後の烏が辺りに真っ赤な血の湖を作りながら散らばるばかりであった。

「アリス…アリス…」

俺は地面に顔を押し付けて泣いた。ずっとずっと,泣き続けた。

―――これはそんな時だった。


「…昨斗?」


俺の後ろから見覚えがある声がして俺は跳び跳ねるようにしてその方向を向く。そこには信じられない人物が不思議そうに俺を見ていた。


「アリス…なのか…?」


俺の前にアリスがいた。不思議そうに俺を見つめていた。

そして,真っ白なドレスを着ていた。

「馬鹿な… そんな馬鹿な…ッ!」

俺は自分の頬に手を当てた。それを見て目の前のアリスは嬉しそうに言った。

「どうかしたの昨斗。熱中症の類?」

「夢なら…覚めてくれ」

するとアリスは可愛らしく俺の頬をつねってみせた。

「何言ってるのよ。昨斗はまだ夢見心地なんじゃないの?」

「そんな…アリス,どうして…!」

アリスは首を傾げて言った。

「もしかして,私がいなくなっちゃう夢でも見たの?」

「…ッ!」

そうだ,そんなのは夢だったのだ。よくよく考えてみれば,夢だと言う方が余程辻褄があっていた。

踊れば過去に戻れるなんて,なんていう冗談なんだろうか。

今考えてみると,そんな事を必死に考えていた自分が馬鹿らしくなってきた。

そうだ,こんなの夢だったんだ。

「淋しい夢を見たんだ」

「どんな夢?」

俺は身振り手振りもつけて説明した。

「みんな,死んじゃうんだ。みんな俺をおいて,どんどん死んでいく。最後に残ったのは俺だけだった」

「そんな夢を見たの」

アリスはそう言って笑った。その笑みも,懐かしかった。

「…アリス」

「ねえ,昨斗。踊らない?」

アリスの急な提案に俺は肩をびくつかせた。しかしアリスの提案はごく平凡な物であった。

「…踊る?」

「うん,話した事なかったっけ?私,ずっと昨斗と踊る事が夢だったんだ」

「なんか,聞いたことはあるかも」

俺がそう言うと,アリスは口元に手を当てて微笑みながら言った。

「そして私はこのドレスを着て踊りたい」

「…そのドレスに何かの意味はあるのか?」

「昨斗はどう思う?」

アリスの質問に俺は落ちついて返答した。

「アリスのお気に入りのドレスなのか?」

「違うよ。そんな簡易な理由じゃない」

「…え?」

アリスは表情を崩さずに言う。そしてそれに俺が突っ込もうとすると,アリスは首を横に振った。

「そんな事知っても,昨斗にはなんの意味もないよね」

アリスは笑っていた。


「ただ今は,踊り続ければいいじゃない」


「…アリス」

「こっち,こっちだよ」

アリスは俺に手招きしながら後ろにさがっていく。俺はアリスに一歩二歩近付きながら呟いた。

「どこにいくんだよ,アリス」

「私達が存分に踊れる所だよ。行かないの?」

「なあ,アリス?」

俺がアリスを呼ぶとアリスは笑顔で俺を向いた。俺は言葉を続ける。

「アリスは俺がいなくなったら淋しいか?」

「何をいきなり?勿論淋しいわ」

アリスは急に足元を見て言った。

「…そんなの,自殺してしまうかもしれないわ」

「アリス」

「なんて,ね?えへへ」

俺はアリスを抱きしめた。アリスが俺の胸の中に収まる。そこで俺は小さな声で言った。

「もうどこにも行かないでくれ」

「…昨斗」

「俺は独りに耐えれない。アリスがいないと,もう…ッ!」

アリスは俺の言葉に微笑んで言った。


「心配しないで,昨斗。私はどこにも行かないわ。そしてこれからは昨斗は私から離れないでしょう?」


俺はアリスを見た。

「…アリス?」

「私,淋しかったの」

「…え?」

「昨斗,私から離れて行っちゃったから。それじゃあもう踊れないものね」

アリスは心から淋しそうに言った。俺は震える瞳で返事する。

「ち,違う!離れて行ったのはアリス,君じゃないか」

「私は離れてなんかいないよ。ずっとずっと,昨斗の側にいるもの。そう,今だって」

アリスの微笑みに寒気を感じて俺は周囲を見渡した。しかし俺の周囲はまるで夢のような何もない空白の世界だった。ただ,その世界で俺はアリスを抱いていた。

アリスは微笑んだまま小さくても確かな声で続けた。


「昨斗,だから私の側に戻って来てくれるよね?」


その言葉と同時に俺の視界が変わった。アリスはいない。そしてどうやらここは道路の中央の様だった。幻だったのだろうか,先程のものは。

そう思いながら幻想にいつまでも浸っていると,俺は直ぐ隣から聞こえたアラーム音によって我に返らされた。

それは特大で,俺はすぐにその正体が分かった。


そうだ,そうだったのだ。


大型トラックが道路の真ん中で突っ立っている俺に向かって走って来ていた。ブレーキはかけているようだったが,もう取り返しのつかない程にまで上がった速度を急速停止させることには全く及ばなかったらしい。


未来は変わらなかったんじゃない。


車はなんの躊躇もみせず,俺にぶつかろうとしていた。


『これでずっと離れないね。ずっとずっとずっとずっと,狂いながら二人で踊れるね』


俺がこの未来を求めていたんだ。


轢かれる直前,俺はこの歪んだ世界で小さく微笑んだ。

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