第三部 新世代人類創造計画
第三部 新世代人類創造計画
俺は木椀と匙を一旦脇に置いて、ユーリアを抱き締めた。背中をゆっくりとした調子で叩いて落ち着くように促す。
早い調子を刻んでいた心拍が、落ち着いていく。
それを感じた俺は抱擁を解くと、その手に木椀と匙を握らせた。
「俺は追手じゃない。ソヴィエトの手の人間じゃない。それは、信じてほしい」
ユーリアは青白くなった表情でうなずいた。
俺は外の足音が近くなっていることを感じると、一先ずはこの話題を終わらせた。
「色々あったとは思うけど、今はそのシチューを食べていれば良い。誰も咎めはしない」
言い終わって、体をストーブの方向へ向けた。言外に、話題の打ち切りを仄めかすためだ。
ユーリアはまだ青い顔をしていたが、シチューを一口食べると、幾らか調子が戻ってきたようで、ゆっくりと匙を口へと動かした。
「ただいま。いやあ、寒いね」
「だろうな」
「これだけ揃えれば十分かな?」
そう言ってプレハーノフが示したのは、数着の衣服と下着類、靴や鞄であった。どれも極東へ輸出されるため、EUのものと比べて質が良いとは言えないが、十分である。
今のユーリアの恰好は、一目でそれとわかる服装である。非常に耐寒性に乏しく、肌触りが悪い。下着に至っては、身につけているのかどうかすら怪しい。今は毛布とストーブの暖で気にならないかもしれないが、寝るために戻れば寒くて死にかけるだろう。実際、そのようにしてあの奴隷たちは骨と皮だけになっていったのだから。
俺はその荷物を抱えると、プレハーノフに暇を告げた。
「明日は動くからね。1日の遅れを取り戻さなきゃだから、ちょっと揺れるかもね」
「あの車輌はそのままか?」
「うん。安心してよ、2046年アメリカ製のディーゼルエンジンが二機だから。パワーでゴリ押しさ」
「全くもって安心できそうにないな」
50年前のエンジンで動いているとは驚きだ。
本当に、この列車には古美術品が多い。
*****
携帯用コンロ--凡そ1世紀の長きにわたって人々に愛用される携帯調理器具。
俺がいつも持って歩くコンロも大概古いものだが、それでも動いているぶんには使い続けるつもりだ。動くのに替えるのは金持ちだけだ。
そのコンロの上に、これまた年代物の携帯鍋を置いて、火をかけて数分、水は程よく温まり、湯になっていた。
「体を拭け。病気の原因になる」
手拭いをその湯に浸して絞り、温かい状態でユーリアに手渡す。
あれ以来、やや距離を取るようになったユーリアはそれでも手拭いを受け取る時に謝意を言葉にしてくれた。
簡単な衣服を脱ぎ去ったユーリアの背中は、驚くほど細かった。背中側でも肋が浮いている。腰にかけての丸みは若干あるものの、それでも十代後半の一番脂の乗る時期にこの様子ではかなりよろしくない。
あまりジロジロ見るのも落ち着かないだろうと思い、自分も体を簡単に拭う。
静かな車内に、布擦れの音だけが沈んでいく。
俺は体を拭いながら、思考を続けていた。
新世代人類創造計画。
ロシア。
ソヴィエト。
ユーリア。
そして、自分自身。
何か、目に見えないほどの糸で繋がれているような気がするが、根拠が見えない。俺は一切その類を信じないが、それでもユーリアと出会ったのは偶然ではない気がするのだ。
基礎から確認しよう。
ソヴィエトとは、ロシア地方モスクワを本拠とする共産主義勢力のことだ。世界中に拠点を持ち、下部組織は資本主義で固められた大西洋沿岸地域にも存在する。
新世代人類創造計画とは、そのソヴィエトが実施した人間兵器製造実験計画のことであり、2089年に始まった。
だが、2092年の第三世代と呼ばれるところで終了したはずであり、ユーリアくらいの人間が対象になるかと言えば際どいところである。
これは、内部器官を部分的に機械に置き換えることで、《素粒子干渉能力》を得ようとする計画である。外科手術に耐え得る体力と精神力が必要なため、多くは成人が対象になった。勿論、未成年者も対象にはなったが、その絶対数は極めて少ない。
《素粒子干渉能力》とは、大気中地中問わず、凡ゆる粒子に対して任意の操作を行う能力である。ソヴィエトだけでなく、資本主義の諸研究所でも研究が進んでいるが、ソヴィエトはこれを大量の奴隷を投入し、人海戦術で解決しようとしている。
現在でも、何かしら操作をされた人間しか能力を得られないのが現実である。
能力を行使する時には、独特の光で空気中に干渉式を描く必要があり、見ているだけなら魔法と見間違うものである。言って仕舞えば、『魔法もどき』である。
ユーリアが俺の頬の傷を治したのも、《素粒子干渉能力》によるものだ。
だが当然、自然はそのような自分勝手な暴挙を許すはずがない。
それを打ち消そうとするように、《反干渉物質》と呼ばれる物質が、干渉者とその周辺空間に生成される。
この《反干渉物質》は、《素粒子干渉能力》を持つ人間にのみ作用することがソヴィエトでは知られており、これは人体に極めて有害である。なにより、人によってその影響がてんでバラバラであるから厄介である。
俺は首を二、三度振って、止めどない思考を振り切った。今考えても、答えの出るものではない。
「ユーリア、お前がどこから来たとか、何者であるかなんて、今聞くつもりはない。けど、いつかは聞かせてくれ」
とうに体を拭い終えていたユーリアは、そう言った俺に頷いて見せた。
「ああ、それと--」
俺は思いついたことを直ぐに実行に移した。
空中に左手の人差し指で、謎の模様--干渉式を描いた。
光の軌跡で描かれたそれは、収束してひとつの光の塊になる。
車内は明るく照らされる。
「--俺も同類だ」
*****
ゴンッ--ミシミシッ--。
慣性力に従って、毛布で簀巻き状態の俺は夢現つのままごろごろと車内を転がり--。
「むぎゅっ」
柔らかい毛布の塊にぶつかった。
毛布の塊は俺と積荷に挟まれる恰好になり、なんとも可愛らしい悲鳴が上がった。
「お、おはようございます……」
「…………おはよう。随分早い出発だな」
まだ車窓から見える空は深い藍色を湛えている。
プレハーノフは早めに遅れを取り戻そうとするようだ。
「…………朝には変わりねえか」
毛布を取っ払うのが非常に億劫だ。
「なんかもう、このままでいいか」
「…………それはダメな気が」
「気にしたら負けだ。どうせ誰も気にしねえ」
「…………そうですか」
かなり至近距離で互いの毛布から唯一飛び出た顔を突き合わせる。ユーリアの表情は呆れに近い。
なんだ、ずぼらで悪いか。
蓑虫状態から、両腕を外に出し、ごろごろと転がって荷物を漁る。
カラコロと音を立てたのは、絶賛美味しくないと評判の缶詰だった。一切停留しないシベリヤ鉄道の旅に於いて活躍するのが缶詰だ。
とは言え、開発当初には“食べられる”だけで喜ばれたのだ。味が良かろうが悪かろうが、腹に入れば一緒である。空腹感を満たせられればそれで十分なのだ。尤も、多少余分に持っているとはいえ二人分もないわけで。
しかし、昨晩のユーリアの背中の影を思い返せば、俺の腹事情が優先されるというわけもない。
一食缶詰二つ。これが当初の予定である。すなわち、一日3食が7日。備蓄を含めて47の缶詰が荷袋には入れられている。
俺は二つの蓋を缶切りで開ける--昨今缶切りが使える人間は少ない--と、取り敢えず一つをユーリアに渡した。
「飯だ。ウラジオストックまでは缶詰だからな」
「…………あ、ありがとうございます……」
オーソドックスなツナ缶を小さなスプーンでつついたユーリアだったが、その油に顔を顰めた。
「油は切れよ」
「あい」
もぞもぞと立ち上がると、ユーリアは、経年劣化で渋くなった窓を力一杯に開け放つと、その寒風に長い髪をたなびかせた。
「…………寒ぃ……」
そう言って洟をすすりながら、ツナ缶の油を切っていた。
缶切りを使える若者が一体どれほどいるのでしょうか……。